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第十三話 森の秘密

 その夜、雨が上がっても、まとわりつく湿度は消えたりしない。ドアを叩く音でせっかく戻った静寂もやぶられた。ストラシュが杖を取ると、夕食の準備をしていたルヴィナチワがすでに戸口に向かっていた。彼女が扉を開けると、そこには……少年の母親が立っていた。

「ゆ、勇者様ぁ……」

 昨日よりもさらに憔悴している。髪は乱れ、服は皺だらけ。しかしその目には、狂気じみた決意が宿っていた。

「あ、あんた……」

 ストラシュが困惑していると、母親は倒れ込むように玄関のドアから入ってきた。

「勇者様……」

 母親は押し入るように家の中に入ると、ルヴィナチワを無視して進み、いきなりストラシュの前に膝をついた。

「お願いです。お願いです、勇者様」

 震える手で、ストラシュの手を掴む。驚くくらい熱い体温。

「お、おい、死んじまうぞ……?」

「あの子を……あの子を見つけてください」

 ストラシュはルヴィナチワと顔を見合わせつつ、しゃがむのができないので恐縮しつつ立ったまま話しかける。このまだ三十そこそこの女性は、朝の初冬の冷たい空気に湯気でも上がりそうなくらいの勢いで床に這いつくばって懇願する。

「もう、もう魔女が悪いとか言いません。東の民がどうとか、そんなこと言いません。だから……だから……」

 涙がぼろぼろと流れる。ストラシュの手がぐいぐい下に引っ張られる。熱い涙や鼻水がかかる。

「村の人たちは、決して森の奥には入りません。怖がって……臆病で……でも勇者様なら……勇者様なら……」

 母親はストラシュの手に顔を埋めて、嗚咽した。嘔吐でもしそうな勢いで。

 ストラシュは困惑した。断るべきだ。自分には無理だ。片足の身で森に入るなど……。

 しかし、母親の震える肩を見て、言葉が出なかった。

「……ルヴィ」

 振り返ると、魔女が静かに頷いた。すでに外套を纏い、薬草の入った袋を肩にかけている。準備はできていた。まるで、こうなることを知っていたかのように。

「わかった」

 ストラシュは深く息を吐いた。

「探しに行く」

 母親が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔に、かすかな希望の光が宿る。

「本当ですか……本当に……」

「ただし」

 ストラシュは杖を持ち直し、この哀れな女性の顔を見下ろした。

「期待はするな」

 しかしこの母親には、その言葉は届いていないようだった。何度も何度も「ありがとうございます」と繰り返すだけ。ストラシュは声をかけて人を呼び、連れ帰ってもらった。熱病はもう、彼女の命を奪う寸前まで来ているようだった。なぜ立ちあがれるのか、あまつさえ、勇者の家まで歩いて来れたのかわからないくらいに。

*****

 件の女性はなんとか村の男たちに引き渡せた。うんざりしたような顔だったが。そうして、ストラシュとルヴィナチワは森の入り口に立っていた。黒々とした木々が、まるで巨大な壁のように聳え立っている。昼間でも森の奥は暗く、何も見えない。ましてや今は深夜である。

(そりゃ村人も恐れるよな)

 風が吹くたび、木々がざわめき、まるで生き物のように蠢いた。ストラシュの体も震える。

(……もう一度、あの世界の方へ……近づくんだよな)

 一歩、森に足を踏み入れた瞬間、ストラシュの呼吸が乱れた。

 湿った土の匂い、腐葉土の感触、薄暗い木々の影。それらが突然、魔界の記憶を呼び覚ます。あの時も、こんな風に暗かった。仲間たちと共に進んだ、あの忌まわしき地獄への道も。

「うっ……」

 杖を握る手に力が入る。額に冷たい汗が滲んだ。

「ふう……ふう……」

 木々の影が、まるで魔界の触手のように見える。風の音が、死んだ仲間たちのうめき声に聞こえる。

「ストラシュ様」

 ルヴィナチワの静かな声が、現実に引き戻してくれた。

 彼女は何も言わず、ただ懐から小さな笛を取り出した。骨で作られた、古い笛。唇に当て、低く、短い音を三度鳴らす。

 すると、頭上の枝がざわめいた。

 一羽、二羽、三羽……黒い影が舞い降りてくる。カラスたちだった。真っ黒な羽を持つ、賢そうな目をした鳥たち。

「カァーっ!」

 いつもの仲間……ルヴィナチワの使い魔の彼もまた頭上を飛ぶ。仲間に会えて喜んでいるようにストラシュには見えた。

「この子たちが、道を示してくれます」

 ルヴィナチワが囁くと、一羽のカラスが低く飛び、森の奥へと進んでいく。残りのカラスたちは、まるで護衛のように二人の周りを旋回した。そしていつものように使い魔が肩に降りてくる。

 ストラシュは深く息を吸い、震える足を前に進めた。カラスの導きに従って、暗い森の奥へと入っていく。時折、カラスが「カァ」と鳴き、方向を示す。ルヴィナチワはその声を理解しているかのように、迷いなく進路を選んだ。

*****

「な、なんだあれは……ルヴィ、背を低くしろ」

 最後の木立を抜けると、目の前に信じがたい光景が広がった。

 円形の空き地。その中央に、大きな焚き火が燃え上がっている。炎は高く舞い上がり、周囲を赤々と照らしていた。

 その周りを、人々が輪を作っている。

 太鼓を叩く者。単調なリズムが、心臓の鼓動のように響く。

 トン、トン、トン……。

 踊る者。奇妙な動きで、炎の周りを回る。手を振り、足を踏み鳴らし、時に地面に伏せる。

 森の民。

 魔女たちを輩出する、ルヴィナチワと同じ出自の者たち……。

 詠唱する者。低い声で、何かを唱えている。言葉にならない音の連なり。しかしそれは確実に何かの意味を持っている。

 そして中央に……東の民の老婆が立っていた。あの行商人の中にいた老婆。見覚えのあるショールが目立つ。深い皺の刻まれた顔が、炎の光で赤く染まっている。

 老婆は両手を天に向けて、何かを唱えている。古い言葉。東の言葉。帝国語ではない、もっと原初的な響きを持つ言語。

 ストラシュはルヴィナチワと目配せしつつ、さらに近づく。詳細が見えてくる。青白い地面を見て、彼は息を呑んだ。

 奇怪な紋様が描かれている。円と線が複雑に組み合わさった図形。それは血のような赤い液体で描かれていた。生々しく、湿っていて、炎の光を受けて鈍く光る。

 そして、その紋様の上に……。

「あれは……」

 少年がいた。

*****

 少年は紋様の中心に横たわっていた。

 しかし、怯えている様子はない。むしろ……恍惚とした表情を浮かべている。目は虚ろだが、そこには奇妙な穏やかさがあった。まるで、美しい夢を見ているかのような。

 老婆が少年の傍に膝をつき、何か褐色の液体を指先につけた。そして、少年の額に印を描く。胸に。両手に。

(何をしている……)

 ストラシュは目を凝らした。少年の背中……昨日まであったはずの鞭の痕が……。

(消えている?)

 いや、完全には消えていない。しかし明らかに薄くなっている。赤く腫れ上がっていた傷が、今はかすかな線になっている。

(治癒……いや、これは……)

 視線を輪に移した瞬間、ストラシュは愕然とした。

 東の民だけではない。村人たちがいる。見覚えのある顔が、いくつも、いくつも。

(ローザか?)

 あの快活な女が、今は違う顔をしている。真剣な、敬虔な表情で、呪文を唱えている。いつもの明るさはどこにもない。

(鍛冶屋の親方も……パン焼きの親父まで……)

 知った顔が次々と見つかる。昼間は敬虔な信徒として振る舞っている彼らが、今は異教の儀式に没頭している。

 いや、異教というのも違うかもしれない。彼らの表情には、邪悪さはない。むしろ、神聖な何かに触れている者の顔だった。真摯で、純粋で、何かを心から信じている者の顔。

 意味不明の言葉を唱和する声が、次第に大きくなっていく。太鼓のリズムが速まる。踊り手たちの動きが激しくなる。炎が一層高く燃え上がる。

 儀式は、クライマックスに向かっているようだった。

 その時だった。

「あっ……」

 ストラシュの体が硬直した。

 じっとりとした圧力を感じる。皮膚に纏わりつく何か。空気が粘つく。重い。息苦しい。そして、舌の奥に広がる金属的な味。鉄錆びたような、しかし鉄ではない。もっと腐敗した何か。肺の奥まで染み込んでくるような、冷たい熱。

「おぇ、ぐぉ……」

 これは……。

(魔界……)

 心臓が早鐘のように打ち始めた。

(魔界の気配……)

 違う、ここは村の森だ。魔界ではない。まだ魔界は遠い。東の果てにある。ここには来ていない。

 しかし身体が、精神が覚えている。

 あの東の果てで感じたのと同じ。悪意のような、狂気のような、言葉にならない何か。世界の理から外れた、異質な存在の気配。

 呼吸が乱れ始める。額に汗が滲む。手が震える。

(馬鹿な……気配が強すぎる……)

 突然、視界が歪んだ。

 森の光景が変わっていく。木々が……肉の壁に見える。赤黒い肉塊。脈動する血管。どろりとした体液が滴る。

「あ……ああ……」

 ストラシュの口から、うめき声が漏れた。

 幻覚だ。わかっている。これは森だ。普通の木だ。しかし、目に映るのは魔界の光景。あの時の……仲間たちと共に見た、地獄の光景。

 声が聞こえる。

「ストラシュ!」「助けて!」「頼む!」

 仲間たちの声。死んでいった者たちの声。自分を信じて、ついてきて、そして……。

「違う……」

 ストラシュは首を振った。幻覚だ。彼らはもういない。死んだ。魔界で、無意味に、無残に。

「ローラン!」

 叫んでしまった。親友の名を。最期まで自分を守ろうとした、あの優しい男の名を。

「ミーナ!」

 魔法使いの少女。まだ十代だった。笑顔が眩しかった。

「セバスチャン!」

 老練な戦士。父のように慕っていた。

 ストラシュの手が空を掻いた。何かに追い縋るように。杖を手放し、両手で頭を抱えた。そして、膝が崩れる。地面に倒れ込む。

 全身が痙攣し始めた。制御できない。口から泡が溢れる。完全な発作だった。

「ストラシュ様!」

 ルヴィナチワが駆け寄り、ストラシュを抱き起こした。帽子の下、その額から、血が滲んでいる。先日の傷がまだ完全に治っていないのに、無理をしたせいだ。

 太鼓の音が、止まった。踊り手たちが足を止める。詠唱が途切れる。

 全員が、一斉に彼らの方を振り向いた。

 ざーっと茂みを掻き分け向かってくる。松明の光に照らされたストラシュの姿は、凄惨だった。痙攣し、泡を吹き、狂ったように叫んでいる。

「く、くるな……あぐぅ……っ!」

 かつての英雄の、無様な姿。そしてそれを押さえる黒い魔女。頭上でカラスが鳴き始めた。

 先ほどまで儀式に集中していた村人たちの顔に、驚愕が浮かんだ。ローザが手で口を覆った。鍛冶屋の親方が松明を持って迫ってくる。

 そして、東の民の老婆が、ゆっくりと近づいてきた。

「この男……その状態でここまでくるとは」

 老婆は、ストラシュを見下ろした。

「っがあ……っぐう……」

 ストラシュはルヴィナチワの腕に押さえつけられながら、なおも意思とは無関係に手足をばたつかせている。

 周りの者たちに長い沈黙があった。儀式の参加者たちは、息を殺して見守っている。勇者のうめきと、松明の炎だけが、音を立てる。

 老婆の目は鋭いが、そこに敵意はない。むしろ、何か深い理解のようなものがあった。

「……魔界を見た者だな」

 低い声だった。東方訛りのある帝国語。

「あの深淵を覗いた者」

 老婆はしゃがみ込み、ストラシュの顔を覗き込んだ。

「そして……生きて帰った者」

 ストラシュは朦朧とした意識の中で、その言葉を聞いていた。答えることはできない。ただ震え、ルヴィナチワにしがみつくだけ。

 老婆は立ち上がり、傍の魔女を見た。

 松明のオレンジ色のあかりの中。二人の視線が交わる。言葉はない。しかし、何か無言の了解が交わされたようだった。

 老婆の皺だらけの手が、ストラシュの額に触れた。冷たい指先。

「うあ……何をする……」

「お前の魂は、まだ半分あちら側にある。だから感じる。だから見える」

 その瞬間、ストラシュの頭の中に映像が流れ込んできた。

「うあ……ああああああ!!」

 老婆は背を向けた。そして、儀式の輪へと戻っていく。

「境界に立つ者よ」

 老婆の最後の呟きが、風に乗って聞こえた。

「まだ、その時ではない」

 ストラシュの意識は、次第に遠のいていった。最後に聞こえたのは、ルヴィナチワの声。

「ストラシュ様、勇者様……大丈夫です……私がいます……」

(ルヴィ……)

 その声はストラシュにこの上ない安心を与える。その暖かな感覚に包まれながら、彼は闇の中へ落ちていった。

 頭の片隅で、まだ疑問が渦巻いていた。

 境界に立つ者。

 半分あちら側。

 それは一体……。

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