第16話 止まらぬゼンマイ①
もし、ここから飛び降りたら自分は楽になれるのではないか……?
その疑問に対する答えを求め、少女はゆっくりと歩を進めた。
白い入院着を纏った、薄幸という形容が相応しい少女だった。青白い肌に、やせ細った手足。適当に切りそろえられた髪は、くすんだ灰色をしている。
少女がいるのは、彼女自身が入院している病院の屋上だった。まだ夜は明けておらず、そこに人気はない。
もはや慣れ親しんでしまった身体の痛みを抱えたまま、少女は屋上の縁に向かって足を進めた。膝がガクガクと震え、背筋が氷柱になったかのように強ばる。
「楽になるから……楽になるから……」
自分に言い聞かせるように呟く。
正直に言えば、彼女は恐怖していた。どのみち、このまま生き続けていたところで、いずれ自分が死ぬであろう事はわかっている。あと数年生きられるかどうかだろう。
しかしそれでも、自ら命を絶つことはまた別物だった。おぼろげな死とは違う、明確な死の気配。彼女の本能が、必死に生に縋り付こうと恐怖という名の悲鳴をあげている。
だが、それでも彼女は楽になりたかった。痛みによってベッドの上でのたうち回るだけの日々。それに比べたら、明確な死の方がはるかに魅力的ではないか……
そう思い、彼女は必死になって恐怖を押し込めた。裸足のままの足を持ち上げ、屋上の縁に足をかけようとする。
そのときだった。
「――それ以上はダメだよ」
ふいに響く、鈴が転がったような可憐な声。それと同時に、彼女は自分の首の両側を、黒光りする刃が優しく挟み込んでいることに気がついた。
「っ!」
少女は、ビクリと肩をふるわせた。振り返ろうとして、しかし首の両側にある刃のせいで身動きがとれない。
少女は、意識だけを背後に向けると、
「だ、誰……なの……?」
その問いに、可憐な声は柔らかな口調で答えた。
「こんばんは? それともおはようかな?」
声は、わずかに困ったような口調で、
「はじめまして。私はナインス。アリス姉様の九番目の妹人形。シスターズ・ナインス」
「シ、シスターズって……」
身体が弱く、ほとんど学校にも行けていない少女だったが、シスターズという者たちのことは噂程度に知っていた。
都市の女王ALICEの命に従い、犯罪者を粛清する美しい少女の姿をした死神人形。
その人形の死神に狙われた者は、すべからく殺されるという。
なぜ、そんなシスターズが自分のところに……?
「それ以上は、ダメ」
困惑する少女に対し、可憐な声は変わらぬ柔らかな口調で、
「それ以上先に進んだら、首を落とすから」
チャキリ、と少女の首を挟み込む刃が金属音を立てた。
「ッ……!」
少女は息を飲む。
――首を落とすから。
可憐な声が言ったとは思えない、おぞましい言葉。口調が優しげであるだけに、その言葉は少女にいい知れない恐怖を与えた。少女の脳裏に、首を落とされ、無惨な姿となった己の姿が浮かび上がる。
「あ……あ……」
先ほどとは違う意味で、少女の膝がガクガクと震えた。耐えきれず、その場でペタリと座り込む。
と、座り込んだことに満足したのか、少女の首を挟み込んでいた巨大な刃がスッと引っ込んだ。
背中をぬらす嫌な汗を感じつつ、少女はゆっくりと肩越しに振り返る。とたんに彼女の目が大きく見開かれた。
果たしてそこに佇んでいたのは、全てを忘れてしまうくらいに美しい死神だった。自分のくすんだ灰色の髪とは全く違う艶のある赤い髪に、己の青白い肌とは似ても似つかぬ白磁のような手足。その身に纏うのは、入院着ばかりの自分には一切縁のないゴシック調のドレスである。球体関節によって繋がれた手には、身の丈ほどもある巨大な裁ち鋏が握られていた。
その美しさに、思わず呆然となる少女。
対して人形の死神は、満足そうな微笑を浮かべると、
「うん、それでいいよ」
次の瞬間、死神の姿が霞んだかと思うと、その場から掻き消える。
残された少女は、朝日が昇るまで呆然と座り込んでいた。




