その364 ~新旧の溝~
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胸を焼く激しい焦燥感。
最後に横になって寝たのは何日前だっただろうか?
絶え間なく続く重圧に胃はキリキリと痛み、この数日間、食べ物もロクに喉を通らない。
体の限界は近い。しかし、ここで投げ出す訳にはいかない。
敵はすぐ背後まで迫っている。
今、ここで無理をしなければ、待っているのは全軍纏めて全滅する未来だけ。
”ハマス”オルエンドロ軍、最後の五つ刃。”双極星”ペローナ・ディンターは、過酷な撤退作戦の最中にあった。
ハマス家当主、カルミノ・”ハマス”オルエンドロが、国境近くの町、サグサダで殺されたのは昨年の年末の事だった。
突然の訃報に、ハマス軍の将軍達の意見は大きく二つに割れた。
一方は慎重論。つまりは現状を維持したまま、本国からの連絡を待つというもの。
もう一方は積極論。指揮官の死が内外に知られる前に、ジェルマン・”新家”アレサンドロ軍に戦いを挑むというものだった。
ディンターは軍議の内容を知らされる(※彼は会議に出られるような高い身分では無かった)と、絶望に目の前が真っ暗になる思いがした。
「冗談ではない! 将軍達は本気でそんな事が可能だと思っているのか?!」
慎重論はありえない。そんなものは単なる思考停止であり、問題の先送りでしかない。
こちらが問題から目を反らしている間に、指揮官の死を知った敵軍は――ジェルマン軍は――大挙してこの町に押し寄せて来るだろう。
積極論に至っては慎重論以上に論外である。
バハッティ平原での野戦で、ハマス軍がジェルマン軍相手に無残に敗北した記憶はまだ新しい。
あの後、本国から多少は戦力が補充されたとはいえ、悪く言えば今のハマス軍は寄せ集めの部隊でしかない。
ハマス家当主という大きな主柱を失い、浮足立った状態で、あの精強なジェルマン軍相手に勝つ事が出来るとはとても思えなかった。
「事ここに至っては退却以外にあり得ない! なのになぜ、将軍達にはそれが分からないのだ!」
ディンターは自分が他人より聡明である事を自覚している。
そしてそれを十分に自覚し、時に口にする事も彼が周囲から嫌われている原因の一つなのだが、別に優秀な彼でなくても、この戦いが負け戦である事は誰の目にも明らかであった。
そう。ディンターはなまじ彼自身が優秀であるがゆえに、将軍達の心理に気付けなかったのである。
将軍達もそれに気が付いていない訳ではなかった。彼らは後に引けなくなっていただけだったのである。
コンコルド効果という言葉がある。
コンコルドとは、1960年代にイギリスとフランスが共同開発した超音速旅客機の名前である。
それはパリ-ニューヨーク間を今までの半分の時間で結ぶという、正に夢の次世代航空機だった。
しかし、その開発途中で試算を行ったところ、このまま完成しても全く採算が取れないという事実が判明した。
普通に考えれば計画は中止。損切りするべきである。
しかし、コンコルドにはこの時点でも既に莫大な予算がつぎ込まれていた。
そのため、誰もが失敗すると分かっていながら、誰もこの計画を止める事が出来なかった。
こうしてコンコルドは1975年に就航した。その後は予想通り採算が取れない状況が続き、2003年には全機が退役したのだった。
コンコルド効果とは、この時のコンコルドの商業的失敗に由来する言葉で、対象への金銭的・精神的・時間的投資をし続けても損失を積み重ねるだけと分かっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資が止められない状態を言うのである。
そう。将軍達はコンコルドの開発チームのように、ここまで自分達が支払って来た代償を失う事を恐れるがゆえに、誰も撤退を言い出せない――失敗の責任を取れない状態になってしまっていたのである。
しかし、彼らが軍議という名の小田原評定を続けているうちにも、貴重な時間は無駄に消費され続けている。
ディンターは悲痛な覚悟で天を仰いだ。
「元はと言えば、あの日俺が命を懸けてでも殿をお止めするべきだったのだ。あの時失った命と思えば、何も惜しむものはない」
このままいたずらに時間が過ぎれば、いずれハマス軍はジェルマン軍に取り囲まれてしまうだろう。
そうなってしまえばもう遅い。戦う事も逃げ出す事もままならなくなってしまう。
動くならその前。一刻も早く動き始めなければならない。
最早頭の固い年寄り達には任せておけない。ディンターは頭の中で自分が面会出来そうな――説得を聞いてくれそうな人物を素早くリストアップした。
それは彼と同じ、軍の中堅どころかそれ以下に位置する人間。ないしは現場の隊長クラスの者達だった。
つまりは軍の若手将官達である。
こうしてハマス軍の全軍撤退が始まった。
将軍達は最後まで抵抗していたが、部下の大半はディンターの根回しによって撤退の方向に固まっていた。
こうなればいくら将軍達とてどうしようもない。
彼らはせめてもの意趣返しと自らの仕事をボイコットした。つまりは、撤退の責任を彼ら若手将官達に押し付けたのである。
「おい、双極星。流石にコレはマズいぞ。若手将官達の間に動揺が広がっている」
そもそも彼らは、「このままでは無駄死にするだけ」と考えたからこそ撤退を決めたのである。
撤退が成功しても、本国に帰った途端、罪を問われて斬首に処されるのでは、ここで死ぬのと変わらない。
家の恥になるだけ、むしろ戻らない方がマシという意見まで出ていた。
「議論している時間はない。彼らには責任の全ては俺が負うと伝えてくれ。お前達は俺の指示に従っていただけ。そう説明して彼らを宥めて欲しい」
結局、若手将官達も将軍達も同じなのである。事態が大きすぎて誰もが責任を取りたがらない。いや、取れる立場にない。
ハマス家当主カルミノ。そしてその息子 ”古今独歩”ボルティーノが共に亡き今、ハマス軍は空中分解寸前になっているのである。
ディンターは自らが全てを背負う事で、彼らを強引にまとめ上げ、ハマス軍の撤退という難事業を成し遂げる事にしたのであった。
雪の降り積もる冬の最中、他国から速やかに全軍を撤退させる作業は難航を極めた。
他に頼れる者の誰もいないディンターは、全ての作業の段取りを自分一人だけで組み上げ、自分で各部署に命令しなければならなかった。
睡眠時間はギリギリまで削られ、昼も夜も気の休まる時間は一瞬たりともなかった。
(だが、ここで倒れる訳にはいかない)
ジェルマン・”新家”アレサンドロ軍は、すぐそこまで迫っている。
実際、ハマス軍がアロルド辺境伯領を放棄、移動を開始したその直後、ジェルマン軍はその日の夜に辺境伯領に到着していた。
正にギリギリのタイミング。タッチの差で彼らは敵の手から逃れたのである。
(――いや、まだ安心するのは早い。今のうちに少しでも距離を稼いでおかなければならない)
偵察の兵によると、ジェルマン軍は約二万。
数の上ではこちらの二分の一だが、味方は今、撤退中で戦える状態にはない。
もしも追い付かれてしまえば、なすすべなく蹂躙されてしまう未来が待っていた。
常道としては敵の進軍を食い止めるために、誰か殿の部隊を残すべきだが、将軍達は誰もディンターの言う事に従わない。
ロクな指揮官のいない部隊が、まともな時間稼ぎが出来るとは到底思えなかった。
(それならば一か八か。このまま全軍で今のままの撤退を続ける)
情報によると、敵軍の指揮官はキンサナ将軍との事である。
ディンターのキンサナ将軍に対する評価は、特にこれといった特徴の無い凡庸な将軍、といったものとなる。
これが”七将”百勝ステラーノであれば、こちらも決死の覚悟を決めなければならない所だが、そうでない以上、まだ一縷の望みはあった。
(頼む! あと二・三日でいい! 俺達に移動のための時間をくれ!)
三万以上もの大軍は巨象のように鈍重で、その移動は亀の歩みのように遅かった。
ジリジリとした焦燥感がディンターの胸を焦がした。
しかし、彼の必死の祈りが天に届いたのか。あるいは幸運の神ラキラの気まぐれによるものか。キンサナ将軍率いるジェルマン・アレサンドロ軍は、そのまま辺境伯領に入ると、追撃の部隊を出さなかったのである。
その間にハマス軍は順調に街道を進み、やがて大モルトへと全軍無事に帰還したのであった。
「ハッ! ・・・夢か」
ディンターは掛け布団を跳ね除けて目を覚ました。
寒い冬の早朝でありながら、背中はイヤな汗でジットリと濡れている。
ディンターはジクジクとした痛みに胃の辺りを押さえた。
全軍を率いてハマスの町に戻ってから約半月。
ディンターは毎晩、あの時の悪夢にうなされ続けていた。
ハマス軍を無事、連れ戻ったディンターに待っていたのは激しい糾弾の日々だった。
ハマス家の者達は容赦なく敗戦の責任を将軍達に問い詰め、将軍達はその責任をディンターに押し付けた。
ディンターは黙って全てを受け入れた。
撤退を決めたあの日に、こうなる事は覚悟していたからである。
それでもさすがに実家から裏切り者呼ばわりされ、縁を切られた時にはかなり堪えた。
若手将官達の中からは彼に対して同情的な声が多数上がったが、その声は握り潰された。
上の立場の人間にとって、最も重要なのはこの敗戦から自分達がどう利益を得るか、どう政治に利用するか、である。
彼らにとって結果とは自分達に都合よく作られる物。真実には何の価値もなかったのである。
しかし、ディンターの働きで命が救われた若手将官達、そして彼らの家族はそうではなかった。
彼らは上の動きに――旧態依然とした現在のハマスに大きな不満を抱いた。
やがて彼らの間の溝は大きく広がり、権力者同士の争いを経て彼ら新興勢力との争いへと繋がった。
こうしてハマスで生まれた争いの火種は、ハマスのみならず”執権”アレサンドロまで巻き込む大きな争いに発展していく事になるのだった。
ここからは少しだけ先の話。
ディンターは判決の結果、斬首を言い渡される事になる。
ハマス内で密かに争いが激化する中、新勢力の一部がとある屋敷を襲撃。屋敷の土蔵に囚われの身となっていたディンターを救出した。
そう。彼らこそかつてディンターにその命を救われた、あの若手将官達だった。
「ディンター殿! 今こそ貴君の名誉を取り戻す時です!」
「左様! 我々と共に立ち上がり、あなたにいわれなき汚名を着せた悪しき者共達を打ち倒しましょう!」
しかし彼らの呼びかけにディンターは小さくかぶりを振った。
「最初から俺に取り戻すべき名誉などありはしない。戦場でボルティーノ様を守れず、主君であるカルミノ様をお止めする事も出来ず。一人だけ生き汚く命を長らえてしまった最後の五つ刃。それがこの俺だ。
確かに俺は罪に問われた。しかしそれは俺が軍規に反したため。勝手に軍を撤退させた罪に対して与えられた正当な罰なのだ。
争いの続く大モルトとはいえ、軍規が正されなければ軍隊は立ちゆかない。法が正されなければ統治は立ちゆかない。どうか俺の事はもう放っておいてくれ」
ディンターはそう言うと若手将官達が止めるのを振り切って、再び元の土蔵に戻って行ったのだった。
そしてしばらく後、彼は求刑通り斬首に処される事になる。
”双極星”ペローナ・ディンターはその最後まで彼らしい生き方を全うしたのであった。
次回「メス豚、家探しする」




