26・回想(21)
午後を過ぎた頃から、しとしとと小雨が降り出した。
外の景色はしっとりと煙り、空気も湿気ている。
それでも目に映りづらいほど細かいので、意識を向けても雨の降る音は聞こえなかった。
自分の道を探す未来を優先する仲間達が少しずつ増え、エノンを守りたいからという、本来の目的は薄れ、ただの溜まり場と化してきていた空き教室で、僕はエノンと2人っきりだ。
今日集まって来た仲間達には、エノンとの話が終わるまで、廊下に出てもらった。
その上、タッゾとレミが、エノンと話をしているのを聞き付けて教室まで来ても、入れない様にしてくれと、謝りながら頼み込んである。
自分でもかなりの厄介事を押し付けてしまったと思うが、近くに誰かがいるとエノンが話し辛そうだったのだから仕方ない。
「今朝、説教みたくしちゃってごめん、リティ。あそこでオレが言わなくても、リティだったら後でアーラカにも、ちゃんと話に行ったに決まってるのにさ、オレ……」
まるでエノンが僕の顔色を窺う様な感じだったので、僕は慌てて首を振る。
「いや、そうでもない。エノンが叱ってくれたから、僕はアーラカにちゃんと断る理由が言えた」
「いやでもリティ、アーラカにずっと断ってたんだろ? 余計なお世話だったんじゃないか?」
「エノン、僕はアーラカにずっと断る事だけしかしてなかった。それではアーラカが納得し難いのも当然なのに、気付きもしてなかった」
「リティ」
「エノン。まさにエノンの言う通りだったよ」
「けどッ。今朝はリティの調子……良くない事も知ってたのに、オレは叱り付ける真似した」
「エノン。……もしかして、ずっと今朝の事を考えてた?」
「当たり前だろ。リティの調子が最近悪いその理由も、オレは知ってる。いっつもリティはもっと怒るべきだって言ってたのに、…り、リティっ?」
「……ありがとう、エノン」
感謝の言葉を口にしながら、僕はエノンを一瞬だけぎゅうっと抱き締めた。
どうしてエノンをレミの手に委ねてしまったのだろうという、後悔を沈ませて。
エノンは、本当に良く僕を理解してくれている。
しかも、僕が気付かなかった気遣いまでしてくれていた。
本当に嬉しく感じると共に、悔しさも感じてしまう。
エノンさえ側にいてくれれば、僕はずっと幸せでいられるだろうに……。
本気でレミの手から無理矢理にでも取り返し、僕の事だけしか考えられない様に、閉じ込めてしまいたい衝動に駆られるが、何とかそれを捻じ曲げる。
恋愛感情どころか、エノンの気持ちなど一切考えない、子供染みた独占欲だと自分でも分かるからだ。
それでも、愛してる。
どこで誰と何をしていようとも、エノンを1番愛してるよ。
想いを込めて、優しく優しく。
エノンの頭を撫でるのはドキドキした。
「こうしてもらうのって、何年ぶりだ? リティになら、いいんだよなぁ。ただ純粋に気持ち良くって」
「エノン、今朝はあそこで叱ってくれて本当に嬉しかった」
「本当に良かった?」
念押しして来たエノンに、僕は大きく頷く。
エノンは両親とは違うから、例え叱られたとしても、一方的に追い詰められている様な気持ちにはならない。
「あそこでエノンが叱ってくれなきゃ、僕はアーラカと疎遠になって、友達を1人失うとこだったよ」
「そうでもないだろ?」
「そうなったと思うよ。謝るなら早いに越した事はないけど、僕は何が悪かったのか、全く気付けなかったから」
エノンの頭をゆっくり続けて撫でさせてもらう。
「……エノンには色々と心配を掛けるよね、僕は」
ほわほわな、この髪の様に少しでも心を和ませたかった。
「……夏休みが終われば、僕も少しは落ち着くと思うから。心配しないで、エノン」
10歳を過ぎてから、両親は夏休み期間にだけ僕に会いに来る様になった。
「園に親が会いに行ったら、恥ずかしい思いをするのは子供の方らしい」
誰かの言葉を免罪符に。
数年前からは完全に足が途絶えている。
それなのに、もしかしたら今年は来るかも知れないと、あらぬ期待をしてしまう僕は夏休み期間中、必要以上に気を張る。
だから心身共に不安定になるのだ。
「全く、どうしようもないな」
いつまで経っても、親の支配下から抜け出せない自分が情けない……。
更にゆったりエノンの頭を撫でさせてもらった。
ドン……ッと扉を叩く音がしてそちらに目を遣ると、口元だけで笑うタッゾが廊下からヒラヒラと手を振っていた。
「もう来たのか」
どうやら2人っきりの時間は、これまでにしておいた方が無難らしい。
僕はエノンの髪の感触を惜しみ、心にかすかな痛みを覚えながらもエノンから手を引く。
「最近、アイツの方がリティと一緒にいる時間が多くねぇ? 何か……、ムカツクっっ」
「レミもきっと今頃、エノンが温室に来るのが遅いって、心配してるよ?」
タッゾよりも、エノンの方が大切なのだと胸の中だけで密かに想う。
でもこれ以上触れ続けていても、辛くなるだけだっただろうから、タッゾによる警告音はエノンを解放する切っ掛けになって、ちょうど良かった。
「だよなぁ」
溜め息を吐きながらも、エノンは満更でもなさそうな顔をした。
それでもチラッと確認する様な視線を向けて来たので、僕は大丈夫だとエノンに笑みを返す。
笑みはそれなりに成功したらしく、エノンはタッゾに適当な捨て台詞を吐いて、教室から出て行った。
入れ替わりに教室に入って来たタッゾには、それを露ほども気に掛けている様子はない。
だが、いつもの油断も隙もない感じではなく、すぐにでも何か尋ねたそうな表情だった。
「心配しなくても、僕はお前の妹からエノンを奪ったりしない」
「それは割とどうでもいいです」
自分の妹の事だろうに我関せずなタッゾの返事のせいで、エノンに大丈夫だと笑ったばかりなのに感情が波立つ。
もしレミがエノンを捨てて他に走ったなら、僕は絶対レミを許せない。
現時点でも既に、どうしてレミなんだ? とか思っていて。
しかも、レミに振られた時が僕にとってはチャンスじゃないか? とまで思ってしまっている。
だが、1番大きく渦巻く感情は怒りだろう。
なぜなら、現実にそうなってしまったら絶対にエノンは傷付く。
いや、待てっ!
エノンが振られる側前提なのが、おかしい。
そこまで考えて、ふと僕は新たに疑問を浮かべる。
逆にエノンの方がレミを振ったなら、どうだろうか?
もしくは双方納得した上で別れたとしたら、怒りは湧かないだろうが、果たしてその事に僕は喜びを感じるんだろうか?
「リティさん。小うるさい雛を理性の範疇であしらえてるうちに、俺とも2人っきりの時間を作って欲しいんですけど」
「……っ」
考え事に嵌まり込みそうになっていたところを、タッゾからの物騒な物言いで僕は我に返った。
タッゾを躾けるのは、一生掛けても無理に違いない。
さっきまで浮かんでいた内容が、あっさり僕の思考の中から消え去った。
目の前、今の事に意識を向けなければ、タッゾにいいように振り回されてしまう。
そう、まずは。
タッゾを足止めする為、精神的にかなり骨が折れただろう仲間達に、僕は感謝を伝えた。




