第100話 愛とは?
喉や首が痛い……。絞められたところが痛いよ……。わたしは力の入らない腕をなんとか動かして、指で喉を摩った。
「痛っ……」
──血がついてる。さっきネヴィルの爪が食い込んで、血が流れたのかな。ヒリヒリする。
アヴィルに戻ったのか、彼は呆気に捉えたような顔でわたしを見下ろしている。でもすぐに我に返って、わたしの身体を抱き起こした。
「大丈夫? どうした?」
「あ、アヴィル…………」
彼の前で座る。アヴィルは優しい目でわたしを見ている。さっきとは大違いだ。本当にネヴィルって何なの……。
目を伏せて少し考えた。ネヴィルは今もわたしのことを見ているってことだよね……。つまりわたしが好きって言わないと、また戻ってくるってこと……。
ピキキと何かにヒビが入って、そのままガラスが砕けるように壊れていった。煌めきを放ちながら、深く深く、落ちていく。
失われた自由。絶対に逃げられない塔。一生見ることのない海。
無理やり奪われたファーストキス。そして何度も侵されたわたしの貞操。
部屋の向こう側にあるはずの窓。
──そこから景色を眺めることは、もう一生ない。
サフィアとは出会える? 人魚に戻れる?
いいえ、それ以前の問題。
わたしは閉じ込められている。そしてもう、ここから出れない。少なくとも二年間はずっとこのまま。
海はここにはないんだ。
聞いたことがある。魔魚の中には、水槽に入れた途端に死んでしまうものがいるって。自由がないとわかったらすぐに、呼吸ができなくなる魚がいるって。
きっと人魚もそうなのだ。水槽に入れられた人魚なんて人魚じゃない。
人魚は海の世界で自由に泳ぎ、自由に生きる使族。海には陸のように法律もお金も犯罪も存在しない。ただ思うがままに生きていくだけ──。
でも閉じ込められたわたしは、きっとその魚みたいに、死んでいく。
だからきっともうこれしかない。
これ以上わたしがわたしであるための“何か”を奪われないように、わたしが変わるしかない。わたしが彼を好きになり、彼の愛を心地よいと思えるように──。
この空間が望んだものだと、わたしが選んだ未来だと、そう思えるようになれば──そうなればきっと……。
「アヴィル。わたし、好きだ、から……」
「好き? なんで急に? さっきまでは分かんねえっつってたじゃん」
「そう、だけど……」
「本当に好きなの? 俺が?」
「うん……アヴィルが好き……」
これがわたしの答え。
ただの逃げかもしれないし、諦めているのかもしれない。だけど、これ以上反抗して抵抗しても、どんどん雁字搦めになって辛いだけ。
海に会えないこと、閉じ込められていることに強い意識が向いて、気が狂ってしまう気がする。
それなら彼を好きになるしかない。愛する人のそばにいるんだと、そういう免罪符さえあれば、閉じ込められた環境でも生きていけるかもしれない。少なくとも残り二年なら、耐えられるかもしれない。
アヴィルはわたしの顔をじっと見ている。手を伸ばして、頬に触れた。
「泣いてる……。またネヴィルがやったのか?」
「そうね」
「俺もキスしていー? 俺のこと、好きになってくれたんだよな?」
「え、それは……」
「大丈夫。優しくするから。俺のになって。俺とキスして? ネヴィルとだけしかキスしてねえなんて、ずるいじゃん」
「そう、よね……」
これで拒否したら、またネヴィルが出てくるんだ……。もう決めたもの。それに、アヴィルとキスする方がまだマシよね。
「分かった、いいわよ」
これで、いいんだ。
アヴィルが本当にサフィアのことを探してくれるなら、もうそれでいい。だって怖いんだもの。自分を失うのが怖い、ネヴィルのせいで壊れていくのが怖い。
それに分からない。結局誰が好きかとか、どうして好きかとか、そんなの考えられない。
愛ってなんだろう。愛しているってなに? 何があれば愛っていうの?
わたしは間違ってる? このままアヴィルに身を委ねることは、間違っているの?
もうどうでもいいもの。人魚に戻れればいい。ラムズもアヴィルも知らない。キスだって本当は嫌だけど、もう、いいわ……。こうなる運命だったんだ。全てはわたしがいけない。人魚のままでいたら、誰かに襲われることもなかったものね。
わたしが初めにサフィアに恋をしたから、こんなことになっちゃったの。だからもう諦めるしか、ないわよね。
誰を好きになってもいいもの。アヴィルのことを好きになればいい。その方が楽。そうしたらアヴィルもネヴィルも満足するでしょ。何もかもが、上手くいくわよね? これが正解……よね。
ラムズのことを好きになる必要もないはず。彼が勝手にわたしのことを好きになったんだもの。抱きしめてくるのも、手の甲にキスするのも、勝手にされたこと……。わたしは知らない。もう知らないよ。
アヴィルはわたしの頬を掌で覆った。温かい手だ。震えていた鼓動が、知らないあいだに止んでいる。アヴィルがゆっくりと顔を下ろす。目をつぶった。
──そして、キスをした。
ネヴィルとは違って優しかった。触れるだけのキス。
柔らかい唇の感触、温度が伝わってくる。優しいキスだったおかげで、初めてキスをしたような気がした。
これなら、怖くない……。
彼の服をぎゅっと掴んだ。アヴィルがわたしを強く抱く。
「あ、アヴィル……」
「メアリ、大好き。愛してる」
「アヴィル、うん……。わたしも、好きよ」
──嘘じゃ、ない。これから本当にすればいい。アヴィルを好きになればいいの。そうすればよく分からない蟠りも消えるし、ネヴィルに苦しめられることもなくなる。
サフィアも探してくれるんだから、アヴィルのことを好きになって、それで幸せになればいいの……。
そう、サフィアよね。こんなことは早く忘れて、未来のことを考えなきゃ。
「ねえアヴィル。サフィアのこと、何か分かった?」
「髪の毛は金色で、碧眼だったよな。そういう見た目の貴族を今探してんだ。とりあえず一人いるにはいたんだけど……」
「え? そうなの? でもそっか、顔を見ないと……」
「そーそ。しかも名前が違えし、帝国の王子様だった。リジェガル・ファウストとかなんとか。あとで教える。けどさすがに王子はねえだろ? まーサフィアっつー名前も偽名の可能性はあるけどな」
「王子様……。偽名……そっか……」
──偽名、か。
演技とか偽名とか、結局何が本物なんだろう。
愛も、名前も、その個人も、性格も、どれが本当の姿なんだろう。
サフィアっていう名前は本名じゃなかったのかな。彼がわたしに優しくしてくれたのも、もしかして演技だったのかな。
ラムズも演技で、ラムズの名前も偽物? ラムズの性格はじゃあ、偽物なの? 今までわたしが見てきたラムズは、どこまでが本物?
──ううん、でもラムズはきっと本物だ。だって嘘で優しくなくするなんて、おかしいもの。
本物の愛ってあるのかな。そんな素敵な恋愛、お伽噺の中にしかないのかしら。お母さんやお父さんに聞いたような話でしか、出てこないのかもしれない。
人魚同士で愛し合っていたら、こんなことにはならなかったのかな。
ラムズやアヴィル、サフィアみたいな全く違う使族と恋愛をしたから、おかしなことになっちゃったの、かな……
(実際、異使族での恋愛はあんまり聞かない。まぁわたしがずっと海の中にいて、陸の話にそんなに詳しくないからかもしれないけど)。
「メアリ?」
急に頭上から声が振ってきて、意識を引き戻された。
「メアリ、大丈夫?」
「ええ……分からなくなっていただけ……。アヴィルのこと好きだから、大丈夫……」
「そう? ありがと。俺も愛してる。どこにも行くなよ」
アヴィルはわたしの身体を押して、そのまま横に寝転んだ。布団に入って、わたしは掛け布団に顔を埋める。アヴィルが近付いてきて、布団ごと抱きしめる。
「メアリ、本当にかわいい。ずっと俺のものでいて。いなくなんなよ。俺のものな」
「うん……」
ラムズも前にそんなこと言ってたな……。俺の宝石だとかなんとか。やっぱりラムズはわたしのことを、宝石としてしか見ていなかったのかな……。
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[メアリの日記・最終部 引用]
今になってどうしてアヴィルの話を思い出したのかは分からない。でも、ようやく気付いた答えをちゃんと書いておくべきだって思った。
だから、本当は忘れてしまいたかった思い出を、今からここに記していくわ。
~~
わたしがアヴィルに嘘の告白してから、二週間のあいだ恋人として過ごした(もちろん、二週間っていうのは今だから分かることで、その時は一生恋人になるつもりだったわ)。
といっても、変わったことはそんなにない。わたしがいつもよりも優しく返事をして、キスを受け入れるようになったくらい。あとは一緒に寝る時、必ず抱きしめられて寝るとか。
結局わたしは、アヴィルのことを好きにはなれなかった。惹かれることもなかった。ネヴィルのことを考えて拒否はしなかったけど、ずっと心につかえた棒は外れなかった。
いくら彼が愛の言葉を囁いても、優しく抱きしめても、キスをしても──。
その彼の愛全てに、どこか違和感があった。その度に、胸の中で灰色の燻りが渦巻いた。まるでわたしが嘘をついて彼を愛していたことを、誰かが責めているように。
そしてアヴィルも、ずっとそれに気付いていた。
彼はわたしのそんな思いに気付かないフリをして、わたしにちゃんと愛されているようなフリをした。
でも、ネヴィルはもう出てこなかった。ネヴィルは諦めたのかもしれない。わたしがアヴィルを本当に愛することはできないって、彼もそう思ったのかもしれない。いくらわたしを脅しても意味がないって。
その代わり、アヴィルは酷く私に優しくした。愛していた。その優しさは痛いくらいだった。優しくされるたびに、本当に愛せていないことに申し訳なくなった。
でもそれでも、どんなに申し訳なく思えても、それでも──。
やっぱり彼のことを愛せなかった。
二週間のあいだ、アヴィルは夜中にお酒を飲んで一人で泣いていた。ラミアはお酒に弱いんだって。なんだか声がかけられなくて、見守ることしかできなかった。
それでも、アヴィルはいつも笑ってわたしを愛してくれた。涙を見せるのは嫌だったのかもしれない。人魚のわたしと、ちょっと似てる。
もしかしたら、アヴィルはあの日のことを知っていたのかもしれない。そう思わせるくらい、毎日を大事に過ごしていたような気がする。
──この日々はもう二度と訪れないって、それをどこかで分かっていたんだろう。
時の神ミラームの関わる使族だからかもしれない。運命を知っていたからかもしれない。この二週間で必死に愛すべきだって、アヴィルはそう思っていたのかもしれない。
わたしはどれくらい彼に愛を返せていたんだろう。偽物の愛でも、アヴィルは満足してくれていたんだろうか。
アヴィルは少し変だった。噛むことや食べることが『愛』なんだって、わたしが痛いと言ってもやろうとした。それでも優しくはしてくれていたし、本気で止めればやめてくれる。
でも彼はそんな時、泣きそうになって笑い、いつもこう言った。
『ごめんな。もう痛いことしねえよ。これで終わりね。けどメアリに分かってほしくて。愛されてるのってさ、すごく痛いんだぜ』
アヴィルにとっては、痛いことや辛いことが愛なんだって。嬉しいことや幸せになること、温かいことだけが愛じゃない。噛まれて痛いと思うほど、嫌だと思うほど、それは愛だといえるんだって。
お伽噺に出てくるような、素敵で綺麗で、甘くて、美味しくて、見ていて幸せになるような──。
愛は、そんな美しいものじゃない。
愛は、血のように赤黒く、醜く、辛くて、痛くて、そして────。
でも、それなのに、欲しいと思ってしまうもの。
わたしは前に、食べることも性行為をすることも、美しいようでいてグロテスクだと思ったことがある。そう思ったのは、たしかアヴィルが子供を食べている時だったと思う。
アヴィルの食べ方はお世辞にも綺麗だとは言えない。わたしでも、目を背けたくなるような食べ方だった。
愛もそうなんだろう。
見ていて、なんだか目を覆いたくなるようなものなんだろう。
愛は──。
愛は、本当に痛いものだった。
あの日のちょうど前日。
わたしはずっとアヴィルのことが好きじゃなかったけど、でも、今は知っている。その日だけは本当に彼が好きだったってことを。
あれが愛だという答えは、すとんと心に落ちてきた。ずっと正体の掴めない違和感のあったものが、ようやく姿を現してくれた気がした。
たしかにわたしは、ずっとアヴィルに心を殺されてきた。心を犯されてきた。
だけど、あの瞬間が、あの一瞬の愛が、偽物でも騙されて得たものでもないってことは、ちゃんとわかる。愛はそんな風には生まれないから。騙されて得たり、無理やり感じるようなものは、もう“愛”と認識することすらできないから。
あの時だけ、いつもと違う痛みを感じたこと。彼の目線を嫌だと思わなかったこと。
それは全て、あの瞬間本物の“愛”を抱いていたから。
気付いたのがこんなに遅くなってからじゃ、なんにも意味がないけどね。
ううん、やっぱり意味はあったんだ。
だってアヴィルは分かっていたもの。
その日だけは、わたしがアヴィルのことをちゃんと見ていたって。
アヴィルを感じられて、アヴィルからの愛も感じられて、
──わたしもアヴィルを、愛していたんだって。




