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第十六話 対話の終わり

 兵たちが広場の井戸を囲むように占拠するテントへと領主を運んだ後、雨は止んだが、重い湿気が広場に立ち込めていた。朝日は厚い雲に遮られ、世界は灰色の薄明かりに包まれている。広場にはまだ昨夜の血の跡がうっすらと残っている。ここは水捌けが悪い。溜まった雨は流れたりしない。

 広場から家に戻る道すがら、ストラシュは杖に体重を預けながら、よろよろと歩いていた。ルヴィナチワは無言で彼を支える。二人は雨に打たれながら進む。家の扉を閉めると、外の喧騒が遠のいた。

 ルヴィナチワが手早く蝋燭に火を灯した。弱々しい光が部屋に広がり、二人の影を壁に映し出す。魔女は無言のまま布を取り出し、ストラシュの濡れた肩に掛けた。彼女の動きは機械的で、しかし丁寧だった。「拭いてください」短い言葉だけを残し、彼女は自分の濡れた髪から水滴を絞り始めた。黒髪から滴る雫が、床に小さな染みを作っていく。ストラシュは布で顔を拭った。冷たい雨の感触が、ようやく肌から離れていく。服は重く体に貼り付き、寒気が骨まで染み込んでいた。

 薄暗い室内で、ストラシュは椅子に崩れ込んだ。全身から力が抜ける。

「お前がローザを助けようとするとは思っていなかった」

 ストラシュの声は掠れていた。

 ルヴィナチワは背を向けたまま、薬草を整理し始めた。その手つきはいつもと変わらない。機械的で、正確で、感情のかけらも見せない。

「私も……体が動いたのが意外でした」

 彼女の声は静かだった。

「お前は村人を恨んでいると思っていたが。ローザは別かな」

「どうなんでしょうね」

 振り返った魔女の顔には、いつもの無表情が貼り付いていた。だが、ストラシュには見えた。その瞳の奥で、何かが揺れているのが。

「お互い、心を決めきれないようだな。だが俺よりはマシじゃないか、ルヴィ。少なくとも自分の意思で行動してる」

 ストラシュは自嘲的に笑った。

「俺はカカシだ。動けない、ただの人形。風に吹かれ、雨に打たれ、鳥につつかれても、何もできない……カカシ」

 蝋燭の灯りの中で、ルヴィナチワが何かいじっていた。規則的な音が聞こえてくる。近寄って蝋燭の灯りの中を覗き込むと、ルヴィナチワが黙々と乳鉢で薬草を調合していた。紫色の粉末、緑色の液体、そして名前も知らない黒い実。それらが混ぜ合わされ、不気味な色合いの薬液となっていく。

「ルヴィ」

 魔女は手を止めず、淡々と作業を続ける。

「次の夜、全てが変わります」

 彼女の声には、いつもの冷たさとは違う何かが宿っていた。決意か、それとも諦念か。

「勇者様は真の英雄となるのです」

「やめてくれ」

 ストラシュは彼女の手を掴んだ。

「一緒に逃げよう。この村から、全てから」

「なあ、ルヴィ。もうぜんぶやめにしないか?」

 振り返ったルヴィナチワの顔に、一瞬、意外そうな表情が浮かんだ。紫の瞳が大きく見開かれ、手にした乳鉢の動きが止まる。

「何を……言っているのです」

 彼女の声は困惑していた。

 ストラシュは杖に体重を預けながら、力なく続けた。

「儀式をしようとしているのはわかっている。だが、正直成功するとは思えない。村に対立をもたらすくらいなら、いっそウルフリクに任せてしまえばいい」

 言葉を吐き出すたびに、胸が締め付けられた。これは諦めなのか、それとも彼女を守りたいという思いなのか。

 ルヴィナチワは静かに乳鉢を置いた。その手は微かに震えている。

「あなたにできなかったことを、どうすればできるか……私なりに考えた結果です」

 彼女の声には、悲しみとも決意ともつかない何かが滲んでいた。

「やめてくれよ、もう何もしないでくれ……」

 ストラシュの声は懇願するように掠れた。この七年間、共に過ごした女。今、彼女を失うことが、何よりも恐ろしかった。

 ルヴィナチワは目を伏せた。長い黒髪が顔を隠す。

「私は……これをします。ごめんなさい」

その言葉は、まるで最後の別れのようだった。ストラシュは深く息をつく。

「すまない、バカなことを言った。カカシはカカシらしく突っ立っているよ。カラスを脅かすこともできないのが、カカシだからな」

「次の勇者が挑んでも、魔界をどうにもできないでしょう。もうこの方法しか……」

 彼女は乳鉢から木の器に液体を移した。それは毒々しい緑色をしていた。

「さあ、これを飲めば、発作の苦しみは和らぎます」

「それは本当か?」

 魔女は答えなかった。ただ、悲しげに微笑むだけだった。

 窓の外で、カラスが激しく鳴いた。見ると、白んでいる東の空から無数の黒い影が舞い降りてくる。他の魔女たちのカラスだった。


*****


 夜が明けても、広場には人々が集まり続けていた。さらに領主のテントがあるせいで、広場には通れる隙間はほとんどない。そんな中、ストラシュは村人にどいてもらいながら水を汲む。

 二つの勢力が形成されつつあった。

 一方は、鍛冶屋の親方を中心とした儀式参加派だった。筋骨隆々とした親方の周りに、約三十名の男女が集まっている。彼らの手には農具が握られていた。鎌、鍬、鉈、斧。普段は土を耕し、作物を育て、収穫をもたらす道具たち。しかし今日、それらは別の目的のために研がれ、磨かれていた。

「今夜こそ、我々は解放される」

 親方の太い声が響いた。その顔には狂信的な輝きが宿っている。

「魔界が出現して以来の滅びの危機が、今夜終わるのだ。勇者様が、その身をもって魔界を封じてくださる」

「そうだ!」

「勇者様万歳!」

 熱狂的な声が飛び交う。彼らの顔には決意と狂気が入り混じっていた。

 もう一方の端には、反対派が不安そうに身を寄せ合っていた。約二十名。彼らは神父の教えを信じ、このような野蛮な儀式に反対していた。だが、その神父は既に姿を消していた。

「これは間違っている」

 誰かが小声で呟く。

「神父様なら、きっと止めてくださったはずだ」

 しかし、その声は弱々しく、広場の喧騒にかき消されていった。儀式参加者約三十名が、煤けた顔の鍛冶屋の親方を中心に固まっている。彼らの目は充血し、一夜にして老け込んだような疲労が顔に刻まれていた。

「これは我々のせいではない」

 親方の声は掠れている。しかし、その言葉とは裏腹に、他の者たちは下を向いた。村のために立ち上がっているのに、このような対立が生じていることに困惑し、後悔しているようにも見える。しかし農具を武器のように持ったままだ。それをてばなすことはなかった。

 広場の反対側では、神父を担ぎ上げていた保守派約二十名が密集していた。神父はもういない。そのことで少し混乱があったようだが、最初から神輿程度にしか思っていなかったのだ。むしろタガが外れてちょうどいいと言わんばかりだ。

「異端の報いだ! あの売女は自業自得だ!」

「悪魔の仕業だ! 魔女の黒魔術に関わったばっかりに!」

 彼らの言葉は刃物のように鋭い。ストラシュは野営のテントからウルフリクが飛び出してこないか気がかりだった。しかしテントは不気味な静けさを保っている。

(あいつ、何を考えている……?)

 やがて二つの陣営が向かい合った。空気が張り詰める。

「なぜローザに堕胎薬を飲ませた!」

 儀式参加者の若者が怒鳴った。顔は真っ赤で、首筋の血管が浮き出ている。

「人殺し! 領主様の子を殺したんだぞ!」

 拳を振り上げ、今にも飛びかかりそうな勢いだった。唾が飛び、目は血走っている。

「悪魔と契約した者が何を言う!」

 不参加者の老婆が叫び返す。

「異端は出てけ! お前たちのせいだ!」

 鎌や鍬を握りしめた農夫たちが、武器にした農具を振りかざして威嚇する。刃先が朝の光を鈍く反射した。彼らの目は、もはや隣人を見る目ではなかった。

 両陣営の視線が一斉にストラシュに向けられた。数十の瞳が、救いを、裁きを、答えを求めて彼を見つめる。「勇者様、判断を」という無言の圧力。

 しかし、ストラシュは動かない。杖に全体重を預け、ただ虚ろな目で惨状を見ているだけだった。

(この村は完全に壊れている。もう元には戻らない。誰も信じられない。俺は……どちらの側に立てばいい? いや、どちらも間違っている。皆、狂っている。今や領主までも……)

 村長の息子が群衆を掻き分けて前に出た。若い顔に、狂信的な光が宿っている。

「もう隠す必要はない!」

 彼の声は熱を帯びていた。

「勇者様を器に儀式を執り行う! それ以外に方法はない!」

 ストラシュは内心ビクッとする。

「魔界を体験し、生還したお方が儀式に必要なんだ! 森の民はそう言った!」

 彼は一呼吸置いて続けた。

「そうすれば村は救われる。満月の夜、儀式を行う」

東の民との共謀も、当然のことのように明かされた。

「勇者様は選ばれたのです」

 村長の息子が恍惚とした表情で言った。

「神が、運命が、あなたを選んだ。だからこそ、我らはそこに賭けるのです」

 村の戸は閉ざされ、領主を除けば村で一番偉い彼の言葉を、息を潜めて聞いていた。反論する気があるのは正面にいる反対陣営だ。

「教皇様の勇者様への委任を曲解するな!」

「それで勇者様に悪魔の方法を提案するなんて!」

「神父様がいればなんと言っただろうか!」

 反対する立場の陣営からはそんな言葉が出てきた。

 睨み合いは夜通し続き、朝日が昇り切る頃には、広場の様子が変わり始めていた。誰も引かず、誰も譲らない。領主のテントは沈黙し続け、まるで村人たちのそれを黙認するかのようだった。

 日が昇ると、広場の様子が変わり始めた。朝靄の中、何人かの村人が荷を運んでくる。木箱、布の束、奇妙な形をした金属の道具。それらが広場の隅に積み上げられていく。儀式派の男たちが石を並べ始めた。円を描くように、規則正しく。まるで何かの印を作るように。

 さらに女たちが現れた。今まで対立に参加していなかった者たちも。色とりどりの布を手に、何かを縫っている。旗か、それとも衣装か。彼女たちの指先は休むことなく動き続けた。鍛冶屋が運んできた鉄製の燭台が広場の四隅に立てられた。松明を灯すためのものだろう。広場は戦の準備をする陣営のようになっていった。食料の入った樽、水の入った甕、薬草を束ねた袋。それらが整然と並べられていく。村人たちは無言で作業を続けた。まるで何かに取り憑かれたように。

 日が傾く頃、広場は完全に変貌していた。石で描かれた大きな円陣、四隅の燭台、中央に置かれた奇妙な祭壇のようなもの。それは神聖というより、異様だった。禍々しいまでに整えられた、何かを待つ舞台。

 夕刻が来る。夜と昼の境界が曖昧に溶け合う時刻。ストラシュは広場の隅に立ち、杖に寄りかかりながら外を眺めていた。

 昨日からほとんど眠れていない。瞼は鉛のように重く、眼球は乾いて痛む。全身を襲う鈍い疲労感は、もはや慢性的なものとなっていた。それでも、今日という日を迎えてしまった現実から目を背けることはできなかった。

 村は静まり返っていた。

 獲物を狙う獣のように、嵐の前の不気味な静寂だった。

 靄が低く垂れ込め、家々の輪郭をぼんやりと霞ませている。どの家も扉は固く閉ざされ、鎧戸は下ろされていた。だが、ストラシュには分かる。窓の隙間から、無数の目が外を窺っているのが。

 農家の窓際に、錆びた鎌が立てかけてあるのが見えた。鍛冶屋の軒先には、普段は見ない数の金槌が並んでいる。パン屋の煙突からは煙一つ上がっていない。今日は誰もパンを焼かないのだろう。



 夜が近づくにつれ、村の空気は次第に熱を帯び始めた。

 広場には既に篝火が焚かれていた。三つ、四つ、五つ。大きな火が闇を照らし、オレンジ色の光が石畳に踊る。炎の周りには薪が山積みにされ、一晩中燃やし続けるつもりだと分かる。火の粉が夜空に舞い上がり、星のように消えていった。

 儀式派の村人たちは、広場の一角に粗末なバリケードを築き始めていた。荷車を横倒しにし、木箱を積み上げ、古い柵を立てかける。即席の防壁だった。何から身を守るつもりなのか。領主の騎士団か、それとも反対派の村人たちか。あるいは、もっと別の何かか。

 バリケードの内側では、男たちが武器を手入れしていた。農具が、今夜は武器になる。鎌の刃が研がれ、鍬の柄が握られ、斧が月光を反射する。女たちは布を広げ、何かの印を描き込んでいた。子供たちは家の中に閉じ込められ、窓から不安そうに外を覗いている。

 篝火の炎は激しさを増していった。まるで村全体の狂気を映すように、赤々と、そして禍々しく燃え上がる。煙が立ち昇り、夜を燻らせた。

 ストラシュは杖をつきながら、テントに近づいた。入口の騎士は疲労で顔色が悪い。

「領主様は……」

「わかっている。それでも、話をしたい」

 騎士は躊躇したが、やがて頷いた。

 重い布を押し分けて入ると、薄暗い内部で領主ウルフリクが寝台に座っていた。鎧は脱がれ、白い肌着は泥に染まっている。

 だが、その目に、ストラシュは戦慄した。

 虚ろなだけではない。その奥で何かが燃えている。憎悪か、狂気か、それとも……。

「ああ……勇者殿か」

 掠れた声。だが、そこには妙な熱があった。

「見舞いか。笑止な」

 ウルフリクは顔を上げた。その表情は歪んでいた。笑っているのか、泣いているのか、判然としない。

「この有様を見に来たか。愛する女を失った男の、惨めな姿を」

 ストラシュは何も言わずに椅子に腰を下ろした。

 領主の声が鋭く吐き捨てるように言う。

「同情か? 慰めか? それとも、同じ敗北者同士の傷の舐め合いか?」

 ストラシュは答えなかった。この男の痛みは、言葉では届かないところにある。沈黙が降りた。やがて、ウルフリクが呟いた。

「あいつらが……殺したんだ」

 低い声。だが、そこには確かな殺意があった。両手が短く刈られたあたまを撫でる。固められていたはずのヒゲはだらしなくボサボサと垂れていた。

「村の誰かが、ローザに堕胎薬を盛った。子が、奪われた」

 彼は大きなため息をついたー

「許さない。絶対に……」

 突然、外から怒号が響いてきた。複数の声が重なり合い、何を言っているのか聞き取れない。だが、その声には明らかな敵意と恐怖が混じっていた。

「何事だ!」

 ウルフリクが立ち上がる。

 ストラシュも杖を頼りに立ち上がり、テントの入口に向かった。布を押し分けて顔を出した瞬間、何者かの手が彼の襟首を掴んだ。

「勇者様! あんたがかくまってるんだろう!」

 反儀式派の村人だった。目は血走り、顔は恐怖で歪んでいる。

「魔女を出せ! あいつが全ての元凶なんだ!」

 ストラシュは抵抗する間もなく、テントの外へと引きずり出された。バランスを崩し、ぬかるんだ広場に倒れ込む。冷たい泥が頬に張り付いた。

「魔女はどこだ!」 「ローザ様を呪った魔女を差し出せ!」

 十数人の村人たちが口々に叫んでいた。松明を手にした者、農具を振りかざす者。彼らの顔には、もはや理性の欠片も見えなかった。

「待て、落ち着け……」

 ストラシュが立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。泥まみれの手で杖を握るが、バランスを崩す。

 周囲を反儀式派の村人たちが取り囲んでいる。円陣を組み、獲物を逃がすまいと身構えていた。彼らの目には、もはや敬意は宿っていない。あるのは狂気と、恐怖から逃れたいという切実な願いだけだった。

「はあ、はあ、クソ……」

 ストラシュはぬかるんだ広場に手を突いた。

(魔女の儀式に頼るのも、魔女を恐れるのも、同じ狂った恐怖からか……)

 だがそのとき、規則正しい蹄の音が響いてきた。

 一頭だけだが、重装備の騎兵の響きは重たく響く。

 広場に姿を現したのは、領主の紋章を掲げた騎士だった。銀色の鎧が夕陽を反射し、眩しいほどに輝いている。騎士は広場の中央で馬を止める。

「領主様!!」

 朗々とした声が、広場に響き渡った。

「グレゴール神父を捕らえたました!」

 その声は、広場、いや村全体に轟いた。騎士たちが、縛られた神父を引っ張ってくる。神父の顔は蒼白で、唇からは血が滲んでいた。

 テントの幕が揺れ、領主が飛び出してきた。ヒゲが整えられ、いつもに威厳がある様子が回復している。その目は冷たく、表情は硬い。彼は語る。

「この男は中央への密告を企てていた! 異端の村として、我々全員を売り渡そうとしていたのだ!」

 村人たちがざわめいた。反対派の人々は、最後の心の支えを失い、呆然と立ち尽くしている。

 ストラシュは領主の狙いを理解した。これは口実だ。村人全員を支配下に置くための。

 だが領主の心づもりも村人を止めるには至らない。

「勇者様は今夜、世界を救うのだ!」

 誰かが叫んだ。その声には狂気じみた確信が込められていた。

「邪魔をするな!」

「神聖な儀式だ!」

 反対派の二十名は、もはや為す術もなく広場の端で身を寄せ合っていた。恐怖に震えている。

 それを押し除けるようにして、儀式派の三十名がストラシュを助け起こして歓声を上げる。

 そして、それら全てを領主の騎士団が包囲していた。槍を構え、剣を抜き、いつでも制圧できる態勢を整えている。領主ウルフリクもまた馬に乗り、いつでも村人を踏み潰せると言わんばかりに構えている。

 張り詰めた空気の中、人垣を分けて一人の女が前に出た。

 ローザだった。

 彼女の髪は月光に照らされていた。瞳には決意が宿り、震える手を胸の前で組んでいる。

「ウルフリク! 待って!」

 必死の叫びだった。広場の全ての視線が彼女に集まる。領主は馬上から冷たい視線を向けた。ローザは言葉を探しながら、懸命に訴えた。

 彼女は一歩前に出た。そしてローザは領主の馬に駆け寄り、鎧の脚にすがりついた。

「お願い、儀式の邪魔をしないで……。これが……これが私たちの最後の希望なんです」

 沈黙が広場を支配した。

 領主の顔が、ゆっくりと歪んだ。嫌悪と軽蔑の表情だった。

「黙れ」

 氷のような声と共に、領主は鎧の脚でローザを蹴り飛ばした。彼女は広場に倒れ込み、額から血が流れた。

「お前はもうダメだ。あの薬のことを調べたぞ。誰が薬を盛ったかもな。あの薬は多過ぎれば生涯子を宿すことができなくなるそうだ。お前はもう……」

 ローザが手を離し、崩れ落ちた。領主は馬から降り、さらに彼女を蹴飛ばす。今度は全く自分を庇うこともできず、泥の中で人形のように転がった。ゆっくりとローザに近づいた。その足音が重く響く。

 そして剣を掲げる。刃が月光を反射し、不吉に輝いた。

「まずお前から始末する。見せしめとしてな」

 剣が振られる。照らされた刃が、ローザの命を刈り取ろうとしたその瞬間。

「やめなさい!」

 鋭い叫び声が夜気を引き裂いた。

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