デートの埋め合わせ(ソフィアとギルバートの場合)
騒乱編の後のお話です。
「本当にすまなかった」
ギルバートがソフィアに向かって頭を下げた。あの戦争からしばらく経ち、フォルスター侯爵家にも平穏な日常が戻ってきている。
「いえ……あの、気になさらないでください。残念だとは、思いましたが……」
ソフィアは慌てて首を左右に振った。
ギルバートがソフィアに謝罪しているのは、明日のデートができなくなってしまったためだ。戦後処理に伴う御前会議に、ギルバートが出席することになったのだ。第二小隊副隊長としては出席の必要は本来無いはずなのだが、今回は魔法騎士の方の任務でエラトスに単身潜入したことによって、急遽呼び出されてしまった。
元々の予定では、ソフィアとギルバートの二人で、騎馬で郊外の湖まで行くことになっていた。
ソフィアはこれまで馬に乗ったことはほとんどなかった。しかし、ギルバートの愛馬とともに駆けた旧レーニシュ領までの道は、爽やかで、見たことがない景色で、楽しかったのだ。馬に乗りたいと言ったとき、ギルバートは嬉しそうにしてくれていたが、多忙な今の時期に約束をさせてしまったことは良くなかっただろうかと、ソフィアは少し後悔する。
「すまない。次の休みには、必ず」
「ご無理はなさらないでくださいね。ギルバート様、お忙しいでしょうし……大切なお役目だと存じておりますから」
ソフィアは控えめに微笑んだ。ギルバートが小さく嘆息し、首を左右に振る。
「──いや。私にとっては、ソフィアとの約束も同じくらい大切だと思っていた。殿下の命令でなければ」
「比べないでください……」
比較しているのは、国王陛下の御前会議だ。ソフィアとのデートと一緒にしてはいけないだろう。
「そのくらい大事だということだ」
ギルバートはあくまで真面目な顔で言う。隣り合って座るギルバートの腿の上で繋いだままの手の温度が、少し上がったような気がした。
「あ、ありがとうございます。では、次の機会に」
ソフィアは僅かに目を伏せ、ギルバートの視線から逃れた。大切に思ってくれるのが嬉しくて、同時に恥ずかしい。
「だがそれだけでは私の気が済まない。お前は、何か私にしてほしいことはないか?」
その言葉に顔を上げると、優しい藍色の瞳がソフィアの表情を窺っていた。
「してほしいこと……ですか?」
「ああ。欲しいものでも構わない」
ソフィアは小さく首を傾げた。してほしいことや欲しいものと言われても、すぐに思いつかない。ギルバートも邸の皆もいつも優しく親切で、ここでの生活は充分に幸せだ。男爵家にいた頃とは比べものにならないくらい、多くの物に囲まれている。これ以上を望むことなど、ソフィアにできるはずがない。
「え……あの、ですが」
「遠慮はいらない。正直に言ってくれ」
困った。本当に何もないのだ。ギルバートはソフィアの返事を待つように、じっとソフィアの瞳を覗いている。
ソフィアはギルバートの瞳を見つめ返した。なんて透き通った藍色だろう。優しい色からは、ソフィアを心から気遣ってくれていることが分かる。ソフィアにはギルバートの心は読めないが、きっと間違いないだろう。
「本当に、何でもよろしいのですか?」
ソフィアの言葉に、ギルバートが頷いた。その返事から思いついてしまった悪戯に、ソフィアは繋いだ手をぎゅっと握った。
「──では、しばらく目を閉じていてください」
「それがしてほしいことか?」
「はい、そうです」
ギルバートは不思議に思いながらも、ソフィアの願いに従ってくれる。
騎士などという周囲を警戒する仕事をしているのに、ソフィアの前では、望めばこんなにも無防備な姿を晒してくれるのだ。それが信頼の証であるようで、ソフィアは胸が熱くなった。
目を閉じたギルバートは、無言のままじっとしている。ソフィアの願いを、疑問に思っているだろうに。
「──……っ」
軽く腰を上げたソフィアは、不安定な姿勢のままギルバートの肩に繋いでいない方の手を置いた。ぴくりと反応したギルバートに、ソフィアは囁き声で注意する。
「目は、閉じていてくださいね」
すぐ近くで見るギルバートの顔に、どきどきと鼓動が煩い。こんなこと、本当ははしたないことだろう。夫婦なのだからはしたなくもないのだろうか。しかしソフィアにとっては、いずれにせよ勇気がいることだ。
そっと目蓋を閉じ、その唇に自身の唇を重ねる。そっと触れた甘さに、言葉にできない幸福が胸を占めた。
一瞬重ねた唇を離して目を開けたすぐ目の前で、ギルバートが目を開け驚いていた。ばちりと目が合って、ソフィアは顔が熱くなる。
「閉じていてって……っ!」
慌てて離れようとしたソフィアを、ギルバートの力強い腕が捕らえた。その固い身体に、凭れるように抱き寄せられる。逃げ場がないソフィアは、唇を噛んでギルバートの胸元に顔を埋めた。悔しい。そして、恥ずかしい。それでもとても幸せだ。
「──妻にこんな可愛いことをされて、黙っている夫などいるのか?」
淡々とした口調で問い掛けるギルバートに、ソフィアは何も言い返せずに口を噤んだ。確かに、先に仕掛けたのはソフィアである。
「申し訳──」
「謝る必要はない」
ギルバートがソフィアを抱き締める腕の力を強めた。吐息のような言葉にならない声が漏れる。ギルバートは、それにくつくつと喉を鳴らして笑った。
「お前は可愛い」
「──……っ」
「それでは、私が喜ぶばかりだ」
ソフィアからの口付けのことを言っているのだろう。ギルバートが喜んでくれたのならば、勇気を出した甲斐もある。ソフィアは顔を持ち上げて、ギルバートを見上げた。
「いつも、ギルバート様からしていただいて、私は……嬉しいばかりですから」
口付けられることがこんなにも幸せなものだと、ソフィアに教えたのはギルバートだ。願いというのはきっかけだったが、ギルバートにも同じ喜びを感じてもらいたかった。
ギルバートは驚きに目を見開いて、それから顔をくしゃりとさせて笑った。あまりに無邪気な笑みで、ソフィアは思わずそれに見入った。
「嬉しいか」
「は……はい」
「そうか」
ギルバートはソフィアの身体を抱き直し、立ち上がった。ソフィアは突然の浮遊感に目を見開く。
「え、あの……」
困惑しているソフィアの頬に、ギルバートが触れるだけの口付けを落とした。
「──続きは、寝室でゆっくり語り合おう」
「あ……っ」
続き間の奥への扉を開けると、そこは既に暖炉の火で暖められていた。魔道具にはない優しい揺らめきが、明かりの無い寝室を柔らかく照らしている。
二人だけの世界は甘く秘めやかだ。ソフィアは染まる頬と近くに感じる温もりに、そっと目を閉じた。




