第十四話 共犯者たち
冷たい。
それが最初に感じたことだった。
地面の湿気が背中から染み込み、朝露が衣服を通して肌を刺す。苔の匂いと腐葉土の香りが鼻腔を満たし、どこか遠くで梟が低く鳴いている。全身が石化したように重く、血管の中を鉛が流れているような感覚。瞼を開こうとしても、まるで誰かが上から押さえつけているかのように動かない。
「ルヴィ……ルヴィ、どこだ?」
「目覚めたか」
老婆のしわがれた声が頭上から降ってきた。東方訛りが濃い声。朦朧とした視界に、紫水晶を思わせる瞳がストラシュを値踏みしていた。
「その瞳……」
ルヴィナチワと同じ色だった。魔力を宿す者の色。
「魔界を見て、なお正気を保った者よ」
老婆の手には黒い木を削りだしたような杖があった。それがストラシュに向けられ、近づいてくる。炎の灯りの中、刻まれた紋様すら見てとれるくらいに。
「や、やめろ……」
しかし体は動かない。
「ルヴィ、ルヴィいい……」
情けない声で彼の魔女を呼ぶしかない。杖の先端が額に触れた瞬間、氷柱を脳髄に突き刺されたような衝撃が走った。
「ぎゃっ!」
「その身体は既に器として完成しつつある」
老婆の声が頭の中心に響くように重い。
「お前はまさしく、勇者だ」
器。その言葉が頭蓋の内側で反響する。何の器なのか。誰のための器なのか。答えを知ることが、恐ろしい。
「次の満月、全てが整う」
老婆は杖を地面に突き立てて立ち上がった。その動作は、齢を感じさせないほど滑らかだった。傍らに控えていた魔女……ルヴィナチワが、まるで別人のように恭しく頭を垂れる。
(ルヴィ……)
見慣れた魔女が老婆に礼をする姿は、ストラシュがこれまで見たことのない光景だった。老婆が節くれだった手を魔女の額に置き、古代の言葉らしき呪文を紡ぐ。その音律は、人の耳には捉えきれない周波数を含んでいるようで、聞いているだけで鼓膜が震えた。
「準備は整えよ。村人たちの決意も固まった」
老婆の宣託に、周囲から「はい」という声が重なった。それは祈りにも、誓約にも、あるいは贖罪の言葉にも聞こえた。
松明の炎が作る明暗の中に、見慣れた顔々が浮かび上がる。鍛冶屋の親方の髭面。パン職人の小麦粉で白くなった手。農夫たちの日に焼けた顔に刻まれた皺。皆一様に疲労の色を濃くしながら、しかし瞳の奥には狂信にも似た光が宿っていた。
「お前たちは皆、共犯者となることを選んだ」
老婆の宣言が、夜明け前の森に重く沈んでいった。ストラシュの意識と共に。彼は再び気を失った。
*****
「勇者様、もう少しの辛抱です」
鍛冶屋の親方が、慎重にストラシュを背負い上げた。鉄を打つ腕は太く頼もしいが、今は優しげだ。動かない身体を預けるしかないストラシュは、ただ男の広い背中に揺られながら、森の小道を進んでいく。
一歩ごとに、世界が揺れる。木漏れ日が瞼を刺し、風が耳元で囁く。朝になったのだ。
「本当にこれでいいのか……」
そばを行く誰かの震え声が、朝靄の中を漂う。
「子供たちの未来のためとはいえ」
別の声が応じる。罪悪感が滲む響き。
「もう後戻りはできない。全員が共犯者だ。大魔女様がそうおっしゃられただろ」
その言葉に、複数の溜息が重なった。それは諦めと決意が綯い交ぜになった、重い吐息だった。
「神父様には気づかれてないだろうな」
若い農夫の不安げな声。
「それよりもあのヒゲ野郎だ。領主が動き出す前に、全てを終わらせなければ」
年配の農夫らしき声が締めくくる。そして、最も胸を抉る言葉が——
「勇者様には申し訳ないが……世界のためだ」
その声には、涙が混じっていた。
「ルヴィ……ルヴィ……」
「ここにおりますよ、勇者様」
いつもの冷たい手の感触がした。
*****
東の空に完全に太陽が昇った頃、一行は村の広場にたどり着いた。水汲みの女たちが驚いた顔をする中、ストラシュは幻のような光景を目の当たりにする。
行方不明だった少年が、母親の腕の中に飛び込むところ。少年を背負っていたのはルヴィナチワだった。母親はいつもであれば嫌悪するはずの魔女に頭を下げ、嗚咽しながら息子を抱きしめている。
「ああ……ああ……この子があなたに石を投げたというのに…………ああ、ありがとうございます、ありがとう、ありがとう…………」
少年は上半身裸だった。昨日確かにつけられていた紋様はなかったが、さらに消えてしまったものがある。少年の背中、かつて無残な鞭痕が刻まれていた場所は、まるで生まれ変わったかのように滑らかな肌を取り戻していた。
「ふう……」
ストラシュは農夫から杖を受け取ると、鍛冶屋の肩を借りつつ広場に立った。まだ地面は雨の湿度をたたえていて、ぬるぬるしていた。
少年が母親の腕から離れ、魔女に向かって深々と頭を下げる。その動作は、教えられたものではなく、心からの感謝が形となったものだった。
「ありがとうございます、魔女様」
その敬称を聞いた瞬間、広場の空気が変わった。これまで誰も口にしなかった呼び名。恐怖と侮蔑の対象でしかなかった存在への、初めての敬意。
周囲の村人たちの表情に、複雑な感情の綾が浮かぶ。安堵、子供が救われたことへの。罪悪感、その代償を想像するがゆえの。
「お、お前ら、もしかして森の民の、魔女の手を借りたのか……?
*****
太陽が天頂に近づく頃、ようやく身体の自由を取り戻したストラシュだったが、すぐに日常に戻ることはできなかった。
広場で村の分裂を目の当たりにしたのだ。
痛ましい光景だった。
昨晩、儀式に参加した約二十名が、広場の東側に固まっている。彼らの顔には疲労の色が濃いが、それはある種の充実感を伴っているようだ。自信に満ちていた。視線を交わし、小さく頷き合い、肩を寄せ合う。それは秘密を共有する者たちだけが持つ、無言の連帯だった。
対して、昨日村に残っていた者たち約三十名は西側に群れている。中心には黒衣のグレゴール神父。その周りを、恐怖と不信に顔を歪めた者たちが取り巻いていた。
「み、みなさん、どうか冷静に……」
老齢の彼の言葉を、いつもはみんな尊重するはずである。しかし、今日に限っては、それに被せるものがいた。
「おめえら! 森でいったい何をした! どうしてあの子の傷が治ってる!?」
不参加者の一人、村一番の頑固者として知られる五十代の農夫が声を張り上げた。その声は広場全体に響き、カラスたちが一斉に飛び立った。
「子供の傷を治してもらっただけだよ! 森の連中に軟膏を塗ってもらったのさ!」
広場の反対側から、若い母親が応じる。
「ウソだぁ!」
老農夫の顔が赤く染まる。
「異教の黒魔術の儀式にちげえねえ! 悪魔に魂を売ったんだろう! ええ!? おい!」
「悪魔だと?」
普段は温厚なパン屋が前に出た。
「教会の祈りで魔界が消えたか? 聖水で子供の傷が癒えたか? 俺たちは生き残る方法を選んだだけだ」
「そ、それは……」
グレゴール神父がうめく。教会の権威を真っ向から否定する言葉だった。彼が躊躇している間に。悲鳴に近い声が上がった。
「それは異端だ!!」
神父が十字を切りながらそれを受け、
「た、たしかに、主の教えに背く行為ではあります……」
と言った。歯切れが悪い。ストラシュは完全な傍観者として唇を噛むしかない。
(グレゴール神父、なかなか厳しい状況だな)
おそらく神父としては、村でこのような対立が起こること自体が早急に収集されるべきことなのだろう。しかし信仰もある。森の民の協力を大っぴらに宣言されると……立場上、非難せざるを得ない。
たとえ、堕胎薬を密かに利用している身でも……。
「主の教えが俺たちを救ってくれたか?」
鍛冶屋の親方が重い声で問いかけた。
「毎日祈っても、魔界は広がるばかりじゃねえか」
「不信心だ! 不信心だぁ!」
争いは激化していく。声が大きくなり、拳が振り上げられ、今にも掴み合いが始まりそうな緊張感。その時、ストラシュは鍛冶屋の親方と目が合った。
親方の目に浮かぶのは、深い苦悩と申し訳なさ。しかし、その奥には鋼のような決意が光っている。唇が小さく動いた。声は出ていないが、その形が語っている。
勇者様なら……理解してくださるはずだ
その無言の訴えが、鉛のようにストラシュの胸に沈んでいった。
(俺に……どうしろっていうんだ)
*****
朝の光が、鉛色の雲の隙間から病的な白さで差し込んでいた。久々にストラシュは鍛冶屋に向かう気になった。日常というものを過ごす。まるで何もなかったかのように。そうしないと、村の崩壊に手を貸している気分になりそうだったから。
近づくにつれ、違和感が肌を刺した。いつもなら朝露も乾かぬうちから響いている槌音が聞こえない。煙突から立ち昇るはずの煙も、今朝はない。まるで鍛冶屋全体が息を潜めているかのようだった。
薄暗い作業場を覗くと、いつもは農作業に出掛けているはずの農夫たちが輪になって身を寄せ合っていた。親方が中心で、その顔は墓石のように硬く、深刻そのものだった。低い囁き声が、まるで呪文のように交わされている。
「だから、それは満月の夜に……」
一人が振り返る。若い農夫だった。その顔が蒼白になった。
「ゆ、勇者様だ」
その一言で全員が振り返り、そして凍りついた。
瞬時に会話が断ち切られ、不自然な沈黙が降りた。緊張に満ちた静寂。彼らのの視線が絡み合い、無言の警告を交わし合う。
「や、やあ、勇者様! ちょうど研ぎを頼みてえもんが溜まってたんだぁ」
親方の口が不器用に言葉を発する。わざとらしい笑顔を貼り付けながら。だが目だけは笑っていない。むしろ怯えているようにさえ見えた。
「お、おはようございます、勇者様」
そのほかの者の声も上ずり、まるで絞首台に立つ男のような震えがあった。
「おはよう」
ストラシュは努めて穏やかに応じた。
「なら今日も手伝わせてもらうよ?」
「ありがてえ」
親方の視線が泳いだ。本来ここにいるはずがない農夫たちは、そそくさと畑の方へ消えていった。
作業を始めてしばらく、重い沈黙が作業場を支配していた。槌を打つ音さえ、どこか躊躇いがちで、リズムを失っている。そんな中、親方が不意に口を開いた。まるで何かに耐えきれなくなったように。
「勇者様……その、この前は大変でしたな」
ストラシュの手が止まった。研いでいた剣が、研ぎ汁を垂らして鈍く光った。
「ああ……」
ストラシュは、その件は話してはいけないだろうと思っていた。鍛冶屋も……間違いなくあの儀式の夜の参加者。そして村人の対立の中で「儀式派」と呼べる半数のリーダーのような存在。あまりにも……取り扱いが難しい話題だった。
「ここに来ない方が良かったかな」
鍛冶屋の槌音が止まる。ストラシュは変わらずシャッシャと研ぎを続けながら、言葉を続けた。
「俺に話せないようなことを密かにやっていることはわかってる。だが、それでもいい。村には村の事情がある。俺はただの余所者だ。ただ……取り返しのつかないことにならなければいいと、それだけは思っている」
大柄な親方は、少し思案するような顔をした後、重い溜息をついた。その肩が目に見えて落ちる。まるで長年背負ってきた重荷の存在を、ようやく認めたかのように。
「勇者様は……本当に、ただの余所者じゃねえ。本当の英雄なんだ」
親方は槌を置き、作業場の奥へと歩いていく。その足取りは、何か重大な決断をした者のそれだった。
*****
ストラシュは広場のぬかるみを踏みしめる。杖が滑るのにも随分慣れた。鍛冶屋での不審な空気は、毒のように彼の心を蝕んでいた。
早めに仕事を切り上げ、教会へ向かった。グレゴール神父……この村で最も苦悩する者と、話をしたかった。
教会の重い扉を押し開けると、石造りの壁で冷やされた空気が揺れた。まだ皆が仕事をしている時間、神父は祭壇の前で跪いていた。祈りの姿勢だったが、その背中は恐ろしく小さく見えた。ストラシュの靴と杖の音がカツンコツンと交互に響く。石の床がそれを大いに増幅する。すると、神父の背中は動揺するように揺れた。
振り返った顔は、まるで長い病を患った者のようだった。憔悴し、頬はこけ、目の下には死者のような隈ができている。かつて慈愛に満ちていた瞳は、今は恐怖と罪悪感で濁っていた。
「神父様」
ストラシュはできるだけ圧迫感を与えないような口調に努めたが、厳しい印象は隠しきれない。
「村で何が起きているんだ?」
単刀直入な問いかけに、グレゴール神父の顔が苦悶に歪んだ。禿げた頭に手をやり、寒いはずなのに汗を拭うような仕草をした。長い沈黙。やがて深いため息が漏れた。
「勇者様、私は……」
言葉が途切れる。震える手で祈るために組まれた手をぎゅっと固く結ぶ。それは溺れる者が藁をも掴むような様子だった。そうやって神に必死にすがりついているのだ。 ストラシュは杖に寄りかかってため息をつく。今度はちゃんと寄り添うような声色で声をかける。
「村の対立をなんとかできないのは辛いよな。俺もできるだけ力になりたいが……どうも俺は部外者かつ当事者というか……特殊な立ち位置らしい。下手に動けない」
グレゴール神父の瞳に、一瞬、意外そうな光が宿った。それは驚きとも取れたし、ストラシュが村の複雑な事情を理解していることへの困惑とも取れた。しかし、その奥には微かな希望の火が揺れていた。誰かが、この地獄のような状況を理解してくれている。その事実だけで、彼の心に小さな救いが生まれたのかもしれない。
だが、次の瞬間、その希望は罪悪感と恐怖に押しつぶされ、神父の表情は再び複雑な苦悶に染まった。
「彼らは……何か企んでいます」
ようやく絞り出された声は脆く崩れそうな印象だった。
「森の民と結託し、黒魔術の儀式を……。満月の夜に、大きな儀式があるようです。詳細は分かりません。いや……」
神父は顔を両手で覆った。
「知りたくないのかもしれません」
「異端、いや、邪教か」
老人の小さな身体はいっそう小さくなる。そこにはストラシュが最初に村についた時、年齢に見合わない元気さを見せていた彼の面影はない。
「分かっています……分かっているんです!」
叫びに近い告白だった。
「でも、彼らも必死なんです。魔界の影が日に日に濃くなり、子供たちの未来が闇に呑まれようとしている。教会の祈りだけでは……神の御加護だけでは……」
声が掠れ、消えた。
「足りないのかもしれません」
その瞬間、石の床に彼は倒れ伏す。ストラシュは慌てて近寄ろうとするが、流石に片足の身では間に合わない。グレゴール神父はよろよろと床に手をついて起き上がる。神に仕える身でありながら、信仰の限界を認めた瞬間だった。
まるで最後の審判を待つ罪人のように。ストラシュは杖に縋って床に片方しかない膝を突き、神父の肩を支える。
「私には……もう力がありません。老いて、弱くて、臆病で……神よ、お許しください」
震える唇から、決意の言葉が漏れた。
「私は中央へ行こうと思います」
ストラシュの手が、神父の肩の上で固まった。
「教皇庁の裁きに委ねようと思います」
その言葉の重さが、冷たい教会の空気をさらに凍てつかせた。それが何を意味するか、二人とも十分に理解していた。
「う、馬もないだろう? 徒歩だと、完全に冬になる」
ストラシュの声には、呆れとも心配ともつかない響きがあった。神父は力なく微笑んだ。死を覚悟した老人の笑みだった。
「巡礼の旅のようなものです。神の思し召しがあれば……たどり着くでしょう」
それは諦観と決意が入り混じった、複雑な表情だった。 ストラシュは困惑した声できく。
「たどり着いたらどうなる?」
グレゴール神父は顔を逸らす。
「おそらく最悪、この村は火炙りでしょうね。魔界に落ちたとか言われて」
「そんな……」
ストラシュの声に、初めて動揺が滲んだ。
「覚悟の上です。私にはもう判断できませんから。全てを神に委ねます」
グレゴール神父は立ち上がり、祭壇を見つめた。円環の聖なる象徴の像が、薄暗い教会の光の中で影を作る。ストラシュはもう止められそうもないと感じつつ、声をかけるしかない。
「人が死ぬんだぞ? 村人が……」
「もうずいぶん殺してきましたよ」
神父の言葉は、枯れ葉が風に舞うように軽く口から出てきたが、その響きは鉄のように重かった。
「堕胎をさせることでね」
沈黙が二人の間に横たわった。ストラシュは唾を飲み込み、言う。
「……俺はあんたの行動を理解できないが、止めるだけの動機もない」
ストラシュは杖に体重を預け、ゆっくりと立ち上がった。
「旅の無事を祈る」
グレゴール神父の目に、涙が光った。
「ありがとう。止められると思っていた。だから話したんです」
彼の声は震えていたが、どこか安堵の色も滲んでいた。
「止めて欲しかった。でもそうじゃない。そこまで勇者様に寄りかかるのは良くないことだ」
神父はストラシュの顔を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、初めて出会った時のような、わずかな強さが戻っていた。
「あなたは英雄です。そして友です。ありがとう、本当にありがとう」
ストラシュは何も答えず、ただ頷いた。そして杖を突きながら、ゆっくりと祭壇から離れていく。カツン、コツン、カツン、コツン。靴と杖の音が、空虚な教会に響く。重い扉を押し開けると、外の空気はさらに冷たくなっていて、肺を刺した。 振り返ることなく、ストラシュは教会を去った。背後で、グレゴール神父が再び跪く音が、かすかに聞こえたような気がした。




