3.5
それから春樹は妙に上機嫌だった。
それはもう、ちょっと気持ちが悪いくらい。
「これ島崎に似てないか」
と言って、今は水槽のカブトガニを指差している。
そして何かを期待するような目をしている気がするのは私だけだろうか。
そして、カブトガニって…。
ここは普通ならば怒る所なんだろうが混乱して生憎私はそれどころではない。
「ほら、この目があるんだか無いんだか分からない所とか」
怖い。
なんかその柔らかすぎる笑顔が怖いんですけど。
高校生になってまともに見たおそらく初めての本物の笑顔なのに、ときめくより早く恐怖を感じさせるなんてさすが春樹。
「やっぱりこっちのイモリの方が島崎らしいか。陰気くさい所が」
そして、チラッとキラキラ輝く目でこちらを見やる。そんな目をされても冷や汗が出るだけでどうすればいいか分からない。
…これは新手の嫌がらせなんだろうか。
口答えなんかした私が全て悪いのか。
土下座でもしてどうにか許していただこうと迷っていた私だったが、その時。
ぐぅうううううう。
私のお腹から素人が鳴らしたバイオリンみたいな音が出た。
最悪だ…。
今更どうにもできやしないのに、私は思わずお腹を押さえた。
そんなに長くいる予定がなかったからお昼を抜いてきた私が悪かった。鳴ってしまったものは今更どうにもできやしないし、春樹にスルーを求めるのは無茶というものだ。
『何て音出してんの、グズ。耳が腐る所だったじゃん。責任取って死ねよ』
こんな感じの暴言が吐かれる、そう確信して身構えていたのに。
「腹減ってるのか。俺も食ってないから、これから食うか」
「は?」
「だから何か食いに行くかって聞いてるんだけど。大丈夫か、耳」
大丈夫かと聞きたいのは此方だ。
誰だ、お前。
まさか春樹に変装した誰かなのか。
私はもしかして大掛かりなドッキリを仕掛けられているのか。
ああ、と春樹(仮)が言葉を続ける。
「それともイルカショーでも見てからにするか。今ならまだ始まったばかりだし」
宇宙人に改造された説と通りすがりのマジシャンに催眠術をかけられている説が私の中で浮かび上がってきた。
「う、うん」
どうやって春樹を病院に連れて行けばいいのかで頭がいっぱいで適当に頷いてしまった。
「わかった、なら早く行くぞ」
ごく自然な仕草で手を引かれた。
けれどやっぱり何かおかしい。
いつもみたいに私のことなんかお構い無しに引きずるみたいな強さが無い。
私の方も抵抗を忘れて、ただ春樹についていくだけだった。
一階にはなぜか人がたくさんいた。イルカショーにいった人はそんなに多くなかったのだろうか。
春樹に女の子がぶつかった。
女の子は高校生くらいに見えた。となりに友達らしき女の子が一人いた。
あ、デジャブ。
そう思った。
水族館に入る直前のことを思い出す。
この子も春樹を誘いだすんだろう。
私を邪魔者みたいに見下して。
――――あんたなんかいなくなっちゃえばいいんだ。
――――春樹君に全然似合ってないよ。
――――真琴ちゃんに付きまとわれて春樹君かわいそう。
だから嫌なんだ。春樹と一緒にいるのは。
どうして私がこんな扱いを受けなければならないんだ。
「あ、ごめんなさい」
だが、女の子はあっさりと謝っただけだった。
そして簡単に退けた。
ああ、そうか。
薄暗いからか。軽く見ただけでは顔はよく見えない。
春樹はただの17歳の男子なだけ。
「…良かった」
春樹にも聞こえないような小さな声で一人呟いた。
ここが水族館で良かった。
「いいな~、彼氏と来てる」
「あー、私も彼氏ほしーい」
後ろでそんな声がした。
本当に、水族館で良かった。
だって私の今の顔は誰にも見られたくなかったから。
■■■■
ロビーに出てみて納得した。
どうして一階に人があんなにいたのか。
「雨…」
外は滝のように雨が降っていた。入る時はあんなに晴れていたのに。天気雨か?
フレディ君のイルカショーは一時間延長します、という貼り紙がある。
「一時間待つ?それとも」
春樹が隣で何かいいかけた瞬間。
視界が一瞬白黒して、遅れて凄まじい轟音が聞こえた。
驚いて思わず身がすくむ。
未だに雷は苦手だ。
まぁ、得意な人はいないと思うけど。
突然腕を引かれた。
私の鼻息が聞こえそうなくらいの至近距離。
春樹は私の肩に置いた。
また新しい扱いに心臓を吐きそうになった。
「大丈夫か。お前、雷嫌いだっただろ」
確かにそう言った。
何で、と掠れてしまった声で喘ぐように呟く。
ナンデソンナ。
前から知っているみたいな言い方。
見上げた春樹の顔は、私がおかしなことを言って呆れているような表情をしている。
知っているみたいな、じゃなくて知っているのだ。
私はやっと理解する。
「…もしかして、新垣君って、私のこと覚えて、る?」
それでもやっぱりただの勘違いだと思いたくて、私は震える声で聞いてみた。
「なに言ってるの」
春樹は少し笑って。
死刑宣告を言い渡す。
「いつ忘れたって言った?
お前を忘れたことなんか一秒だってないのに。なぁ、真琴?」
また、雷が落ちた音がした。
今度はすぐ近くに落ちたかもしれない。




