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第十五話 仮面の崩壊

 数日が過ぎた。頭上の雲は重たく、また雨が降りそうであった。鍛冶屋での仕事を終え、ストラシュは杖を突きながら家への帰路についていた。日は既に西に傾き、橙色の光が木々の間から斜めに差し込んでいる。杖と片足での歩行に慣れたとはいえ、一日中立ち仕事をした後である。村外れの鍛冶屋からの道のりはこたえる。しかしこの長距離の通勤は、確実に彼を鍛えていた。

「よっと」

 戯れに片足で立ち、杖を持ち上げてみる。ぬかるみを避けるように飛び、そして着地する。こんな真似もできるようになった。腰の筋肉が随分しっかりして、魔界を旅していた時とは違う力が鍛えられた気がした。

「村が穏やかなら素直に喜べたんだがな……」

 今に彼の心には、自分のことではなく、村人たちのことばかりが大きな塊にように鎮座していた。何ができるわけでもないが……自分の殻に閉じこもり、ルヴィナチワと身を寄せ合って知らんぷりは、できなかった。

 普段は人気のない木立ちに差し掛かった時、ストラシュの目が何かを捉えた。楡の大木の陰に、馬上の人影。あれは……。

 いつも領主がやってくる際に連れている騎兵の一人だった。そしてその前に立つ女。

(ローザ……)

 ストラシュは反射的に足を止め、道端の茂みに身を隠した。距離があるため、二人の声は風に流されて届かない。しかし、その光景は十分に雄弁だった。

 ローザの横顔には、これまで見たことのない切迫した表情が浮かんでいた。兵に向けて何度も頭を下げ、時折、両手を組み合わせて懇願するような仕草を見せる。何度も自分の腹部に手を当てながら。

 騎兵は馬から降りようとしなかった。顔は兜の影で見えないが、時折頷いたり、首を横に振ったりする動作から、ローザの訴えに対して何か返答していることは分かる。その態度は冷淡で、事務的だった。上から見下ろす姿勢を崩さない。

 やがて騎兵は手綱を引いた。馬が鼻を鳴らし、踵を返す。ローザはなおも何か言いかけたが、騎兵は振り返ることなく、蹄の音を響かせながら去っていった。

 ストラシュは息を殺して、その一部始終を見つめていた。今なら声をかけることもできる。問い詰めることも。しかし彼は動かなかった。杖を握る手に力を込めただけだった。

 この村で起きている対立、グレゴール神父の告白、そして今目の前で繰り広げられた密会。すべてが彼の手の外で展開していた。何も見なかったように、ローザが十分に離れた後で。ストラシュは村への道を歩き続けた。

 村がまとう不穏な雰囲気は、重みを増していた。


*****


 夜が来た。重苦しい雲が空を覆い、風が不吉な唸り声を上げ始めた。以前よりも激しい雨が降り始めた。

 雨音を貫いて、馬蹄の音が響いてきた。規則正しく、そしていつもより容赦がなさそうな。無論、領主ウルフリクである。

 村人たちが出てきた。領主がやってくるたびに雨の中、外に出ることを強いられるのだからたまらない。しかし今夜は……少年が鞭打たれるよりも酷薄なことが起きそうであった。

 松明の火が雨の中で激しく揺れ、兵士たちの甲冑が不気味に光る。彼らは村人が集まったのを確認すると、広場を包囲し、逃げ場を塞いだ。皆が不安げな目で見渡す。

 最後にストラシュが魔女を伴って出てきたのを確認すると、領主ウルフリクが馬上から叫んだ。

「貴様ら!」

 雷鳴のような声が、雨音を圧倒した。

「私の許可なく動くとは何事だ! 魔界からの防衛は我々の役目だ! 勝手に森に入り、異教の儀式に参加するな!」

 馬蹄が泥を跳ね上げ、騎兵たちが広場を駆け回る。松明の火が雨に打たれて激しく明滅し、影が狂ったように踊った。

「神父! 神父はいるか!?」

 領主の声が轟いた。配下の兵士たちが四方へ散り、教会へ、司祭館へと走る。雨音を貫いて、扉を叩く音、叫び声が響く。やがて一人の騎兵が息を切らしながら戻ってきた。

「おりません! 教会にも居室にもおりません!」

「なにぃっ!?」

 領主の顔が憤怒に歪んだ。馬が主人の怒りを感じ取ったのか、不安げに鼻を鳴らし、前足で地面を掻く。ザアザアと降りしきるあめが彼の苛立ちを表しているようだ。

 ストラシュは広場から顔を逸らす。神父はもう帝都へ向けて出発したのだろう。そのことを領主に知らせる気にはなれなかった。

「領主さま! 領主さまあ!」

 村長の息子が、雨に打たれながら前に出た。三十を過ぎたばかりの彼は、悲壮な表情をしている。。農作業で鍛えられた肩幅は広いが、今は恐怖で震えている。それでも、顔には決意が宿っていた。

「私たちは……生き延びたいだけなのです」

 絞り出すような声だった。

「生き延びる?」

 領主の嘲笑は、ガラスを引っ掻くような不快な音だった。

「知っているぞ? 異教の儀式に加わっている者もいるそうだな? 森の民どもに魂でも売ったか!?」

 ストラシュは数時間前の光景を思い出す。

(ローザか……昼間の……)

 彼女は……情報を売ったわけではないのだろう。交渉し、決裂した。領主の不寛容を甘く見ていたのだ。愛人という立場は……あまり効力を発揮しなかったようだ。ストラシュは広場を見渡す。鞭打ちがあった夜に勇敢に振る舞った彼女は、今は姿が見えない。

「もし中央にこのことが伝われば、この村全体が異端として火炙りだぞ!」

 領主が叫ぶ。瞬間、稲妻が空を引き裂いた。轟音と共に広場が昼のように明るくなり、村人たちの顔が死面のように青白く浮かび上がった。老人も、女も、子供も、皆一様に恐怖に凍りついている。

 沈黙。

 雨音だけが、まるで無数の針が地面を打つように響く。誰も口を開かない。いや、開けない。言葉が喉に詰まり、呼吸すら困難なほどの重圧が広場を支配していた。

「関係者を全て引き渡せ!」

 領主の命令は、断頭台の刃のように冷たかった。

「形式的な尋問だけだ」

 少し物言いが穏やかになった。

「その後、魔女狩りと称して森でゴブリンでも狩れば面目も立つ」

 しかし村人たちは石像のように動かない。

 ストラシュには分かった。村が今、完全に二つに割れている。儀式に参加した者たち、そして参加しなかった者たち、その間での力関係の相剋は、領主であっても解きほぐせないほどに絡まっているのだと。互いが互いを睨みつけ、憎悪と恐怖が入り混じった視線を交わす。

 鍛冶屋の親方が拳を握りしめている。その隣では、いつも教会に通う信心深い老婆が十字を切っている。若い母親が子供を抱きしめ、その子供は怯えた目で大人たちを見上げている。

 みな外套を雨に濡らし、押し黙っている。空気が張り詰め、誰も口を開きそうになかった。

 領主は深く息を吐いた。それは苛立ちと、疲労と、そして諦めが混じった吐息だった。鎧は雨に濡れ、馬の尾から雫が滴り落ちる。

「村にしばらく野営させてもらう」

 宣言は、判決のように響いた。

「しばらく頭を冷やして考えよ。これ以上の妥協はない」

 領主は手綱を引き、馬を返した。蹄鉄が水溜りを踏み、泥水が跳ね上がる。騎兵たちが後に続き、松明の列が雨の中を進んでいく。やがてその灯りは闇に飲み込まれ、広場には重い静寂だけが残された。

 ストラシュとルヴィナチワは、雨に打たれながら立ち尽くしていた。

 村人たちの視線が、まるで無数の針のように二人を刺す。まるで二人が原因であると言わんばかりに。

(限界だ……)

 ストラシュはそう思った。もう誰も信じられない。あらゆる感情が渦巻き、広場の空気を毒のように濁らせていた。彼は杖に寄りかかり、ただ立っているだけ。自分が止められなかった魔界の脅威。それが今、この小さな村を脅かしている。村人が魔界に立ち向かう方法を自分で考え森の民を頼った結果こうなったのだ。神父は消え、領主は威圧し、村人は分裂し、そして自分は……何もできない。

 雨が頬を伝い落ちる。涙のように。

 やがて村人たちも、一人、また一人と広場を去っていく。足取りは重く、誰も顔を上げない。扉が閉まる音だけが激しい雨音に負けずに響いた。

 やがて戻ってきた領主の部下たちが天幕を張り始めた。広場をほとんど占有してしまう。訓練された動きで着実に野営地を設営していく。槍が並べられ、篝火が焚かれる。雨に負けないように慎重に大きく焚かれたそれは、血のように赤く大きな炎として、村を照らした。

「行きましょう」

 ルヴィナチワが静かに言った。カラスが主人の肩で雨に濡れた羽を震わせる。

 ストラシュは頷き、杖をついて歩き始めた。一歩、また一歩。泥に足を取られそうになりながら、家へと向かう。背後では、兵士たちの号令と、金属のぶつかる音が響いている。

 今夜、この村で何かが決定的に壊れた。そしてもう、元には戻らない。


*****


 雨は一向に弱まる気配がない。空気は依然として重く、ねっとりとした湿度をまとい、息苦しかった。ストラシュとルヴィナチワは蝋燭をつけ、眠れずにいた。体を乾かして食事をした後、何かに備えるような気分でテーブルについていた。

 扉を叩く音。遠慮がちな。

 ストラシュとルヴィナチワは顔を見合わせる。真夜中の訪問者は不吉だが、切迫しているわけでもないようだ。ルヴィナチワがドアを開けに行く。

「やあ、魔女の……ルヴィさんだったかな」

 立っていたのは領主ウルフリクだった。ルヴィナチワは驚いたようにストラシュを振り返る。彼もまたすぐに立ち上がった。ローザですら呼ばなかった名前を領主が口にしたのだから。

 雨は一向に弱まる気配がない。空気は依然として重く、ねっとりとした湿度をまとい、息苦しかった。ストラシュとルヴィナチワは蝋燭をつけ、眠れずにいた。体を乾かして食事をした後、何かに備えるような気分でテーブルについていた。

 扉を叩く音。遠慮がちな。

 ストラシュとルヴィナチワは顔を見合わせる。真夜中の訪問者は不吉だが、切迫しているわけでもないようだ。ルヴィナチワがドアを開けに行く。

「やあ、魔女の……ルヴィさんだったかな」

 立っていたのは領主ウルフリクだった。ルヴィナチワは驚いたようにストラシュを振り返る。彼もまたすぐに立ち上がった。ローザですら呼ばなかった名前を領主が口にしたのだから。

「領主様……っ!」

 ルヴィナチワは慌てて奥へ駆け、乾いた布を持って戻ってきた。領主へ差し出すと、彼は小さく頷いて受け取る。兜も被らず、外套だけを羽織った姿で立つ領主の髪からは雫が滴り落ち、灰色の顎鬚までもが雨に濡れそぼっていた。いつもなら威厳を保つ立派な鬚も、今は水を含んで重たげに垂れ下がっている。そして火酒の瓶を手に、いつもの威圧的な態度は影を潜めていた。

「少し話がしたい」

 声は静かで、疲労が滲んでいた。

 二人は向かい合ってテーブルに着いた。ルヴィナチワは何も言わず、察したように奥の部屋へと姿を消す。蝋燭の炎が不意に揺れ、二人の影が壁で大きく踊った。領主が火酒を杯に注ぐ音だけが、重苦しい静寂を破る。

「村が壊れていく」

 領主が呟いた。その声には、権力者の傲慢さはなかった。ただ、疲れ果てた一人の人間がそこにいた。

「村いくさになりかねない。血で血を洗う惨劇が起きるだろう。正直、もう誰を信じていいか分からない」

 ストラシュは差し出された杯を受け取り、一口飲んだ。喉が焼けるような感覚に思わず顔をしかめる。何年振りだろうか、こんなに強い酒を口にしたのは。

「勇者殿」

 領主は杯を見つめながら続けた。

「あんたに意見を求めるのは、正直プライドが許さなかった。あんたは生き残ってしまった宗教的アイコンに過ぎず、とてつもなく厄介な存在だと決めつけていた」

 ストラシュは黙って聞いていた。雨音が、まるで時を刻むように響く。

「だが、調べてみた。あんたの行動を、言葉を、人となりを。よく村に馴染もうとして、穏やかさを求めている。先日も、村人を宥めようとしていたそうじゃないか」

 領主の目に、初めて敬意のようなものが宿った。ストラシュは直感した。おそらくローザからの報告なのだろう、と。

「大いに評価する。信頼するぞ、勇者殿」

「……ありがとうございます」

「だからこそ、警告する」

 領主の声が低くなった。

「村人たちが森の民と結託している。どうやら貴殿を巻き込む計画があるらしい。詳細は掴めていないが、満月の夜、何かが起きる」

 稲妻が走り、一瞬、領主の顔が鮮明に照らされた。そこには深い懸念があった。ヒゲ面の貴族は大きなため息をついて言った。

「証拠を掴めば、全員捕らえる。子供だろうと容赦はしない。その際は協力してもらえるか?」

 ストラシュは少し逡巡する。

「まあ、できるだけ血が流れないように……」

 領主が静かに頷いて見せた。ストラシュもまたそれに応える。

「片足でどれだけできるか分かりませんが」

「嬉しいよ、勇者殿」

 領主は微笑んだ。それは苦い、悲しい微笑だった。

 やがて酒が領主に回っていく。普段なら鋼のように引き締まった顔が赤らみ、疲労と酔いで目が潤んでくる。

「ああ、油断して飲み過ぎた。馬にも乗れなくなったら、流石に恥だ。少し寝かせてくれ」

 椅子に深く座り込み、目を閉じる。雨音だけが子守唄のように響く中、領主が夢うつつに呟いた。ほとんどテーブルに突っ伏すくらいに酔っている。

「ローザは……守りきれるだろうか」

 その声は、まるで祈りのようだった。

「私も妻も、魔界に剣を向けて死ぬ覚悟はできている。だが、あの女の腹の子だけは……せめてあの命だけは、この地獄から逃がしてやりたいんだ」

 初めて見せた人間らしい弱さ。権力の鎧の下にある、父親としての心。ルヴィナチワが毛布を持ってきて、眠る領主の上にそっとかけた。

 そのまま夜は静かに明けると思われたが、雨が強まった頃、女の悲鳴が広場から聞こえた。


*****


 突如、ガラスを引っ掻くような女の悲鳴が闇を切り裂いた。

「助けて! 誰か!」

 喉が裂けんばかりの必死の叫び声が、広場の方角から聞こえてくる。寝台に腰掛けたまままんじりともしていなかったストラシュは、すぐに杖を手に飛び出た。雨の中冷たい夜気が頬を刺し、彼は泥濘に杖をさしつつ進む。

 広場に辿り着いた時、井戸の周りに人だかりができているのがわかった。

彼らの持つ松明で、その場所だけが煌々と照されている。領主の部下の兵士たちだった。泥の中に倒れ込んだ女性を半円状に囲んでいた。

「あれは……」

 ストラシュが近づいていく。女性の身体は雨に濡れ泥にまみれ、かつては上等だったであろう亜麻色のブラウスも今や茶褐色に変色している。

「ローザだ」

 だが何よりも目を引いたのは、彼女のスカートだった。腰から下が赤黒い染みに覆われ、雨に濡れた石畳の上に広がるその様は、まるで巨大な血の花が咲いたかのようだった。兵士たちの手にした松明の揺らめく光が、その凄惨な光景を断続的に照らし出す。女性の金色の髪は泥と雨に塗れて顔に張り付き、その顔は月光のように青白く、生気を失っていた。

「子が……私の子が……」

 彼女の唇が震え、言葉にならない嗚咽が漏れる。

 次々と松明を手にした村人たちが広場に集まってきた。彼らは恐怖と好奇心の入り混じった表情で、少し離れた場所から苦しむローザを見下ろしていた。

 突然、黒い影が広場に飛び込んできた。重い鎧の音を響かせながら現れたのは、領主ウルフリクだった。

「ローザ! しっかりしろ!」

 ウルフリクは震える手で彼女を抱き上げた。松明の光に照らされた領主の顔からは、見る見るうちに血の気が引いていく。鉄のようだった領主の顔に、今は恐怖と絶望だけが浮かんでいた。

「子が……俺たちの子が……」

 ローザはうわごとのようにつぶやいている。ウルフリクは立ち上がると、周囲を睨みつけた。その目には狂気じみた光が宿っている。

「誰がやった!」

 彼の怒号が広場に響き渡る。

「答えろ! ローザに何をした!」

 村人たちは恐怖に駆られて後ずさりした。誰も答えられずにいる中、ローザが弱々しく呟いた。

「スープ……夕方のスープが……」

 領主は泥の中にひざまづいてその声を拾う。

「苦い味がしたけど……飲んでしまった……お腹が……急に……燃えるように……」

 領主はローザを胸に抱きしめる。

「ああ……あああ!」

 その声は獣の咆哮にも似て、およそこの村を統治する者とは思えぬ生々しい慟哭だった。威厳も品格もかなぐり捨てた、一人の男の絶望がそこにあった。

「許してくれ……守れなかった……守ると誓ったのに……」

 権威ある支配者の仮面が音を立てて崩れ落ちていく。折しも雨足が一層強まり、松明がジュウジュウと音を立てて燻りはじめた。煙が立ち上り、広場を白く霞ませる。領主の黒髪は額や頬に張り付き、涙と雨が混じり合って顎から滴り落ちていく。突然、ウルフリクは腰の剣を抜き放った。村人たちから悲鳴が上がる。刃が松明の光を受けて不吉に煌めいた。

「誰だ! 誰がローザに毒を盛った!」

 ウルフリクは雨の中で剣を振り回す。刃がオレンジの光を反射し、狂気じみた弧を描いた。彼が地面を踏み締めるたび、黒い水しぶきが飛び散った。

「出てこい! 臆病者め!」

 ローザが微かに目を開けた。雨に打たれながら、消えるような小さな声で囁く。

「ウルフリク……」

 領主は剣を深く泥に突き立て、震える手で愛しい人の頬をそっと包み込んだ。雨水が二人の間を流れ落ちていく。

「ローザ、誰だ? 誰がお前にスープを……」

「言わない」

 彼女は力なく首を振った。雨粒が彼女の青白い顔を洗い、まるで泣いているようだった。

「絶対に言わない。ウルフリク、どうかこの村を許してあげて」

「何を言っている! 俺たちの子が……」

 ストラシュは杖に寄りかかりながら広場を見渡した。村人たちは恐怖に顔を歪め、互いの顔を疑わしげに窺っている。ある者は震え、ある者は祈りの言葉を呟き、またある者は既に広場から逃げ出そうとしていた。この惨劇を前にして、誰もが他人を信じられなくなっているのが分かった。

 ローザは最後の力を振り絞るように、震える手を上げ、領主の頬に触れた。

「これ以上……村の炎を強めないで。憎しみの炎を……お願い……」

 その手がゆっくりと落ちていく。ウルフリクはその手を掴み、額に押し当てた。

「ローザ! ローザ!」

 ローザは震える手を上げ、領主の頬に触れた。

「これ以上……村の炎を強めないで。憎しみの炎を……お願い……」

その手がゆっくりと落ちていく。ウルフリクはその手を掴み、額に押し当てた。

「ローザ! ローザ!」

 土砂降りの雨が二人を包み込む。領主の慟哭が雨音に混じり、まるで天地が共に嘆いているかのようだった。稲妻が走るたびに、抱き合う二人の影が石畳に焼き付けられる。

 その時、人垣を掻き分けて黒い影が素早く近づいてきた。ルヴィナチワだった。彼女は雨に濡れた黒衣の裾を引きずりながら、迷いなくローザのもとへと膝をついた。

「どいてください」

 冷静だが有無を言わせぬ声で領主に告げると、細い指をローザの首筋に当て、次に瞼を開けて瞳孔を確かめる。それから腹部に手をかざし、何か呪文のような言葉を小さく呟いた。雨音に紛れてその言葉は聞き取れなかったが、彼女の顔には深い集中が浮かんでいた。

 しばらくして、ルヴィナチワは顔を上げた。

「まだ間に合います」

 その言葉に、ウルフリクは答えられない。ほうけたように黙っている。ルヴィナチワは続ける。

「ただの堕胎薬です。ですが出血が激しい。急がねば。薬草があります。すぐに煎じれば……」

 横に立つルヴィナチワに、領主は雨に濡れた剣を向ける。

「貴様が……貴様が呪いをかけたな! 魔女め!」

「私ではありません」

 魔女は静かに、しかし深い悲しみを湛えた声で答える。雨が彼女の黒衣を重く濡らし、まるで喪服のようだった。

「嘘をつくなぁ!!」

 領主が剣を振り上げる。雨水が刃を伝い、松明で輝き血のように赤く見えた。

「お前が……お前が……!」

 ストラシュが介入する。前に進んで錯乱した領主を押さえようとしたが、ぬかるんだ地面に足を取られ、杖が滑って雨の中に倒れてしまう。冷たい泥が顔にかかり、口の中に土の味が広がった。それでも彼は立ち上がり、かつての友のような心持ちで領主に語りかけた。

「しっかりしろ! ウルフリク! すぐにローザを教会に運ぶぞ! まだ助かる!」

 領主は雨に打たれながら、ローザを抱きしめたまま立ち上がった。長身が揺れ不安定にフラフラする。泥に汚れた彼の顔は、狂気と絶望の間を行き来していた。

「うわああああっ!」

 領主の絶叫が雨の夜を引き裂く。稲妻が走り、一瞬、彼の狂気に歪んだ顔を白く照らし出した。普段は冷静で聡明な領主が、泥だらけで剣を振り回し、雨の中で獣のように咆哮する姿に、村人たちは雨の中凍りついていた。

 土砂降りの雨は止むことなく、まるで世界そのものが泣いているかのように、悲劇の夜を洗い流し続けた。

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