5.4
「今日こそ陸上部に入ってもらうわよ!」
部活の会議で少し遅れて井澤さんが屋上に来た。お昼はもう食べたのだろうか。
でも、あいかわらず元気そうだから大丈夫だろう。
井澤さんが正式に女子陸上部の方の部長になったらしい。そのせいか若干張り切っているように思える。なんだか、すごいなぁと思う。私とはポテンシャルが違いすぎる。
「いくら才能があっても3年になってからじゃどう考えても遅すぎるわ。だから、今陸上をやるのがギリギリなのよ。ねぇ、分かってるの?」
だから、としがみつく井澤さんに息を吐く春樹。
「大概しつこい。いくらいっても部活なんてやるつもりない」
「なによ、他にすることないくせに」
おお、言うなぁ井澤さん。
基本的に怖いものなしだな。こういう風に私も春樹をあしらえたらいいんだけどな。
「そうだよ新垣君、折角の高校生活なんだから今からでも部活して充実させてみるのも悪くないと思うよ。なんなら新聞部なんてどう?」
隣の篠原も便乗する。
本気でやめてほしい。さっきのこともあるし無駄に春樹の神経逆撫でしないでほしい。心臓に悪いし。
っていうか篠原は何を考えているんだ。この男が井澤さんのように純粋にそう思っているとは到底思えないのだ。なにか意図があると思うのだが、全く分からない。
「だめよ、そこは陸上部で!あんたは絶対才能があるんだから。私が保障してもいい!」
井澤さんの零れそうなほどの大きな目は、ただひたすら光り輝いている。
その声色も真っ直ぐで心の奥底からそう言っていることが私にも分かる。
「どっちも興味ないから」
井澤さんの腕を振りほどきつつ拒絶の言葉を口にする。
そして、春樹がふと此方に目を向けた。
なななななんでしょうか。
春樹が何が言いたいのか分からず、私は困惑して目を逸らせた。
「それにすることが無い訳じゃない」
そう言葉を付け足した。
春樹はなにをするのだろう。何一つ思いつかない。うーん、謎だ。
会話からはずれている私はお弁当箱に最後一つ残っているミニトマトを口に放り込んだ。私はミニトマトはデザートだと見ているのだ。
「またそんな嘘をついて!新垣あんた今日見学に来なさいよ、絶対その気にさせてあげるから」
「誰がいくか、そんなの」
春樹を指さす井澤さんに怒るでもなく冷静に受け流している。
「そういえば、島崎ちゃんも帰宅部だよねぇ」
篠原がいきなりこちらに話を振ってきた。
「暇なら今からでも部活入ろうとか思わない?例えば新聞部とか。前から島崎ちゃんって向いてると思ってたんだ。目上の人と話す練習にもなるし、正しくて分りやすい日本語使うようにするから文章も書けるようになるよ」
意外な所から勧誘。
篠原がなぜかにやにやしながらにじり寄ってくる。
「いや、とても私なんかができなるとは思わないよ」
「活動は簡単だし慣れたら楽だよ。僕もアシストできるし」
確かに知り合いがいるってことは大きいかもしれない。うーん、いままで部活やらなかったのは何となく入り損ねただけだしなぁ。少し考えてみてもいいのかもしれない。
「…いや、見学してもいい」
春樹が私を捕まえて引き寄せて、急にそんな事を言った。
そして次の瞬間思いもよらない一言を告げる、
「真琴もいるなら行ってもいい」
なぜ此方を巻き込む。
私がいようといなかろうと別に何がある訳じゃないだろうに。
「もちろん来てくれるよね、真琴!」
そんな顔で迫られたらもう断れない。
まぁ、暇だし。放課後まで春樹に会わなければならないのが少し気が重いけど。
■■■■
日の落ちるのが早くなってきた。
屋外にいればなおさらそれを感じる。まだ日が沈んではないが大分低い位置にある。
グラウンドは複数の部活動で割り切られており、陸上部はグラウンドの校舎側が定位置らしい。男女合わせると意外と部員は多い。皆、春樹を見つけて一様にぎょっとした顔をする。此方を見ながら小声で何やら話している人もいる。
隣の私は完全に空気だ。目立たなくてよかった。
「よしよしちゃんと来たわね」
校名付きのランニングシャツを着た井澤さんが満足そうにそう行って部員の方に振り返る。
行かない選択肢もあったといえばあるが、井澤さんと約束した手前破ることができず春樹が教室まで何故か迎えにきたので普通に見学に参加してしまった。でも私別にいらなくない?
「今日は見学者がいるけど、気にせずいつもどおりすること」
井澤さんの発言にざわめきが広がる。
「え、なにあの新垣春樹がウチに入ってくるのか?」
「新垣がいればウチの陸上部も百人力じゃないか」
「でも個人戦がな~。どうしよう新垣と種目被ったら」
「春樹君と同じ部活なんて夢みたい!」
「嬉しすぎて死にそう~」
私が聞き取れたたのはそういう類の声だった。まだ、入ると言ったわけじゃないのに。なんか今更ただの冷やかしですとか言えない雰囲気になってない?入るつもりないのに見学なんてしてよかったのだろうか。
やる気がないのならなぜ見学に行かない方が断然いい。ならば結構入部に結構乗り気ということだろうか。
かと思えば練習が始まって、参加することなく春樹はベンチに座った。私もその隣に座ってみる。
部活動見学ってもっとちゃんと積極的に練習に参加してみたりしなくていいんだろうか。私はどうみても向いてないが参加するつもりはないんだけど。
くちゅん、とくしゃみをする音が聞こえた。ふいに。
私ではない。こんな可愛らしいクシャミは。結構近くで聞こえた。例えば隣で。
じゃあ、今のは春樹か。いやいやあまりにも似合わな過ぎる。こんな魔王みたいな男がくしゃみだけはえらく可愛らしいとか。近くの他の誰かがしたんだろう。それか空耳か。
「春樹君~」
何人かの女子部員が春樹を呼ぶ。それに春樹は軽く手をあげて応えると、女子達からは黄色い悲鳴が聞こえた。
人気者っぷりは健在だ。最近は石川さん達が春樹の近くにいないのでそういう印象は薄れてたけど。というかあの時、石川さんに本性を見せてよかったのだろうか。鬱陶しがりながらもあんなに猫をかぶっていたのに。
「口開いてる」
という言葉が隣から発せられたと思ったら、口の中に何かを突っ込まれた。慌てて春樹の方に向き直ると、奴はなにやら口角を上げてにやついていていた。
「いい加減間抜け面すぎるから閉じれば?口に指入れるぞ」
そういうことは指を突っ込む前に言わないか、普通。
口が開いてたのは十分理解したから早く抜いてくれないか。
何故どんどん奥にねじ込もうとする。えずきそう。うえっ。苦しくて生理的な涙が出てくる。
「エロいな…」
一人言のように春樹が言った。その発言はどうかと思う。
なんだよ、何がしたいんだ。そんな変態プレイに付き合わせないでほしい。
春樹の手を引き離して仰け反って避けようとしたが、春樹の手の力は私の両手で叶わないほど強くてもう片方の手に後頭部を掴まれて逃げられない。
そもそも、こんな人前でなにやってるんだよ私達は。
「なにやってんの!?」
井澤さんの声がしたかと思うと、何か冷たいものが肌に飛び散る感じがした。目に入りそうになって思わず瞑ってしまう。
指が引き抜かれる感覚があって目を開くとびしょ濡れになっている春樹がいた。
えぇえええええ、どうしてそうなった。
井澤さんの方を見ると蓋の開いたプラスチックの容器を手に持っている。
ああ、その中身が…。
いやいやそんなことする前に他に何か選択肢あっただろう。
なんでいきなり実力行使に出る。
「あ、あの大丈夫…?」
制服のポケットに丁度タオル地のハンカチがあったので春樹の顔を拭いていやる。何か言われるかと怖かったが、特になにも言われなかった。
「なにやってんの、新垣。いちゃつくなら余所でやってくれる?」
井澤さんが怒るのも無理はない。
練習も見てるだけだし真面目に見てたわけでもないし、人の口に指を突っ込むし。っていうか、これがいちゃついているように見えたのだろうか。
春樹が立ち上がり、やっぱり怒ったのかと戦慄する。
もし井澤さんに手をあげるようなことがあれば、たとえとばっちりを受けようとも止めなければ。
「わかった」
春樹はそう一言言っただけだった。え、何が分かったの?
「行くぞ」
腕を引かれて、そのまま歩き出した春樹に付いていく形になる。
い、いいのか。こんな状態で抜けてしまった。
「ちょっと新垣!」
背後で井澤さんの声がする。春樹は足を止め振り返る。
「余所に行けと言ったのはあんただろ。それにいいのか、部長が油を売ってて」
「新垣」
まだ何か言いたげな井澤さんをよそに春樹は踵を返す。
その様子は全く未練がなさそうで、なら何故見学に来たと思わずにはいられなかった。




