その82 メス豚、豚走する
日も暮れて、私は予定通りキャンプ地に襲撃を掛けた。
最初は順調だった。
私の攻撃は敵を翻弄していたし、彼らは風の鎧の魔法で身体強化した私を捉える事が出来なかった。
だからといって、決して油断していたつもりはない。
彼らの指揮官が出て来て「”魔法殺しの秘術だ”! 急げ!」と叫んだ時も、私は十分に警戒していた。
指揮官の命令を受けて、兵士が手にハンドボールくらいの大きさの素焼きの壺を持って来た。
彼らは壺の蓋を取ると、中に火の付いた松明を突っ込んだ。
? 何をやっているんだ?
私が疑問に感じながら、なおも注意深く観察を続けていると――
『通信障害』
『水母?!』
私の背中のピンククラゲ水母が、突然グタリと力を失くした。
そちらに気を取られていたせいだろうか。私はテントの上から足を滑らせて転落してしまった。
いや、違う。
私は落下した痛みも忘れて自分の体を見回した。
風の鎧の魔法効果が切れている?! なぜ?!
水母は落下の衝撃で、私の背中から転がり落ちている。
どこか打ち所でも悪かったのだろうか? ダラリと転がったままでピクリとも動かない。
「※※?!」
「※※※※※※?!」
私達の周囲で誰かが意味不明な言葉を叫んでいる。
この国の兵士達だ。彼らはなぜ急に訳の分からない言葉で話し始めたんだ?
違う! 私の方が言葉を理解出来なくなったんだ!
この世界の人間が喋る言葉は、日本語とも英語とも違う、独特な物だ。
日頃、私はそんな言葉を翻訳の魔法で、意味の分かる言語に置き換えて理解している。
なのに今は言葉が分からない。という事は、どうやら翻訳の魔法が働いていないらしい。
翻訳は常時発動型の魔法で、意味のある言語を聞くと自動的に発動、翻訳してくれる便利な魔法だ。
生まれてこの方、私は意識的にこの魔法を発動させたことは一度だってない。
そもそもどう発動させればいいのかすらサッパリ分からない。
風の鎧の身体強化は切れ。
水母は死んだように動かなくなり。
人間の言葉すら分からなくなった。
この異常事態に私はすっかり混乱してしまった。
「ワンワン!」
そんな私を正気に戻したのはコマの鳴き声だ。
いや、違う。これはコマのパパ、マサさんの声だ。
やはり今の私には彼の言葉も分からないようだ。
「ワンワン! ワンワン!」
「※※※※※※※※!」
「※※※※※※※※※?!」
吠えながら駆け込んで来た野犬に、周囲の兵士達の気が逸れた。
その隙を突くように別の野犬が飛び込むと、水母の体をパクリと口に咥えた。
特徴的な頭のアホ毛はコマだ。
コマは私の方をチラリと見て走り出した。
私は慌てて彼の後を追った。
「※※※※※※※※!」
「※※※※※※※! ※※※※!」
男達は慌てて武器を構えるが、密集隊形があだになって自由に振り回せない。
そもそも軍隊の武器は人間を相手にするように作られている。
地面をチョロチョロと走り回る、私ら四つ足動物を攻撃するようには作られていないのだ。
私達は振り下ろされる戟を躱して遁走を続けた。
あっ、ヤバイ。
私は息が上がるのを感じた。
豚という生き物は、足は速いが長距離は走れない。
短距離ランナーなのだ。
遂に私の足が止まった。
悔しいが今の私は人間の心に豚の身体を持つ女。
豚の身体能力を超えてまでは走れない。
冗談じゃない! こんな所でみすみすやられてたまるか!
私は頭の芯が熱くなる程、必死で魔力を手繰り寄せた。
暖簾に腕押し。糠に釘。魔力は私が伸ばした手をスルスルとすり抜けていく。
無理か? いや、出来る出来ないじゃない! やるんだ!
私の背後で追いついた兵士が戟を振り上げているのを感じる。
そちらに気を取られるな。今は魔力操作に集中しろ。
私は頼りない魔力を慎重に少しずつ、少しずつ、細心の注意を払ってかき集めた。
「ワンワン!」
マサさんが兵士に吠えているのが聞こえる。
だが今度は兵士の気を反らす事は出来ないようだ。
彼の焦りを感じる。
くそっ! 間に合え!
その時、キャンプ地の中を偶然一陣の風が吹き抜けた。
その瞬間、微量な魔力が私の周囲に集まった。
よし! いける! 風の鎧!
それは本当にギリギリのタイミングだった。
何とか魔力量が魔法発動のしきい値を越え、風の鎧の魔法が発動した。
風の鎧の魔法で身体強化を果たした私は、はじかれたように駆け出した。
背後で戟が地面を叩く音が聞こえる。
ちょっとだけ尻尾の先の毛をかすったかもしれない。
正に紙一重だった。
私は頼りない魔法を懸命に途切れさせないようにしながら走った。
いつの間にか私の横をマサさんが走っていた。
『心配かけてゴメンねマサさん! 早くここから逃げ出そう!』
「ワンワン!」
まだ翻訳の魔法は使えないらしい。
まあ辛うじて風の鎧が維持出来る程度だからな。
――まさかずっとこのままって事はないよね?
私達は水母を口に咥えたコマと合流。
キャンプ地の中を遁走ならぬ豚走を繰り広げ、命からがら夜の山へと逃げ込んだのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「逃げられただと! たかが豚一匹にお前達は一体何をしているんだ!」
部下から報告を受けたエーデルハルト将軍は、怒りに髭を震わせていた。
「まだ遠くへは逃げていないはずだ! 部隊を集めろ! 山狩りを――」
「もう良い。山狩りはない。下がれ」
「! しかし殿下!」
カルメロ王子は、鷹揚な態度で部下を下がらせた。
部下がテントを出ると王子は用意された寝酒を口に運んだ。
魔獣をみすみす取り逃がしたというのに、どうやら王子は上機嫌らしい。
その事を意外に感じながら、将軍は王子に謝罪した。
「申し訳ございませんでした。貴重な秘術まで用いたにもかかわらず、みすみす好機を逃してしまいました」
「構わん。これが最後のチャンスという訳でもあるまいよ」
王子としても今夜のチャンスを逃したのは痛かった。
しかし、”魔法殺しの秘術”はまだ十分に残っている。
そして王子は、魔獣を取り逃がした事よりも、秘術の効果が実証された方を重視していた。
「秘術の効果があれほどのものだったとはな。これは良い買い物をした」
「はあ。左様で」
王子は少しの間満足そうにグラスの酒を味わっていたが、ふと思い立って将軍に命じた。
「よし。今から兵達を集めよ。俺が直々に訓示を聞かせてやろう」
「はっ」
将軍はテントの外の兵に命じて伝令を走らせた。
本部テント前に集められた兵士達は、王子が登場しただけで沸き返った。
昼間の反応とはまるっきり真逆だ。
この光景に驚き、目を丸くするエーデルハルト将軍。
どうやら魔法殺しの秘術の効果は、兵達の士気に多大な影響を与えていたらしい。
王子はその事に満足しながら、負傷者を労い、兵達を鼓舞し、明日からの戦いに備えさせた。
法王国の部隊を全滅させた魔獣。その魔獣を撃退した効果は、王子の想像以上に大きかった。
野営地はいつまでも興奮が冷め止まず、王子を称える声はとどまるところを知らなかった。
次回「メス豚、敗北を噛みしめる」




