第三話 辺境の村
十四日目の昼過ぎ、荷馬車がダーレンシュタイン村の入り口で止まった。
帝国の最東端、文明の光が薄れ、闇が濃くなっていく境界線上に、その村はひっそりと根付いていた。街道は轍だけが泥に溝を作り、帝国からの長い道のり交易路は、ここで終点だという。帝国の最果てというわけだ。ここでは根菜くらいしか産物がなく、往来も少ない。北と西には痩せた畑が広がり、東と南は黒い壁のような巨大な原生林が塞いでいる。そしてそれは、奥地にて魔界に繋がって……。
「着きましたぜ、勇者さま」
御者が振り返った。
ストラシュは幌の隙間から外を眺めた。報告書で読んだ「野蛮な」村。しかし実際に見える風景は、思ったより穏やかでのどかで素朴だった。藁葺き屋根の家々、畑、広場の井戸。確かに粗末だが、帝都の偽善的な華やかさより、この素朴な汚さの方がストラシュには心地よく見えた。少なくとも、ここでは仮面を被る必要もない。先ほどの村では足があるふりをしなければならず閉口した。敬虔な信仰心と勇者への尊崇の心をもつ村長に、演技の協力をさせるのも気が引けたし……。
馬車は村の広場、教会の前に停められた。ルヴィナチワが先に降り、それからストラシュの腕を支えて荷馬車から降ろした。片足での着地は不安定で、彼女がいなければ転倒していただろう。まさに杖代わりだ。
「ありがとう」
ストラシュは一日一回はその言葉を口にすることにしていた。ルヴィナチワはほんの少し頭を傾げて応じる。もう何度目かわからないやりとり。
「ようこそ、勇者様」
村長の息子だという中年の男が、馬車のところまで来て挨拶をしてくれた。
「父はもう病床でして……」
男は申し訳なさそうに頭を下げた。土と汗の匂いが染みついた粗末な麻の服を着ているが、その態度は礼儀正しい。顔は日に焼け、手は荒れているが、目には素朴な善良さが宿っていた。
「代わりに私がお世話をさせていただきます。何か必要なものがあれば、何でも仰ってください」
それでも、ストラシュには自分の右足への視線を感じ取れた。村長の息子はそそくさと去って諸々の準備に取り掛かるようだった。
(そりゃ驚くよな。他ならぬ勇者がこんなザマでやってきたら……)
「勇者様、どうか気にせず……」
驚いて右を見ると、当然そこにはルヴィナチワの顔があるのだが、心配そうな目線がこちらを向いていた。ストラシュはなんだか申し訳ない気持ちになった。もはやこれだけの長い付き合いになれば、ちょっとした心の動きなど、手に取るように伝わってしまうのである。
「カーッ。カーッ」
彼女の肩に留まっていたカラスが、主人の動きに合わせて羽を広げた。黒い瞳がルヴィナチワを見つめ、彼女が微かに顎を上げると、まるで合図を受け取ったかのように飛び立った。「カーッ」と一声鳴いて、螺旋を描きながら上昇していく。
カラスは村の上空を大きく旋回し、まるで主人のために土地の様子を確認するかのように飛んでいた。やがて教会の尖塔に留まり、そこから村全体を見渡すように首を巡らせた。黒い羽が秋の陽光を受けて、鈍く光る。その姿を見た村人の何人かが、不安そうに十字を切った。ルヴィナチワは一度だけ尖塔を見上げ、満足したように小さく頷いた。
広場に村人たちがわらわらと集まってきた。噂を聞きつけたのだろう。好奇心と警戒心の入り混じった視線が、ストラシュと魔女に注がれる。
「勇者様だ」
「本当に?」
「片足がない」
「魔界で何があったんだ」
「魔女を連れている」
村人たちの服装は、報告書に書かれていたように確かにみすぼらしかった。継ぎ接ぎだらけの粗末な麻の服、泥と藁が付着したままの外套、素足に木靴という出で立ち。髪は脂でべとつき、顔には垢が溜まり、爪の間には黒い土が詰まっている。子供たちの鼻水は拭かれることもなく垂れたままで、大人たちの歯は黄ばみ、何本か欠けている者も多い。しかし、その目に宿るのは野蛮さではなく、ただ貧しさと、そして生きることへの必死さだった。
囁き声が波のように広がっていく。反応は二極化していた。ストラシュへは敬意、畏怖、同情、期待。しかし魔女へ向けられるのは恐怖、侮蔑、嫌悪。子供たちは興味津々で近づこうとするが、親たちに引き止められる。老人たちは跪こうとして、しかしストラシュの片足がないのに戸惑い、動作を止めてしまう。
そのとき、教会の鐘が鳴った。
村の中心にある、唯一の石造りの建物。小さな教会だったが、この村では他に高い建物は一切ない。圧倒的な存在感を放っていた。灰色の石を積み上げた壁は幾度もの修繕の跡が苔とともに刻まれ、北側の壁面は緑黒い地衣類に覆われている。傾いた神のシンボル……円環状の聖象の影が歪んで地面に落ちる。
重い樫の扉が開き、黒い僧衣に身を包んだ男が現れた。痩せた中年の男で、禁欲的な顔立ち。しかしその目には狂信的な光が宿っていた。僧らしく頭は完全に剃り上げている。人垣を割って進み出て、ストラシュの前で深々と頭を下げた。
「ようこそ、勇者様」
神父は跪く。もはや神への跪拝のように、教義に則ったやり方で。あまりに恭しいので、ストラシュは恐縮してしまう。いつまでも頭を上げないので、彼の方から声をかけて立つよう促した。神父は立つなりストラシュの両手を取る。老人のシワだらけの両手だったが、その力は強く、ガッチリとつかむ。そして崇拝すべき勇者の手の甲に額を擦り付けるように頭を下げた。
「ああ、お会いすることができて、本当に、この喜びをなんと言い表せばいいか。それにしてもこのような辺境に、ああ……勇者様、神の恩寵を受けし方……」
ストラシュは肩を貸してくれているルヴィナチワと顔を見合わせる。まいったねえ、こりゃあ。そんな感情が二人の間で共有される。ストラシュは灰褐色のボサボサ髪をかきむしって、
「なんだろう、俺は今は勇者じゃあ……」
と言った。神父はガバッと顔を上げる。思わずストラシュは一歩引いてしまう。
「そうですか、そうですよねえ……今はストラシュ様とお呼びすべきでしょうか」
ストラシュはうなずいた。
「ああ、謙虚でいらっしゃる……たとえ魔王を討てなかったとしても、討てなくなっても! あなた様が尊貴なお方であることは変わりないのに!」
その芝居がかったセリフにストラシュは鬱陶しさ以外何も感じなかったが、わかってしまった。今しがた肩に手をしっかり置いているから、彼女の心の動きはいつもよりはっきりわかる。神父が今のセリフを言った時、ルヴィナチワが大きく息を吸い、そして震えるように吐いたせいで。
「ああ、これはいけない、申し遅れました」
神父がまた頭を下げて、それから言った。
「私はこの村の教会を預かる者です。グレゴール・ザヴィッシュと申します。中央大司教区からの派遣ではなく、この土地で生まれ、この土地で神に仕える身でございます。書状を受け取って以来、貴方様のお越しを心よりお待ちしておりました」
しかし、その視線が魔女に移ると、露骨に表情が変わった。勇者に対して肩を貸している……いや、触れ合っていることすら我慢ならないという、そんな顔をこのグレゴールという男は浮かべた。
「これは……魔女ですね」
声が急に冷たくなった。これまでの狂喜乱舞といった様子が一瞬で沈静し、コホンと咳払いをして見せる。
「まあ、契約上仕方がないことでしょう。勇者は……少なくともその魔法的な力に関しては、魔女たちの領分ですから」
「カーッ!」
その時、頭上から声がした。カラスだ。ルヴィナチワの使い魔の……。普通のカラスの声より数段大きく、際立つ声……。聖象の上で二、三度羽ばたいて、またカーッと鳴いた。村人たちは顔を見合わせる。カラスの視線は、神父を射抜いているように見えた。グレゴール神父もまた黒い影を睨むように見返した。 数瞬、緊張した沈黙があり、
「とりあえず、こちらへ。勇者様のお住まいを用意してあります」
彼はそう言ってうやうやしく二人を案内した。御者が荷馬車から荷物を降ろし始めた。粗末な革袋がいくつか、それから薬草の束、古びた書物の包み。ストラシュの全財産といえるものだった。
村長の息子が小袋を差し出すと、御者はそれを受け取って中身を確認した。銅貨が鳴る音。満足そうに頷いて、懐にしまう。
「達者でな、勇者さま、お幸せに! ダハハッ!」
最後まで下品な笑い声を上げて、御者台に飛び乗って手綱を取った。車輪が泥を跳ね、ルヴィナチワの黒い外套の裾を汚したが、彼女は身じろぎもしなかった。 荷馬車が去っていく音が遠ざかる中、神父が改めて先に立った。
「さあ、こちらです」
村の中心部を歩く間、村人たちが道の両側に並んだ。まるで葬列を見送るような、あるいは奇跡を待つような、複雑な表情で。
ストラシュへ向けられる視線には、敬意と好奇心、そして片足の勇者への深い同情が混じっていた。老婆が祈り、若い母親が子供を抱いて頭を下げ、男たちは帽子を取って道を空ける。しかしその同じ人々が、魔女を見る時には顔を歪めた。恐怖、敵意、あからさまな侮蔑。流石に勇者が肩を借りている相手に唾を吐くようなものはいなかったが、魔女一人であればそうしただろう。そんな悪意の視線だった。
神父が歩きながら説明を始めた。
「あの建物が見えますでしょう」
指差す先には、藁葺きの家々とは明らかに異なる建物があった。二階建てで、壁は石と木材を組み合わせた堅牢な造り。窓も他の家より大きく、かつてはガラスがはまっていたらしい枠が残っている。
「この村の東にまだ国があった頃、往来の者を泊めるために使われていた宿です。もうずいぶん使われていませんが」
神父の声に郷愁が滲む。 この村で生まれ育ったものにしかわからない感傷なのだろう。
「私が子供の頃は、この村も宿場町として賑わったものです。今では……」
言葉を濁し、東の森を見やる。しかしすぐに明るい調子に戻る。
「ですから長い間使われていませんでした。しかしまだまだ柱もしっかりしてます。知らせを受けてから村の女たち総出で清掃いたしました。ああ、ですからどうぞ気兼ねなく……」
建物の前に着くと、神父は重い木戸を開けた。内部は確かに清掃されていたが、長年の放置の跡は隠せない。埃の匂いと湿気、そして微かにかび臭さが漂っていた。
「貴方様の存在自体が、この村にとって祝福なのです」
神父は部屋の中央で振り返った。
「魔界が迫る今、勇者様がいらっしゃるというだけで、村人たちの心の支えになります」
ストラシュは何も答えなかった。窓から差し込む光の中で、埃がゆらゆらと舞っている。カラスが窓枠に留まり、じっと神父を見つめていた。その視線に、神父は僅かに居心地悪そうに身じろぎした。
神父は村の状況を説明し始めた。早口で、まるで沈黙を恐れるように。
「定期的に東方から来る行商人たちがおります。村人は彼らから物資を買いますが……」
顔をしかめる。
「異教徒ですので。魔女教団の者だとは思いますが、本質的に彼らは秘密結社のような者ですからなあ。商売に必要な以上の言葉も通じません」
ルヴィナチワは無表情のままだったが、カラスが小さく鳴いた。その声には警告のような響きがあった。神父は咳払いをして続ける。
「村の東と南を囲む大きな森がございます。村人は薪や食料のために入りますが……」
声を潜めて、まるで森自体に聞かれることを恐れるかのように。
「誰もあまり深くは入りません。巨大な怪物がいます。ゴブリンを見かけることもあります。勇者様はあそこに何年も分け入っていっていたのでしょう? ああ、なんということだ。ああ……」
一瞬の沈黙。風が窓から入り込み、古い建物がきしむ音を立てた。
「ああ、それから、この地を治める領主様がおられます。世俗の権力者ですが……まあ、教会の権威とは別物です。そう積極的に関わってくることもないでしょう」 暗に対立関係を示唆する口調だった。
ストラシュは黙って聞いていた。興味もなく、関わりたくもない。ただ静かに暮らせればいい。この朽ちかけた宿で、魔女と二人、世界の終わりを待つだけの日々を。




