112 何かがいる!?
それから三日後。
私は一人でランニングを実行していた。工房とカノン村の間あたりで引き返すというのを二周。合計すれば徒歩三十分ぐらいの距離を走ったことになると思う。
「汗っていうのは、なんで後から噴き出てくるんですかね……」
工房に戻ると、事前に冷やしていた水を飲む。
なお、途中でお客さんに出会うということもなかったので、営業にも影響はない。
帳簿用のノートで風を送る。ちょっとした距離でも島の気温が高いので、なかなかつらい。湿度は【除湿の石頭】を使って下げているのでまだマシなはずだが。
弟子二人の姿は見えないが、店舗部分にいないといけないなんて義務はないので、どこかにはいるのだろう。勝手に薬草の実地調査に出かけていてもおかしくない。
ランニングも二人ともついてきていなかった。リルリルにとったら距離がしょぼすぎて散歩としても不十分だし、ナーティアは空を飛べばいいだろうという発想になるから走り込みに意義を感じない。
息が整うまで、カウンターに突っ伏していた。
お客さんの姿は今日も今日とてないが、じっとしていると虫の音が聞こえてくる。真昼間でも虫の音というのは耳に入ってくるものらしい。
こういうのも風流というんだろうか。
その時である。
何かがいる、と感じた。
店のドアが開いたりしたわけでもない。お客さんの姿なんてない。
なのに、店舗部分に何かがいるのはわかるのだ。
「ああ、【透明薬】を使ったんですね。いけませんよ。あれは使用禁止にしてますから」
私は危険物などを入れている棚を開けた。
【透明薬】も入れてある小型の箱は紐でしっかり結ばれていた。その上から貼った「使用禁止」のシールも破れていない。
つまり、使用した形跡はないということ。
じゃあ……。
この気配は何だ……?
これってお化けや幽霊?
「ま、まさか……」
それだけのことを言うのがやっとだった。
心霊現象について語った本を読んだことぐらいはあるが、まさか自分の身に本当に起こるとは想定していなかった。
そういえば、この工房は村のはずれと言っていい場所だ。
ここより先に人家も、過去に人が住んでいた痕跡もない。
そんな場所には、墓地が作られがちだよな……。
じっとしていられなくなって、カウンターからお客さんが立つ側に移動した。
そっち側に何かがいる気はするけれども、ドアも近い。ドアを開けて、外に逃げれば追ってくるということはないだろう。
心霊現象が物理的に殴りかかってくるという話はあまりないと思う。
だからって怖くないということにはならない。
訳のわからないものがそばにいる感覚は、カウンターに突っ伏していた時より大きくなっている。本当に、すぐ近くに気配がある。
「恨んでるようなら、ひ、人違いですよ。あなたに恨まれるようなことはしてませんから……」
裏返りそうな声で言った。
落ち着け、落ち着け。
手あたり次第呪ってくるような心霊現象なら、これまで暮らしてる中でもっと早く体験していたはずだ。
まして、被害者が出るような危険な話なら、カノン村の人も知っていなきゃおかしい。最低でも注意喚起程度はされただろう。
だから……シャレにならない怪異というものではない。……多分。
じゃあ、何が来た?
壁に背中を沿わせながら考える。まさか、壁をすり抜けて背中から攻撃してくることはないと思いたい。そんなことができるなら、どうしようもない。
一つ、可能性が――あくまでも可能性だけど――浮かんだ。
「親、なんてことはないですよね」
私を生んだ(と同時におそらく生後間もない頃に施設の前に捨てた)親がすでに死んでいて、娘である私の居場所にやってきたとか。
夏は青翡翠島のような南の地域では死者が戻ってくる季節だという。死者は生きている家族のところにやってくるのだとか。
親の名前も知らない。死んだ確証すらない。だから、私の仮説はたんなる可能性の一つというだけで、根拠になるものは何一つない。
でも、何かがいるということだけは、おそらく間違いない。
霊感なんてものがあると思ったことはないが、これは妄想なんかじゃなくて、事実だ。
気配は何も答えない。ただ、そこにある。しかも、おそらくじっとしたりはせずに私のように動いている。
私は壁に背をすりつけながら、ゆっくりと移動する。
目的地はドアだ。
ここでじっくり待機する気持ちにはなれないし、相手がいなくなる保証も何もない。私のほうで動くしかない。
ドアは少しずつ近くには来ている。開けたらすぐに飛び出よう。
追ってこないのかはわからないが、室内よりは安全だろう。
その時――
パァン、という乾いた音がした。
続けざまに、パァン、パァンと音が響く。
「うあああぁぁぁぁっ! あぁぁぁぁっ!」
悲鳴しか出なかった。とんでもなく怖い。シャレになってない!
もうダメだとドアに走り寄って、手をかけた。
だが、ドアが開かない。
何かに押さえつけられているように。
「あぁぁぁぁっ! 嫌だあぁぁぁぁぁっ!」
「すまぬ、すまぬ、ビビらせすぎたのう。全部、余がやった」
私の悲鳴とほぼ同時にそんな声がした。
だんだんと私の前に人の姿のリルリルが現れる。まるで魔法が解けたように、ゆっくり姿がそこに出てきた。
「えっ……リルリル? 本物……? お化けとかじゃなくて……?」
「本物じゃ。守護幻獣はそんなにウソはつかん。あっ、こりゃ、重症じゃな」
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