第101話 責任の所在 *
*三人称視点 (アリスティーナ・ラムズ side)
商人の娘アリスティーナは、机を挟んで正面に座るラムズを訝しげに見つめた。
二人はハイマー王国の首都ベルンの、ある宿屋の一階にいた。一階は居酒屋になっているが、今がまだ昼過ぎだからか客は少ない。
──アリスティーナ。
メアリやラムズがベルンの冒険者ギルドに寄った時、ラムズに「海賊にしてくれ」と詰め寄った少女だ。
初めは女の魅力でラムズに取り入ろうとしたが、易々と演技を見破られてしまう。
そのあと、アリスティーナは居酒屋で偶然メアリと再会し、心を通わせた。会った時間は短かったが、アリスティーナはメアリをかなり気に入っていた。人魚の噂を消すという約束も、メアリたちがいないあいだしっかり果たしていた。
アリスティーナの正面、ラムズは足を組んで椅子に座っている。背もたれに寄りかかって、赤ワインを一口飲む。自分の愛している者がラミアに奪われたにしては、悠々とした表情をしている。
今だって、ラムズが「暇だからチェスをしよう」と言い出したのだ。机の上には、アリスティーナが仕入れてきたチェスゲームの盤が置いてある。
アリスティーナは歩兵を一つ動かした。
メアリがいなくなっておよそ一ヶ月。初めは彼女が連れ去られたことに怒り狂っていたラムズだったが、今はもう平常心を取り戻しているようだった。
アリスティーナは机の下を見た。
──長い金の綱。
一ヶ月間、寝る間も惜しんで皆が手編みで作ったものだ。
だがそれでも、メアリが今いないことに少しくらいは焦りを見せていてもいいはずだ。
金の綱はできあがったのに、ラムズはどうしてこうも落ち着いていられるのだろう。「一刻も早くメアリを救い出しに行こう」と叫ぶのが、彼女を愛する者の行動ではないだろうか。
いくら運命で明後日銀の森に出掛けることに決まっていたとしても、あまりに平静すぎる。
ラムズが銀の塔のある銀の森からここベルンに帰ってきたあと、アリスティーナは彼と落ち合った。得意の情報網を使って、ラムズを探し出したのだ。そしてこの『金の綱作り』にも、彼女は大きく貢献した。
既に海賊になるという約束は取り付けた。初めは嫌そうにしていたラムズだったが、アリスティーナの生い立ちや兄探しの話などを聞いて興味を引かれたようだった。
ラムズがアリスティーナの白い城を取る。
これで城は、もう両方取られた。彼女は紫の髪をばさりと払って、ラムズに睨みを効かせる。
「ねえ、船長。メアリが連れ去られたっていうのに、どうしてそんな余裕かましてられんだよ」
「実際余裕だからな。あとは塔に行くだけだ」
「そうだけど、ソワソワするとか、いても立ってもいられないとか、そういうのあんだろ?!」
アリスティーナは脅すように足をだんと鳴らす。このままだと、チェスはまた負けそうだ。だがイライラするのはそのせいだけじゃない。
メアリがいなくなってから、アリスティーナは気が気じゃなかった。
ラムズに言わせれば、アヴィルはメアリに酷いことをしているらしい。無理やりキスをするとか、襲うだとか、それ以上のこともしているかもしれない。
『ラミアのアヴィルが短期間でメアリに好かれるよう仕向けるには、そうするしかねえからな』
ラムズは余裕を持った声でそう語っていた。
初めは、キスくらいなら耐えられるとアリスティーナは思ったが、すぐに思い直した。メアリにとってキスはただのキスではない。人間でいえば性行為だ。
つまりメアリは相当辛い思いをするわけで、一も二もなく彼女を救い出しに行くべきだ。
ラムズは淡々と言葉を返した。
「だがメアリは強いだろ。今まで人魚として散々人間に狙われてきたし、こういったことには慣れてんじゃねえか? なぜそこまで心配する?」
他使族だからか男だからか、ラムズには分からないらしい。
たしかにメアリは勝気な性格で、気も強い。戦いにも慣れていて、自分の命が奪われそうになったこともある。
だが、やはり女の子だ。自分と同じ“女の子”。
そしてもしメアリが、アリスティーナと同様の“女の子らしさ”も持ち合わせているなら、ほとんど強姦されたようなメアリは、トラウマと恐怖に相当苛まれているだろう。
「殺人と強姦の恐怖は、全然違うよ。そりゃああんたは男で、人間でもないからそういう恐怖を味わったことがないのかもしれないけどさ、ヴァニラにでも聞いてみたらいい」
「ヴァニラ? あいつじゃダメだな。聞いてもいいが、どうせ酒がもらえればなんでもいいとしか言わん」
少し納得してしまった自分が悔しい。でも、たしかにヴァニラも相当変わっている。
ラムズは続けて言った。
「だが、メアリは少なくとも二年も陸で暮らしてるだろ。人魚として襲われる目に遭うのと、女として犯される目に遭うことは、同じように『これがこの世界だ』って割り切れることじゃねえのか?」
「たしかにメアリは、自分の身は自分で守れるようにしてたみたいだな。だけど、それとこれとは違う。命を狙われることと、貞操を狙われることの恐怖は、全くベクトルが違うんだよ」
ラムズは背もたれに体を預けて、ゆっくりと頷いた。
「ベクトルねえ」
「殺人は体を刺される恐怖だろ。すると強姦は──精神を刺される恐怖って感じかな。多くの女の子にとって、貞操は大事だよ」
「……はあ、なるほど。じゃあ、初めて命を狙われた時も恐怖を感じトラウマを持つが、たとえその経験があっても、初めて強姦された時はまた違う恐怖を味わい、それも克服しないといけねえのか」
「少なくともあたしなら、そうだね。逆に言えば、普段から強姦まがいの行為に慣れている子だって、命が狙われたらパニックになると思う」
アリスティーナからすれば、メアリが恐怖に怯えていても何もおかしいとは思わない。
たとえ自分の力で自分を守るしかなくても、運が悪かったで済まされるとしても、体ではなく心を砕く“強姦”という行為を、今回メアリが冷静に対処できるとは思えなかった。
「貞操を奪われるのが嫌なのは、女だけか? 男は?」
「男も同じだとは思う。ただ、男を狙う女はそうそういないからね。ただの母数の問題でしょ。でも男で襲われたとなれば、むしろ『男なのに』とか『女に抵抗できないの?』とか、批判を受けるんだよな」
「俺もそう思ったが。男の方が力が強い場合が多いだろ? それなら襲われても抵抗すればいいじゃないか」
アリスティーナはゆっくりと首を振った。
「わたしは女だから全ての気持ちが分かるとは言わないけど、やっぱり違うと思う。もちろん抵抗できる男もいるだろうよ。だけど、それが当たり前だとか、できない男がクズだとかは、あたしは思わないね」
もちろんこの考え方自体、アリスティーナ自身のものでしかない。他の考えが正しいこともあるのだろう。
それでも彼女はやはり、ラムズのように、メアリが果敢にアヴィルに抵抗し、戦い、勝利を収めているとは思えなかった。むしろ心を犯され、悲嘆に暮れているのが普通だとすら思った。
だが、ここまで聞いてもラムズは何も思わないらしい。
たとえアリスティーナの考えに賛成できなくても、メアリが好きなら、もっとアヴィルに腹を立てたり、彼女が酷い目に遭っていることに悲しんだりしているはずだ。
そして、これだけ苦しんでいる彼女を、急いで助けに行くべきなのに。
アリスティーナはチェス盤を見て、白の騎士を黒の歩兵の横に動かす。不機嫌そうな声で、言葉を投げた。
「やっぱり船長、メアリのことなんて好きじゃないんだろ。普通だったらもっと怒ってるはずだ」
「またその話かよ。さっきの話はともかく、俺は人間とは違う。人間の物差しで『怒るべき』と言われても困る」
「じゃあ教えてくれよ、あんたの愛し方ってのをさ」
「そもそも俺は、メアリがいなくなった時は怒ってたぜ? 連れ去られて怒らないわけがない」
「じゃあ今は? メアリは今も酷い目に遭ってるっていうのに、全然気にしてないような素振りじゃんか。その説明だってしたのに」
ラムズは赤ワインを飲んで、黒の騎士を動かした。青い瞳をぐるりと回して、あどけなく笑う。
「気にならねえからな」
「そこがおかしいんだってば! ふつう好きな女の子が誰かにキスされたら嫌だろ?」
「別に。俺はキスなんてどうだっていいんだ。例えばアリスティーナ、お前は好きな男が、他の女と話してたら嫌だと思うか?」
「嫌だと思う人間もいるだろうけど、あたしはそんくらいじゃ別になんにも」
アリスティーナは手をひらひら振って答えた。チェス盤に視線を移す。
「俺にとってキスはそんなもんだ。アリスは好きな男が誰かと話してても何も思わねえんだろ。俺もメアリがキスしてても何も思わない」
「それ、マジで言ってんの?」
アリスティーナは腰を椅子から浮かせて、ぐいっとラムズの方に顔を寄せた。ラムズは笑って言う。
「マジだけど」
彼女の言葉をわざと真似て返し、続けて言った。
「そもそも、アヴィルだって仕方なくやってんだからな。俺が怒る義理はない。むしろ同情するくらいだ」
「ハア? 自分の女を連れ去った男に同情だって? あんたどうかしてんじゃないの?」
「うるさいやつだな、ほんとに」
目線で離れるようにラムズが伝えると、アリスティーナは渋々自分の椅子に座り直した。ラムズは黒の僧正を動かし、愉悦を滲ませた声で言う。
「どう考えたってメアリがアヴィルを愛することはねえし、アヴィルとメアリが結ばれることもないんだ。本当にアヴィルがメアリを好きになってるんだとしたら、これほど愉快な話はない」
「愉快?」
ラムズはワインを口に含む。グラスの中で、カランと氷が音を立てた。
「俺は運命に縛られてる、それは言ったな?」
「あぁ。時の神ミラームが創造に関わった使族なんだろ。ラミアもか」
「そうだ。俺はメアリを連れ戻したい。それは俺の意志でもあり、運命でもある」
「うんうん、そこは分かるよ」
「けど、アヴィルは連れ戻されたくないし、愛されたい」
「まぁラミアだもんね。いんじゃない? そんで?」
「俺の準備がこうして整ってる時点で、メアリが戻ってくることはもうほぼ確実だ。つまり運命として、メアリがアヴィルの元を去るのは決まってる」
アリスティーナは少しだけ首を傾げた。歩兵を動かしたが、ラムズの駒は何も取れない。
メアリがアヴィルのことを好きじゃないなら、たしかに彼女は塔から出るのに賛成するだろう。アヴィルは抵抗するかもしれないが、そこはラムズが上手くやってくれるはず。ラムズがアヴィルに殺されるという展開も、彼の様子を見るにおそらくない。
ということは、メアリはたしかに戻ってくるのかもしれない。
アリスティーナはとりあえずそういうことにして、ラムズの言葉を待った。
「アヴィルは俺が迎えに来ることを知らない。だが、運命は知ってる。ラミアだからな。つまりアヴィルは、『何が起こるかは分からないが、とにかくなるべく早くメアリに愛されたい、愛されなきゃいけない』という運命を感じているはずだ」
「はぁ、なるほど。もしラムズがいなかったら、アヴィルはそうはならなかったってわけ?」
ラムズは頷いて、興味深そうにアリスティーナを見る。チラリとチェス盤を見て、彼女の僧正を弾く。
「賢い賢い。アヴィルは、俺という存在がいながらメアリを好きになったところから、既に運が尽きてたんだ。もし俺がメアリを好きじゃなかったら、メアリが誰かに取り戻されることはなかったかもしれない。つまりアヴィルは、急いでメアリに愛されるよう仕向ける必要はなかった」
アリスティーナはコクコクと首を縦に振る。顎を摩って答えた。
「つまり、メアリに嫌がらせをして、自分を頼らせるようにしなくてすんだってこと?」
「そう。別にラミアは酷いことをするのが趣味な使族じゃねえからな」
「ラムズがいつか来ることを頭のどこかで分かっているからこそ、早いとこ自分のものにしようって本能的に思っちゃったってことか? それでメアリを酷い目に遭わせてるってこと?」
「ああ」
「けど……愛してる相手に酷いことなんてするか?! まずそこからおかしい。愛してたら優しくするべきでしょ。メアリの意思を尊重して、逃がしてあげるべきだ」
ラムズは息を吐いて、また迫っていたアリスティーナを手で払った。彼女は唇を尖らせて、行儀よく座る。
眼を奇妙に歪ませて、ラムズは言った。
「むしろお前がそこからおかしいんだ。ある男にも言ったがな」
ラムズはそこで彼女を盗み見るような目付きをする。歩兵を一つ動かしてから、言葉を続けた。
「自分の意志だけで生きられるのなんて、結局人間しかいねえんだよ。特にそれが重要な選択であればあるほど。俺たちは使族としての特徴や運命に縛られてるんだ。そこに意志はない」
「つまりアヴィルは、自分で望んで酷いことをしてるわけじゃないの? 逃がしたいのに逃せないの? 本当は望んでない?」
ラムズは嘲るように話した。
「さあ? 意志と特徴がどこまで繋がってんのか、俺には分からん」
拍子抜けするような返事に、アリスティーナは深い溜息を漏らした。
──意志と特徴。
つまり、例えばメアリが人魚だという誇りを持っているのは、彼女の性格や意志からなのか。それとも、使族としての特徴──“高潔さ”のせいでそう思わざるを得ないのか。
どこからが特徴でどこからが自分の意志なのか──。そういうことだろう。
アリスティーナはチェス盤を見た。このままだと本当に負ける。
「よく話しながらゲームができるね。こっちは頭がおかしくなりそう」
そう文句を言ったあと、白の王妃を動かした。ラムズにさっきの返事をする。
「ラムズがやってくる前に、アヴィルが愛されるよう努力するのは、意志であるとも言えるけど、運命や“束縛”としての特徴が働いているとも言えるってことか?」
「そうだ。だから俺はアヴィルを責められねえし、仕方ないと思ってる」
「へえ……。メアリを愛しているとは思えない発言ですけど、それは?」
アリスティーナは茶化すように言った。ラムズは僧正を動かす。やれやれと頭を振って、呆れた声で話す。
「さっきも言わなかったか? 別にメアリが何されても俺は何も思わねえんだよ。最終的に俺を選んでくれるなら、それでいい」
彼女は不審そうな目でラムズを見る。ゲームの方に思考を移し駒を動かしてから、独り言のように呟いた。
「愛が広いのか、それともないのか」
「これが俺だからな、仕方ない」
肩を竦めてラムズが言い、歩兵をとんと置いた。アリスティーナは首を横に振る。
「まぁ人間にも全くそういうやつがいないってわけじゃないし、そういうもんか。それにあんたの行動は逐一見てんだ。そん時はあたしも、ラムズの愛とやらについて納得したさ。ただ今のラムズが特におかしいってだけで──」
彼女は言葉を濁したあと、挑戦的な目でニヤッと笑った。咳払いをしてまた言う。
「じゃあもしラムズがいなかったら、アヴィルはメアリにどう接してたんだ?」
「ゆっくり待つだけだな。閉じ込めてはおくし世話はするだろうが、ただ好きになってもらうのを待つだけ。ラミアにとって『閉じ込める』っていうのは、人間が『恋人とデートをする』ってのと同じくらい自然なことだから」
「意味不明」
アリスティーナはそう吐き捨てる。ラムズはその返事を分かっていたのか、さほど表情は変わらない。彼女はラムズに強い視線を向けた。
「王手」
ラムズはやはり顔色一つ動かさない。まるでそうなることを分かっていたかのようだ。チラリとチェス盤を見たあと、歩兵を移動させた。アリスティーナはチッと舌を打ち、彼に言う。
「けどじゃ、アヴィルとメアリは本来は単に一緒に暮らすだけで済んだのか」
「そうだな。いずれアヴィルがメアリのことを好きじゃなくなるか、メアリがアヴィルを好きになるか、ってところだ」
「それなのにラムズがいるせいで、アヴィルは無理やり愛させようと努力する羽目になったわけね」
「ああ。そんなの成功しねえのにな? ご苦労なことだ」
ラムズはさも楽しそうに言う。アリスティーナは白い王妃を動かす。
本当に全く、ラムズはメアリのことを気にしていないようだ。
アリスティーナはまた怒りそうになったが、口を噤んだ。彼にとってはどうでもいいことなのだ。何度もそう言われた。理解できずとも、理解するしかないのだろう。
「ねえ、でも成功しないってなんで言い切れんの?」
「俺が時の神ミラームを信じてるから」
「なになに、どっかの宗教?」
「そういうわけじゃねえが、まあ似たようなもんだ。俺に不利なことは起こらない、世の中はそうやって回ってんだよ。王手」
ラムズは口の端を持ち上げる。自分が神になったとでも言いたげな顔だ。
世の中が完璧にラムズの思い通りになるはずがない。だがアリスティーナの王妃は消えている。ゲームの展開は絶望的だ。彼女は怪訝そうにラムズを見た。
「ま、俺のことはいい。とにかくそういうわけで、アヴィルは意味もなくメアリを恋に落とそうと必死に頑張ってるわけだ。俺からしたら滑稽だ」
アリスティーナの王妃の頭をくるくる撫でながら、彼女とは視線を合わさずに言った。アリスティーナはふうっと息を吐く。
「高みの見物って感じだね、もはや」
「ああ。滑稽だし、報われねえな。可哀想に。これらも全て、神に操られてるようなもんなんだから」
「神が悪ってこと?」
ラムズは手に持っていたワイングラスを揺らした。赤色の液体が回る。
「さあな。悪なんてねえよ。アヴィルも神も、別に悪じゃない。まあ、悪だと思ってもいいがな。その方がよっぽど楽だ」
「楽?」
「責任を誰かに押し付けられるんだから。メアリを思って胸が痛いのも、メアリが泣いてるのも苦しんでるのも、全部アヴィルのせい、神のせい。そうやって何かを悪にすれば、気分が晴れるだろ?」
「それは……まぁ、そうだね。実際あたしはアヴィルが酷いと思うし、その話を聞いたら神様が酷いと思ったし」
ラムズは頷いた。ことりと音を立てて、ワイングラスを机に置く。
「だが、どこにも悪なんてねえんだ。責任の所在はない。各々が、思うように、操られるままに生きているだけ。しいていうなら、人間の中だけには悪が存在するかもしれないがな」
アリスティーナはドキリとして、ラムズを見た。彼の騎士を取ったところだ。彼はぐにゃりと唇を傾けて嗤った。
「人間には意志がある。だが特徴はない。人間は何にでもなれ、どうとでも変われる」
嗜虐的な蒼の結晶が、チカチカとアリスティーナをかすめていく。
「人間サマは悪にも正義にもなれんだろ?」
「……あたしは、それを人間以外の使族に求めていたのか。アヴィルは意志があるはずだから、メアリを酷い目に遭わせない選択もあったって。メアリが好きなら手放すのが普通だって」
「そう。お前も人間だから仕方ない」
アリスティーナは俯いた。人間だからって、他の使族を全く理解できないのは悔しい。
人間は自分で悪の道を選択できる。メアリに酷いことをするか、手放すのかそばに置いておくのか、それを選択できる。
だがアヴィルにはそれができない。特徴と運命がそうさせない。
だからアヴィルは悪ではない。
それなら、ラミアをそのように創った神が悪なのだろうか?
だが、人間がキスをして愛情表現を示すのを誰も責めないように、ラミアがラミアらしく愛することを責めるのも間違っている。そしてそう創った神様だって、別に悪じゃない。
──悪はない。
アリスティーナはこの話はもうやめにして、ラムズへまたさっきの質問をすることにした。少し悩んだあと、白い王を動かした。
「けどさ、ラムズ。メアリが可哀想だとは思わないのか?」
「まあ、たしかに彼女の価値観を考えれば可哀想だと言えんな。けどメアリを可哀想だと思うのは、お前らだけで十分だろ。俺は、他人の気持ちを推し量って同情することはできない」
「同情? 船長さっき、アヴィルに同情するとか言ってたじゃんか」
ラムズは面倒臭そうな顔をして、軽い溜息を吐く。
「言葉のあやだ。あえて選ぶとすれば、アヴィルの方が理解しやすいというだけ。俺はキスされて嫌だとか襲われて嫌だっていう感情は持ったことがねえからな。だが……俺の宝石が他人に壊されたり削られたりしてると考えれば──。メアリは可哀想だな」
わざとらしく笑って、ラムズは黒い王を動かす。アリスティーナが今度は嘆息を漏らす。畳みかけるようにして言った。
「じゃあなんで何も思わないんだ? なんで急いで助けに行かないんだよ? キスされてること自体は気にしなくても、さ──。好きな女の子が悲しんでるんだよ?」
ラムズは席を立った。もう話すことはない、そう言いたいらしい。まだゲームも終わってないのに。
アリスティーナは立ち上がってラムズのコートを掴んだ。ラムズの死んだような眼が彼女を貫く。眼に光がない。今いる場所が暗いわけじゃないのに、青い目が闇に包まれているように見える。
ごくりと唾を飲んで、彼女は喉から声を絞り出した。
「……質問はこれで最後」
ラムズは銀の髪を無造作に掻き上げた。小首を傾げ、優しい眼に嗤笑を浮かべる。
「俺が正義の味方になれるから。それに」
アリスティーナがコートの裾を離す。ラムズは机に手を付いて、彼女の瞳を覗き込むように見る。
「最後に少しくらい、いい思いをさせてやったっていいだろ? 可哀想なアヴィルにな。チェックメイト」
彼女はチェス盤を見た。ゲームはもう終わっていた。
参照『愛殺―あいころ― 設定集』
・「用語説明―運命」
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