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リーングラードの学び舎より  作者: いえこけい
第五間章
335/374

静かに蠢く幕裏

 陸竜は大人しい原生生物だ。

 普段は小さな群れを作り、のんびり草を食べては移動を繰り返す。

 植物であればサボテンでも食べるためか生息域は広く、大陸中のどこにでも生息し、もっぱらヒトに捕獲され、乗用や運搬用の牽引動物扱いされている。


 人々にも慣れ親しまれてきた陸竜だが二つだけ気をつけなければならないことがある。


 一つは妊娠した時。

 この時だけはヒステリックな女性以上に接触禁止ナイーブ過敏ナーバスだ。

 その凶暴さは時に自らの倍以上の体格の生物を追い払うこともある。


 そして、もう一つが『巨大な群れ』を作った時だ。


「あ、あ、あ……、嘘だ」


 もうすぐ十四歳になる少年カルロはとある貴族の御者として、代々仕えてきた血統だ。

 先日、父より御者の仕事を引き継ぎ、法国まで主を載せるという初仕事で大仕事を任せられた。


 父から革紐を手渡された時、カルロはこう言われた。


『何があってもお館様を信じろ』


 それは父親なりのアドバイスだったのだろう。

 その時は意味がわからなかったが法国まで主を運びきった時、その事実がカルロにとって誇りになった。

 父の言う『お館様を信じろ』とはこのことを指していたのだと気づく。


 小さな誇りを胸に彼は祈った。


 帰りも行きと同じように順調に行くように、と。


「ど、どど、どうしよう」


 どうやらカルロの祈りは儚く散ってしまったようだ。


 彼の目には広い草原が映っていた。

 その向こう側に土くれのような何かが群れをなして、竜車に向かってきていた。


 何かの正体は陸竜だ。

 彼らは普段、小さな群れの中で暮らしているが時折、大きな群れを作る。

 この時、彼らはとてつもなく臆病になる。


 ほんの少し肉食の竜脚類が陸竜を襲っただけで、火がついたように走り出す。

 集団パニックになったように、がむしゃらに前だけ向いて走り出し、その硬い頭の甲殻を使って木々や塀をへし折りながらも進み続ける。


 巻きこまれたらどうなるか。

 都市一つが凄惨なことになる、と言えば大体、わかるだろう。


 言ってしまえばいつどこで発生するかわからない土砂崩れみたいなものだ。


「……ッ! どうにかして避けないと!」


 広い草原なのでどこにでも逃げ道があるように見えるだろう。

 しかし、それは大きな間違いだ。


 管理されていない草原は足元の見えない荒地と同じだ。


 車両が草原を行く時は常に先人が残してきた道を使って移動しなければならない。

 どこに車輪を捕まえる石や窪みがあるかわかったものではないからだ。

 これが通常の暴走なら脇に避けるだけで良かったのだろうが、何せ視界の七割が陸竜という異常事態だ。


 これほどの巨大な群れはそうお目にかかれないだろう。


 それがわかっているからカルロは目を凝らして、他の道を草原の中から見つけ出そうとするがどうやっても見つけられそうにない。


「す、すみません!!」


 後方の窓を軽く三回、叩く。

 彼と屋敷の間だけに伝わる緊急の合図はノック三回と定められている。

 どれだけの緊急時でも、そうした決まりはカルロの体に染みついていた。


「どうかしたのかね、カルロ」


 窓が開くと糸目の老紳士が顔を覗かせる。


「正面から陸竜の群れが! 最悪、道を――悪路を往くことになりますがよろしいですか!」

「脇に行商路が見当たりませんか。なるほど、なるほど」


 焦っているカルロと違い、老紳士は慌てていない。

 何を呑気な、と思いつつも落ち着いている物腰と口調にどこか安心している自分がいるカルロだった。


「規模は……、あぁ、これはすごいですな」


 老紳士は陸竜の群れをぼんやりと眺める。


「少しお館様と相談するのでカルロは『そのまま竜車を前に進めておきなさい』」

「はい! ……はい?」


 カルロは言われたとおりに進めようとして、言葉の意味を疑う。


 前から陸竜の群れが迫ってきているというのに、前に進めておけというのは自殺行為だ。


「ど、どうしろっていうんだよ……!」


 刻一刻と迫る巨大な土色の塊を前に、少年カルロはだらだらと汗を流していた。


 ※


 老紳士はゆっくりと御者台から離れ、身を正す。


「陸竜の群れが迫っています」


 鷹揚な言葉使いを嫌う主のために、現状報告は端的だ。


「……は? 陸竜?」


 その少女はともすれば文学少女に見えなくもない。

 肩まで髪を伸ばし、先端をリボンで結びつけたメガネの少女は、その表情さえなければ清楚で物静かに見えただろう。


「そんなもの、なぎ払っちゃいなさいよ! この竜車を『どこの誰のもの』だと思っていらっしゃいますの! まーったく! 獣の次は竜だなんて、ほとほと呆れ果ててしまいますわ」


 その、呆れたような声でワガママな言葉を紡がなければ。


「フィニーヨ様。お静かに」


 老紳士は静かに自らの唇に指を一本、添える。

 その視線と行動だけでフィニーヨは眉を八の字にさせて、ゆっくりと横を見る。


「どうなされますか――」


 老紳士とフィニーヨ、二人の視線の先には一つの美があった。


 夜に輝く月のような白銀色の髪。

 少し癖のある髪質すらも彼の冷たい目元と組み合わされば、どこか甘い毒のような香りが漂い、体に張りつくような黒装と病的なまでに白い陶器のような肌がまるで完全に計算され尽くされた人形のように思わせる。


 しかし、その美は一箇所だけ欠けていた。


 頬に一筋の傷跡が彼の完成を妨げていた。

 他が完成されているが故に傷はまるで美そのものを汚すような跡に見える。


 欠けた月夜のような麗人は静かに手元の本だけを見つめていた。


「――ジグマルド様」


 再度の呼びかけに、ジグマルド・ヴォーダンは小さく口を開いた。



「行け」



 たった一言でその場の空気は緊迫した。

 ジグマルドは何一つ、感情を表していないし特別な言葉は何一つ、口に出していない。


 なのにまるで周囲に静寂を強要したかのような絶対的な認識が二人にはあった。


「仰せのままに」


 彼の望みを聞いた者にYES以外の言葉はない。

 例え百万の騎兵が迫っていようとも彼が『行け』と言えば拒否できない。


 絶対の主――それが【凍てつく黒星】ジグマルド・ヴォーダンだ。


「はぁん……、ジグマルド様ぁ……」


 フィニーヨはその絶対さに逆撫でされた猫のような声をあげて、身をくねらせる。


 老紳士は静かに頭を垂れ、御者台の窓を三回叩く。


「『行け』。それ以外の言葉はない」


 御者台の窓からは情けないカルロの横顔があったがそんなものは一切、目に映っていなかった。


「我らの主がそうお望みだ」


 ※


「ちくしょう……」


 白い毛のヴェーアヴォルフが苛立ちながら喉を掻きむしっていた。


「ちくしょう、ちくしょう……ッ」


 古い、カビの匂いがする階段を一段、一段、憎々しげに降りていく。


「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう! チクショウ!」


 暗く、酷く長い階段にボトボトと血が落ちていく。

 メルサラに襲われ、喉を掴まれたと同時に肌を焼かれたルーサースは術式具の力によって、彼ら魔獣信仰組織【レペツジェン】が根城にしているこの場所まで転移してきた。


 おおよそルーサースの知る常識に転移できる術式具なんてものはない。

 そもそも転移そのものが【神話級】術式だ。

 そんな力を込めた術式具を組織の一人に持たされても、本当のところは信じていなかった。


 だが、急場になって頼ったのは『疑わしい道具』だった。

 思った以上の効力があったのは想定外だが、確かめられたのだからそれはそれでいい。


 それ自体、どうでもいいとルーサースは思う。


「チクショウ! あのメス豚め! 肌毛もない分際でよくもッ!」


 焼けつく痛みがより一層、苛立ちを募らせる。

 一番下まで辿りついたと同時に石の扉を蹴り倒すくらい苛立っていた。


 部屋の中の光がルーサースを照らすがそんなものすらどうでもよく感じる。


「あ、ルーサースだ」


 特徴という特徴のない瞳がクルリとルーサースを見上げる。


 複数の術式ランプが巨大な円卓を照らし、過剰なまでに明るい部屋の中で彼は屈託もなく笑っていた。


「あぁ――聞いてくれよクリック。我が親愛なる同志よ!」

「うん、うん。聞く聞く。君のその薄っぺらくって芝居っ気たっぷりな口調で聞かせてくれよ。どうしてそんなに赤くなっているんだい?」

「赤いメス豚に噛みつかれちまったんだよ! クリックぅ、それもお前が助けてくれなんて言うからだ! あぁ、この恨みは忘れない! 決して忘れてなるものか! しかし、友であり、同志であるクリックを恨むなんてボクにはできない! だから――」


 石の円卓に腰掛け、足をプラプラさせていたクリック・クラックは心底、どうでも良さそうに首を傾げてくる。

 まるで無垢以外の感情がないかのような仕草はルーサースから見ても不気味だった。


 もっとももう見慣れた上に今の精神状態ではなんの感慨も湧いてこない。


「――あの小娘モモ・クローミに晴らしてもらおう!」


 苛立ちが全ての精神の上位に来てしまっているのだ。


「小姓のようにつきまとうヤツの仲間たちをズタズタにして、ボクと同じ毛並みの犬を赤く染めて、あのリジル・ファフナーを地獄に突き落とし、少女が絶望するその瞬間、股から頭にかけてズドンと突き立てて、ゆっくり殺してやるのさ!」


 想像しただけで少しは溜飲が下がったのか、ルーサースは石の椅子に座る。


 そして、ローブから取り出した包帯を自らの喉に巻きつけていく。

 よく見れば円卓にはクリックの他に二人の人物が座っていた。

 クリックが着ているようなローブにフードを目深に被り、顔はわからない。


 もっとも殊更、知りたいとも思わず、比較的与し易いクリックに目線をやる。


「へぇ……、そんなことがあったんだ。で、リーングラードの森はどうだった?」

「森? ふつうだったさ。なんてことない、変哲もない、本当に追われたのかい? あの森に」

「フツーじゃなかったんだよ! まるで森が生き物みたいに襲ってきてさ。大変だったんだよ。もう全部、焼いてしまおうかと思ったよ」

「止めてくれ! 今、ボクの心は酷く傷ついているんだ! 焼くとか火とか、しばらく聞きたくない!」

「かわいそうだね。じゃぁ、メンシェンフレッサーに薬を頼んでみたら? 仲良いんじゃなかったっけ? あれ? そういえば来てないね。いつも律儀に誰より早くやってくるのに」


 フードの人物二人はメンシェンフレッサーではない。

 その証拠に石の椅子が軋む音がしないからだ。


「【悪食三昧メンシェンフレッサー】なら、お亡くなりになりました」


 シャン、と金属の鳴る音がしてルーサースとクリックは音の方を見る。


 部屋の奥から錫杖を鳴らしながら現れたのは白いクロークを着た女性だった。

 くすんだ鉄の輪を手首に巻きつけ、首から【六本足の化物】のメダリオンをぶら下げたその女は静かに椅子に座ると、微笑む。


 その微笑みを見て、人はある種の安心を覚えるだろう。

 そして、次の瞬間、眉根を寄せてしまうことになる。


「彼の根城が壊されていましたからね。ハッキリと殺される姿を見ました。もっとも『目』ごと根こそぎ殺されるとは思いもしませんでしたが。それとクリックの言った『森の怪物たち』は本当ですルーサース。ちゃんとこの『目』で見ました」


 シャン、シャンと動くたびに鳴る輪っかの向こう側で、小刻みに羽を震わせる鈴虫のような音が小さく聞こえてくるからだ。

 あまりにか細く、それでいて耳障りな音に常人なら顔をしかめてしまうだろう。


「えー! じゃぁ、【泥の妙薬】はどうするの? 無しでやるの?」


 そのことにここにいる誰もが気に留めない。

 彼女の奇っ怪な音に慣れているせいだろう。


「いいえ。それに関しては一つだけ興味深い研究をメンシェンフレッサーは残してくれました。そのため少しだけ大きなことをしなければならなくなりました。ご協力、願えますか」

「うーん、僕はいいよ。もうちょっとお父さんと遊んでいたいし」

「ボクも勘弁してもらいたいね。あぁ、いや、君の壮大な計画にはボクも協力したいのは山々さ! しかし、見てくれ、この傷! この痛み、見立て通りならあと一ヶ月は治らないよ! 医者のボクが言うんだ、間違いない!」

「お二人共、お忙しそうですね。では残りのお二方は――」


 女が視線を向ける前にローブの一人が軽く手をあげていた。


「――ならそれがしがご同行させていただこう」


 その腰にはローブでは隠しきれない長物が左右二本、合計四本もぶら下がっていた。

 奇妙な音がする女とは別に、この人物もまた近づくと不思議に思うだろう。


 何せ、一切の音がしない。

 まるで幽霊かと疑うほど静かだった。


「ありがとう【死哭鳥クレーエ】。【フンガーレーザー】はどうします?」


 フンガーレーザーと呼ばれたフードの人物は手を振り、拒否を示す。


 彼も彼で少し、様子がおかしかった。

 まるでフードが霧か煙のように、ゆらゆらと揺れて見えにくいのだ。


「ではクレーエ。随伴いただけて嬉しく思います」

「死を告げる聖女の傍らには死に哭く鳥こそ相応しかろう」


 その返答にルーサースは大きく背を仰け反らせて、顔に手を当てる。


「なんてこったクレーエ! 君がボクの真似事をするなんて思いもしなかった! どんな喜劇を見たらそんな歯の浮く言葉が出せるんだろうね! 信じられないな!」

「『オフィティアとヴィヴァルチェ』最終幕。そして、後半は『カルナバベル』第三幕」


 フンガーレーザーがクレーエの代わりに口を開く。


「『貴女は美しくあり――死を告げる聖女だ。凡庸な夢しか追いかけられなかった人間に高貴な夢を見せる』。オフィティアの言葉。そして、『眼窩に青い炎を灯した黒衣の死神、咽び泣く煉獄でなお無感動に我々を刈り取る。ほら、そこに死に哭く鳥がついばみに来るぞ』。狂乱の兵の言葉。『似非な芝居師でも学べ』――ハルクスの剣」


 これにルーサースは大きく肩をすくめてみせた。


「似非で結構。むしろそうでなくては困るよ。ボクは本当とか綺麗とか真実というヤツが大嫌いなのさ。だからこうして綺麗なものを言葉にして貶めてやっているんだ! 青い友情も赤い努力も、黄色い希望も緑の慈愛も白い正義も黒い矜持も言葉にするから薄っぺらくなる。ドンドン言葉にして貶めてやればいい!」

「そうですね。今の信仰も言葉にしすぎて本質を皆、忘れてしまっています」


 シャン、と錫杖が鳴る。


「真理とは無色にあるということを誰も理解したがらなくて困ります」


 心底、困ったという風に手を頬に当てる。


「そういえばハヴェスマティア! 君のくれたあのお守り、もう一つくれないかい? アレは便利だ、逃げる時に役に立つ!」

「【秘蹟物サクラメント】は奥にあります。ですがもう、一つきりしかありません。どうにかなりませんかフンガーレーザー」

「複製は可能。ただし無色の術式具は希少金属でなければ崩れて消える。理想を言えば隕鉄が必要不可欠。『ないものはないと叫ぶのなら、あるものはあると言えるようにならねばならない』――夏夜の嵐」

「手に入れねばなりませんね、隕鉄も。現存する隕鉄は帝国がもっとも保有している以上、少々骨は折れますが、またいずれ」


 ハヴェスマティアと呼ばれた女は立ち上がる。


「それでは私とクレーエは旅立ちます」

「どこに?」


 クリック・クラックは今まであまり興味がなさそうだったが、不意にハヴェスマティアに尋ねる。

 いつも通りの無邪気な好奇心の現れだろう。


「タラスタット平原ですよ。ご用向きがあれば、そこで」


 円卓の間から出ようとしたハヴェスマティアは微笑みながら振り向く。


 やがて、それぞれはローブを羽織って、消えていった。


 誰もいなくなった円卓の間。

 いつの間にか卓上に一つの本が残され、その本の背表紙には『大樹の唄』と銘打たれていた。


 ※


 少年カルロは本日、二度目の驚愕に襲われていた。


 主の言うとおりにすべきか、それとも背くべきか。

 使命感と生存本能の間で揺れていたカルロだったが、逃げることだけはできなかった。

 ただ、決断できないまま陸竜の群れは目の前までやってきていて、もう逃げることすらできなくなった途端、腹が決まった。


 主の信じたとおり、陸竜に鞭を入れ、群れへと突入した。


 無残に踏み潰されると思った。

 竜車の破片が散らばり、赤い血飛沫が舞うものだと思っていた。

 どう転んでも死ぬしかないと思われていたはずだった。


 なのに、どうしたことだろうか。


 確かに陸竜たちに竜車は飲みこまれた。

 しかし、陸竜たちは竜車を避けるように進路を変えていくのだ。


 後ろを見れば進路を変えた陸竜たちは再び合流して、土砂崩れのように走り去っていく。

 その光景は『岩を避ける川の流れ』のようで圧巻の一言だった。


 次に何故、こうなったのかを考え始めても理由なんて一つしか思い浮かばない。


 竜車に乗る、カルロの主。

 リスリア王国最強の術式師ジグマルド・ヴォーダンしかいない。


 何らかの術式を使って陸竜たちの流れを変えたのだろう。

 その偉業に震え、固く手綱を握りながら父の言葉を思い出した。


『お館様を信じろ』


 この時になって、ようやく父の言いたかったことに気づく。

 父はこう言いたかったのだ。


『例え、どのような状況になろうともヴォーダンの血統の傍に居れば助かる』


 絶大の信頼と理解のできない者に対する畏怖を混ぜて、父はカルロにそう伝えていたのだ。


 その偉業を成した主の入った箱を、カルロは慎重に動かしていく。


 陸竜たちが踏み荒らした草原で車輪でも取られようものなら、今度はその偉業の刃がカルロに向かってくるかもしれないからだ。


「しかし、なんだろう? なんで――なんでこんなに『揺れないんだ』?」


 幸い、竜車は『一度として躓くことなく』、草原を抜けていった。


 ※


 フィニーヨ・レザナードは今、望外の幸運を感じていた。


 ヴォーダン家に弟子入りが決まったのも、弟子入りできる家格を持つレザナード家に生まれたことすら幸運だと感じていた。


 レザナード家はリスリア王国に古くから仕える貴族だ。

 その歴史は四大貴族の次に古く、王家にとっても忠臣とされた一族で内紛時においても多くの貴族が粛清される中をくぐり抜け、未だに権勢を誇る一勢力として数えられている。


 父が黒の源素に適正のあるフィニーヨのためにヴォーダン家と取引し、弟子入りを要求したことくらいわかっている。

 わかるどころか父におねだりしたのはフィニーヨ自身だ。


 社交の場でジグマルドを見たときから、彼女はジグマルドに心奪われていた。


 見た目も性格もフィニーヨのストライクゾーンであり、もうジグマルド以外はありえないとさえ感じていた。

 そして、弟子入りしてからは当代随一の術式師の技術と美しさにため息すら漏らした。


 今も『フィニーヨを守るために絶技を駆使して守ってくれている』と考えると、自然と涎がこぼれ落ちてくる。

 その情けない顔を見かねた老紳士が無言で差し出すハンカチを奪い、涎を拭う。


「ジグマルド様、ジグマルド様ー! これは、これは一体、どんな術式なのでしょう? 竜たちが皆、ジグマルド様に恐れをなしたかのように道を開けていく、この術式は一体!」


 対してジグマルドは何の反応も見せずに、手持ちの本をめくる。


 実際、ジグマルドからすれば『この現象』は術式ですらない。

 ただ前方に黒の源素を集めているだけに過ぎない。


 自然に黒の源素は集まらない。

 この異常さが陸竜たちの臆病な生存本能を刺激したのだろう。

 本能の導くままに避けていただけだ。


 もしも術式の技術というものがあるのなら、それは荒れた草原を揺れなく進むために車輪の下に重力の道を作ってやっていることくらいだろう。

 それすらもフィニーヨは気づかない。


「はぁん! 素晴らしい、素晴らしすぎますわ! 私、こんな望外な奇跡に巡りあったことを風神ヒュティパに感謝したいくらいですわ! はぁん、もう! はぁん!」


 クネクネと腰をくねらせるフィニーヨは少し、奇っ怪な生き物のようだった。


「黙れ」


 ジグマルドは手元の本を閉じ、一言で命令をした。


 たったそれだけでフィニーヨは口を閉ざし、上目使いでジグマルドを見やる。

 やがて頬が紅潮し、慌てて手で隠しだす。


 どうやら『うるさいから黙れ』を『静かにしている君が素敵』と脳内変換したようだ。

 身悶えはさらにエスカレートする。


「(そう――これは私だからこそ、私だからこそお声をかけてもらえたの)」


 きっと偉大なる師ジグマルドによってフィニーヨは優れた術式師として成長するだろう。

 元々レザナード家は術式の才能に秀でた血統。

 加えて希少な黒の属性の担い手として国中に名を轟かせるに違いない。


 当然、一番はジグマルドだ。

 フィニーヨは二番手でも良い。


 男性よりも一歩、足を退く。

 それが良き女性の条件だ。


 それは甘美な夢であるが、あくまでただの名声。

 己を彩る装飾でしかない。


 貴族女性の名誉はただ一つ。

 地位が高く、名誉もある男性の伴侶として幸せになることだ。


 ジグマルドですら現状、釣り合いの取れる相手を模索中だという。


 ジグマルドの相手となると一番に挙げられるのは優れた術式師を排出しているレザナード家だろう。

 だが、並み居る姉たちですらジグマルドのお眼鏡に叶わなかった。

 当然だろう、彼女たちは優れた術式師であっても最高でも最強でもない。


 ならば同じ【タクティクス・ブロンド】で名高いメルサラ・ヴァリルフーガはどうか。


「(無理、無茶、あんなガサツ女――ジグマルド様の気品を汚すだけ)」


 彼女は最強であっても平民。

 血統を持たない平民がジグマルドの伴侶になられては国の損失だ。

 想像するだけで身震いがする。


「(ならば一番高いのは――)」


 レギンヒルト・R・ジークリンデ。

 ジークリンデ家の正統血統で黒と同じく希少な白の源素適正があり、なおかつ同じ【タクティクス・ブロンド】だ。


 ジグマルドの伴侶としては最大の相手と言ってもいい。


「(いいえ、レギンヒルト様は婚約者がいらっしゃるという噂――ジグマルド様と共に居られる立場でありながら別の男にうつつを抜かす女はジグマルド様に相応しくないわ)」


 とにかく許せないらしい。


「(そうなると、ジグマルド様はきっとこう望んでいらっしゃるに違いないわ。私に『自分にふさわしい女性になれ』と)」


 ジグマルドの下で術式師として名を馳せ、肩を並べるほどの名声と実力を得たら、きっと白馬に乗って迎えに来てくれる。

 そして、優しく口づけをして――そこまで想像して、慌てて想像をかき消すように宙に手を掻き出す。


 どうやら頭の中のお花畑は色鮮やかに満開しているようだ。


「後数日もあれば王都に着くでしょう」

「――そうか」


 フィニーヨの奇っ怪な動きにジグマルドも老紳士も何も言わない。

 もう慣れきってしまったのだろうか、極めて冷静に無視し続けている。


 弟子の痴態を無視して、ジグマルドは王都のある方角を眺める。

 その向こう側に何が見えるのかは本人にしかわからない。


 ただ『大樹の唄』と描かれた背表紙を指でそっと撫で、膝に置いた。


 ※


 苔生した森の中で一人の少女が立ち上がる。


 長い金の髪を靡かせ、白いワンピースを着た少女は虚空を見つめる。


 ポルルン・ポッカたちは少女の目覚めに喜び、スキップしながら踊りだす。


 彼女を中心に、何度も何度も喜びを表しても少女は何の表情も浮かべていなかった。

 その喜びの声すら長い耳には届いていなかった。


「Es wird ab sofort gehen (今、会いに行きます)」


 小さな唇は歌うように呟く。


「Um Papa lieben (大好きなパパ)」


 そうして少女は、その場に溶けるように消えていった。


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