少女たちの冒険譚 後編
リリーナは森を駆ける。
森に住まうエルフは森の往き方をよく知っている。
だからこそ、異常なのだ。
森を知り、愛しているエルフが枝葉に身体を引っ掛けながら走ることが。
エルフは森をいたずらに傷つけず、同時に森もまた彼女たちを傷つけない。
緑の源素と共に進化した人種であるエルフの特性と言ってもいい。
その特性を振り切ってまで走り続けているのだ。
焦燥を胸に抱いたまま、一秒でも早くエリエスたちを助けるために無茶をしなければならない。
「もっと……」
今のリリーナの表情を見た者は本当にリリーナなのかと疑うだろう。
のほほんと緩んだ顔で、猫のようにまどろんでいる姿とは気迫が違う。
暗闇の中、地形を見誤らないようにと目を凝らしているせいもあるのだろうが必死な形相だった。
「もっとであります!」
また枝葉が顔に引っかかるがそんなものはどうでもいいとばかりに走り抜ける。
腰掛けのように曲がる木を足蹴にし、太い峯を叩き、速度を緩めない。
更に、もっと、これ以上に。
そう願えば願うほどリリーナの速度は増していく。
だが、まだ足りない。
リュー厶・ウォルル厶の効果が失われる度に術式をかけ直すのでは遅い。
ここに至ってリリーナの才能は暴挙に出る。
インターバルが加速の邪魔になるのなら、インターバルをなくせばいい。
リュー厶・ウォルル厶はその速度こそどんな強化術式よりも速いが距離が短い。
距離が短いからインターバルを取る必要ができてしまう。
これはリュー厶・ウォルル厶を使ってどこかに身体をぶつけてしまわないようにと最適な距離として構築されているからだ。
当然、森の中でリュー厶・ウォルル厶を使うこと自体が自殺行為とは言う必要はないだろう。
ヨシュアンもリュー厶・ウォルル厶の危険性を考慮して、教える時は短距離設定にしている。
当然、教わった生徒たちもまた短距離設定にしている。
それでもリリーナは躊躇わなかった。
リュー厶・ウォルル厶のアレンジをその場で行い、効果時間を最大まで伸ばす。
その結果、リリーナの動きは人のものかと疑うほどの速度を得る。
森の、迷路のように入り組んだ立体的な空間で、もっとも距離を稼げる直線を割り出し、加速していく。
森を三次元的に直進する姿は既存のどの生物の動きとも違っていたろう。
そんな暴挙を繰り返せば当然、物体は恐ろしい速度でリリーナを傷つけていく。
だが無茶をした甲斐はあったのだろう。
エルフの才覚で学園への最短距離は大体、理解していた。
道に迷うことなく最短、最速を突き抜けたリリーナの速度は騎竜を駆けるよりも速かった。
学園の北――以前、水遊びした湖に辿りついたリリーナは安心し、再び足を動かそうとして地面に倒れた。
「いたた……、であります」
何かに足をひっかけたのか?
そう考え、足元を見て気づく。
何もないのだ。
あるのはただの水辺の草だけ。
靴の先ほどの草があるだけで足を引っ掛けるようなものは何もない。
ただ転んだだけと理解し、立ち上がろうとしてようやく気づいた。
足が思ったように動いてくれない。
それに気づけば体中が痛い。
打ち身は衣服に隠れてわからないが、切り傷は衣服を切り裂いて肌に赤い線をつけている。
ただ走り抜けただけなのにこの惨状。
更には体力も底をついていたと、ここに至って膝の震えと荒い息、痛くなるほど脈動する心臓から自覚する。
「あとちょっと……、であります」
特に足の痛みは酷いものだ。
自重を支えるだけで腰が抜けそうなくらい痛い。
無茶な踏破を繰り返した代償としてはまだ軽いほうだ。
痛みに耐えながらリリーナは学園の灯りを頼りに歩き出す。
突然、降りかかる圧の原因を知っているため、より焦る。
卵から生まれた何かが遺跡より這い出して今、完全に復活したのだろう。
ならば、もっともっと急がなければならない。
一歩でも多く、少しでも速く――普段は灯さない篝火を不思議に思っても何も考えない。考える余裕がない。
慣れた学び舎の扉を開いて、職員室に向かう。
何度も転び、そのたび立ち上がり職員室のドアを開けた時――
「リリーナ君!」
――術式ランプの光で明るい室内と先生たちがまるでゴールテープのように待っていた。
「大丈夫ですか」
駆け寄るヨシュアンに体重を預けながら、何から言うべきか迷う。
色々なことがありすぎて頭が回らない。
助けて欲しい気持ちだけが空回って、舌がうまく回らない。
「マフマフが怪我して、遺跡の中で皆が――」
理屈ではない。ありったけの言葉をぶつけても、きっとヨシュアンならわかってくれる。
思ったとおり、ヨシュアンはリリーナの言葉から『察してくれる』。
「――皆を助けてであります!」
早くしないとエリエスが死ぬ。
エリエスだけではなく、クリスティーナやマッフル、セロもだ。
未だ危地にいる仲間にしてやれる最高の手段はもうヨシュアンに頼ることだけだ。
「えぇ、もちろんです。だから安心しなさい」
リリーナの切実な願いはあっさり、まるで当たり前のように受け入れられた。
たった一言でヨシュアンは全てを理解し、きっと皆を助けるだろう。
そのためのありとあらゆる手段を行使し、誰も失わせない――そんなリリーナの期待を絶対に裏切ったりしない。
「君たちの先生は――ちょっと最強ですよ?」
ヨシュアンが立ち上がり、ローブを片手に往く姿を見送り、リリーナは床に倒れた。
騒然とするリィティカやシャルティアの声は遠い。
ヨシュアンクラスの冒険を一人だけ先に終えてしまったリリーナはもう何もできない。
目が覚めた時はきっと皆が一緒だ。
そのなんとももどかしい時間を彼女は眠りながら待つ。
※
「……弓矢を持っておくべきだった」
今更ながらエリエスは自らの戦闘性能がもどかしくて仕方がなかった。
遺跡より姿を現した眷属鬼はギチギチと耳障りな声をあげて、ポルルン・ポッカを捕食していく。
歪みきった口で咀嚼し、それとは別に触手で捕まえ吸い上げるように喰らう。
止めることすらできない暴食の獣を相手に、冷や汗は出っぱなしだ。
前衛を務めるポルルン・ポッカは果敢に眷属鬼に立ち向かっていくが結果は見ての通りだ。
見ていられないほどポルルン・ポッカは死んでいく。
同時にポルルン・ポッカの消耗はエリエスの危険を意味する。
「リュー厶・フラムセン」
術式を使ってポルルン・ポッカを捕まえている触手を引き裂こうとするが、何故か術式が途中で分解し、攻撃が届かない。
エリエスは上級魔獣の性質を知らない。
生半可な術式では彼らの出す瘴気――無色の源素によって分解、捕食されてしまうのだ。
彼らを殺す方法は多くない。
一つは魔獣を断ち切るほどの力任せの物理攻撃。
一つは簡単に分解されない上級以上の術式構成による一撃だ。
そのどれもエリエスにはできない。
これらの事実を知らなくても術式が届かない事実から、遠距離に相応しい武器、弓矢を想像するのは固くない。
なんとかして攻撃しないと囮にもなれない。
術式ランプを片手に周囲を見ると、ポツンと弓と矢筒が地面に落ちている。
リリーナが置いていったのだろう。
すぐさま走り、弓と矢筒を取ると矢筒を背負って、弦を引く。
「リュー厶・レイ」
風を纏わせて放たれる弓矢。
初級術式は分解されると言っても、少しの間は効果がある。これも観察から得られた事実だ。
なら矢の速度に影響するリュー厶・レイ――付与術式ならば。
そう考え、放たれた矢は正解だった。
術式が分解されるまでに矢は加速を行い、眷属鬼の皮膚に届く。
だが、あっけなく矢は眷属鬼の肌に弾かれてしまった。
「……でも、届く」
牽制に使えるだけでも十分だ。
眷属鬼が鬱陶しいと考え、エリエスを狙ってくるだけで効果がある。
少しずつ西へと立ち位置を変えて、眷属鬼と対峙する。
眷属鬼はそんなに頭が良くないらしく、目に映るもの全てに襲いかかっているだけだ。
ならばエリエスの作戦は上手くいく。
ポルルン・ポッカもエリエスの作戦を悟ったように西側へ、西側へ隊を移動させていく。
しかし、エリエスの作戦はまだ人知の及ぶ範囲だ。
もしも上級魔獣と戦おうとするのならば常識を捨てねばならない。
それこそ『滅ぼすために相手を空に打ち上げる』なんていう考え方がなければならない。
そして、考えを実行できる力が必要だ。
彼らは尋常ならざる生命体だ。
人の枠で語ればすぐに齟齬が出る。
徐々に森に入り、眷属鬼を誘導していくエリエス。
その度にポルルン・ポッカの数が減っていくのを正面で捉えながら、慌てずに森の中へと誘導していく。
「(なんて生き物だろう……)」
術式の威力をあげて矢を撃ち、ようやく眷属鬼に突き刺さるようになっても突き刺さった矢は簡単に肉に押されて落ちていく。
次の矢を撃とうと背の矢筒に手を回すと、空を切る。
矢筒に入る矢の数は少ない。
矢羽が潰れないように矢筒に入れたら、多くても七本から十本程度だ。
それ以上となると矢筒自体を大きくするか、矢を部品単位で別々に分けて持ち歩くしかない。
こんなことになると分かっていれば戦闘前に多く作って地面に刺し並べることもできただろうし、戦闘中に組み立てるというアクロバティックな手法もあったろう。
当然、これらの方法をエリエスも授業で教えてもらっているが、現状ではどれも不可能だ。
リリーナも女の子なので大型矢筒を持ち歩かない。
そして技量の面からも外さないから最小限の本数しか持ち歩かない。
矢もリリーナからすれば回収すれば十分、足りる量なのだ。
しかし、エリエスでは眷属鬼の触手をかいくぐって矢を回収できない。
予備の矢尻もあるのだろうが、エリエスが見つけたのは矢筒と弓だけだ。
これによって矢を作ることもままならない。
どうするか、必死で考えていると徐々に眷属鬼に変化が見られる。
触手が徐々に太くなり、ぬらぬらとした光沢も月の光を反射するほど艶が増し、明らかに俊敏な動きをし始めていた。
鞭のように地面を叩きつけて、ポルルン・ポッカたちを蹂躙していく。
そして、その戦果を心の底から喜ぶように奇っ怪な咆哮を空に上げた。
瞬間、凶悪なプレッシャーが四方に広がる。
まるで地震でも起きたかのように世界が震えた。
ここに今、復帰したと言わんばかりの咆哮に四方の動物、原生生物たちが一斉に逃げ出していく。
圧力に膝をついたエリエスに狙っていたかのように触手が叩きつけられる。
咄嗟にエリエスを突き飛ばしたポルルン・ポッカはエリエスの代わりに緑の液体を撒き散らし四散する。
直撃こそ避けたが着弾位置に近かったエリエスは衝撃波にさらされ、宙を舞う。
強かに木に背中を打ち、エリエスは肺の空気を吐く。
痛みと衝撃、その二つに意識が朦朧となり、立ち上がろうとしても弱々しい腕では身を支えることもできず地面に顔をぶつけてしまう。
閉じていく目蓋の薄暗がりの向こうで――異形の生物は再び吠え上げる。
「(……失敗した)」
逃げ切ることができなかった。
途端、クリスティーナの怒っている顔、セロの涙目、リリーナの八の字に下がった眉、そして、眠るように気絶するマッフルの顔が浮かぶ。
マッフルは言った。
友達だと。
友達だからちゃんとしたかったと。
だとしたら、この『申し訳なさ』もそうなのかと薄れゆく意識の中でぼんやりと考えていた。
※
眷属鬼はポルルン・ポッカをあらかた捕食してしまうと最後のデザートとして『良質な源素の塊』に目を向ける。
身動きできないソレを喰らおうと触手を伸ばす眷属鬼がピクリ、と身体を震わせて動きを止めた。
「ダメだよ」
眷属鬼の背後からクリック・クラックが、腕の骨ほどの針を突き刺していた。
針は正確に眷属鬼の脳髄に突き刺さり、震えすらさせずに完全に止めてしまった。
「その子はもしかしたらお母様の最期の子かもしれないんだから」
そして、完全に掌握したと理解したクリック・クラックは『手のひらから鉄針を抜き取り』、二歩ほど下がる。
「疲れるなぁ……、これ」
右手首をグルグルと回し、再び鉄針がクリック・クラックの手のひらから生えてくる。
その調子を何度か確かめると、剣を鞘に収めるような気軽さで鉄針を手のひらの中に戻してしまった。
「さぁ、言うことを聞くんだ」
クリック・クラックの言うとおり、眷属鬼はゆっくりとエリエスから離れていく。
「お腹減ってるんだろう? そうだなぁ、南側に人がいっぱい居るみたいだから、そっちに行こうか。幸い、『楔の木』を抜く手間は省けてるからね」
ズッ、ズッ、と擦るような音と共に眷属鬼は南に向けて進んでいく。
眷属鬼の後ろ姿を満足げに見ていたクリック・クラックは気絶したエリエスにそっと近づく。
「今は忙しいから、もう少し待っててね。君も僕の兄弟――『お姉さん』や『お兄さん』に会いたいだろ。だから連れて行くのはまた今度だ。いい子で待っているんだよ」
手のかかる妹に向けた慈愛に満ちた声色だった。
心底、クリック・クラックはそう思っているのだろう。
返事がないエリエスの頬を一撫でして、クリック・クラックはローブを翻して眷属鬼を追いかける。
その優しげな光景は周囲のポルルン・ポッカの遺体さえなければ、きっと違和感はなかったのだろう。
※
南に向けて歩を進めていたクリスティーナとセロもまた、圧を感じ取り、身を屈めていた。
その時にマッフルを落としそうになったが、慌てて支えたセロのお陰でなんとか落とさずに済んだ。
「助かりますわ、セロさん」
「……はぃ、なのです」
セロも元気がない。
当然だろう。
エリエスと一番、仲が良かったのはセロだ。
あんな死地に残ったエリエスを見て、なんとも思わないわけがない。
「あの子は何を考えているのかしら……ッ!」
忘れてはいけないのだ。
クリスティーナを含め、全ての生徒たちの命は義務教育計画の成否に関わる、ということを。
この義務教育計画は将来的にリスリア王国に義務教育が必要か否かの成否を問うものだ。
もしも、そんな実験計画中に人が――生徒が死ねばどうなるか。
ハッキリと言われた訳ではないが、おそらく良い結果にはならないだろう。
生徒は授業を受け、試練で結果を示すだけだ。
あまり深く考えなくてもいい、とも言われている。
しかし、ある程度の頭の良さがあれば気づいておかしくない事柄でもあった。
特にエリエスなら気づいて当然だろう。
それなのにエリエスは自らの命を軽いもののように扱った。
義務教育計画全てを台無しにしてまで『クリスティーナたちを助けよう』とした。
「ありがた迷惑ですわ……ッ!」
この年代の子供たちは知っている。
『よく知っている人』がどんなにあっさり居なくなってしまうのかを。
クリスティーナも兄を一人、失っている。
その時、子供心に悲しく、そして、同時にあんなに自信満々だった兄ですら死んでしまう世の中なのだと理解した。
悪名高い第二次タラスタット平原の戦において、【戦略級】術式師同士の戦いに巻きこまれ死亡した兄。
兄が遺品になって帰ってきたことが一番、鮮明に記憶に残っている。
父も、そして、一番上の兄すらも悔恨の表情を浮かべ、悲しみに暮れた。
その時に誓ったのだ。
家族を悲しませないためには強くならなければならないのだ。
高く在らねば周囲を苦しめるだけなのだ、と。
そう在ろうとしすぎて、彼女は周囲に壁を作ってしまった。
ありもしない理由を誇りに変えて、無根拠な自信で足場を固め、周囲を見ないように上ばかり見ていたのだ。
それを打ち壊したのはヨシュアンであり、高みを目指すための方法は一つではないと教えたのは仲間たちだった。
今――またクリスティーナの力の無さで誰かが悲しもうとしている。
口惜しい。
いろいろ学び、強くなったはずなのにまだ一歩も踏み出せていないような気がして唇を噛み締めた。
「エリエスちゃんはいきてかえってくるのですっ」
その声にクリスティーナはビクリと肩を震わせる。
年下のセロが居るのに配慮を欠いた言葉だったと理解した。
セロだって不安なのだ。
なのにここで年長のクリスティーナが励まさないでどうするのか。
しかし、上手い言葉が見つからない。
何度か目線を闇に這わせて、捻り出した言葉は――
「あ、当たり前ですわっ! ひっぱ叩いてやらないと気が済みませんもの」
「エリエスちゃんをいじめなぃで……」
なら、どうしたらいいのかとクリスティーナが泣きそうになる。
「帰ってきますわよ。えぇ、絶対、帰ってこないと許しませんもの」
こういう時にいつもはマッフルがわかりやすいように説明しながら、なんとなく話を逸していた。
色んな知識と豊富な話題を持つからできる話術なのだろう。
逆にクリスティーナはそんなに話題も多くないため、ハッキリ言って慰めや励ましの語彙が少なく、苦手なのだ。
「(こういう時に寝ているだなんて役に立たない愚民ですわね……っ!)」
せめて、声に出さなかっただけマシだったのかもしれない。
カサリ、カサリと音を立てる足元。
何歩か歩いて、違和感を覚える。
いつの間にか腐葉土の真綿を踏むような感触が無くなり、枯葉を踏み砕くような呆けない感触が続いていた。
セロに指示して足元を照らして、息を飲む。
「――今、まだ夏ですわよ」
「……ぁぅ」
背後を見れば足元と同じように『水気のなくなった枯れ葉』ばかりだ。
それだけではなく木々も青さを無くし、一斉に枯れ始めている。
まるで冬の森に迷いこんだような錯覚に、自分たちがどこに居るのかわからなくなってしまった。
そして、遠く、後ろから聞こえてくるズッ、ズッ、と擦りつけるような音。
こちらを目指して巨大な何かが近寄ってきている。
慌てて逃げようと思ったが、明らかにこちらの速度よりも向こうの方が速かった。
無防備な背中を討たれるよりも迎え撃つ方がおそらく時間を稼げるだろう。
この、薄らとした戦術が正しいかどうかわからない。
だが、エリエスがいない以上、決めるのはクリスティーナだ。
始めに動き出したのはポルルン・ポッカだった。
クリスティーナとセロ、気絶したマッフルを守るために偃月陣を取る。
「……セロさん。マッフルをお願いしますわ」
ゆっくり木のそばにマッフルを降ろし、【レピンド】を抜き放つ。
これが『遺跡で見たバケモノ』でなければいいのに。
心の底からそう思わずには居られない。
もしもあのバケモノだった場合、それはエリエスが失敗したことに他ならない。
「マッフルとセロさんには指一本、触れさせませんわ!」
今日、今この瞬間ほど【レピンド】が頼りないと思ったことはない。
それでもやるしかないのだ。
やがて現れる眷属鬼の姿。
術式ランプの頼りない光では茫洋としか映らないが、それが地獄からの使者のように思えて、震えてくる。
「(震えてる場合ではありませんわ!)」
枯れ木を砕き、『汚泥に浸かったキリギリス』のような悲鳴をあげて近づく異形。
薄い夜闇をコウモリのように揺れる触手の姿は夜鷹の飛び交う森に入りこんだような、根源的恐怖を蘇らせる。
ともすれば砕けそうになる膝を、己を、叱咤しながら、ソレと対峙する。
「かかりなさい! ちんちくりんたち!」
「うきゃー!」
エリエスも同じようにポルルン・ポッカと協力したはずだ。
とはいえ戦闘性能が違うクリスティーナにとって、ポルルン・ポッカは壁ではない。
近寄るための攻撃手段だ。
だが、ポルルン・ポッカたちすら触手に阻まれて近寄れない。
それどころかポルルン・ポッカの陣形を突き抜けて触手がクリスティーナの元まで届いてくる。
地を抉り、空を裂く触手を【支配】で避け、【レピンド】で迎撃し続けているがこうした防衛にクリスティーナは不向きだ。
かと言って一番、得意な先陣を切ろうとしても相手の間合いに入ると触手の数と威力が酷すぎる。
まるで複数の人間が巨大な鞭で四方八方を叩いているみたいで対処に困る。
ポルルン・ポッカが減っていく。
食われ、砕かれ、叩かれ、死んでいく。
その全てが直視できず、目を細めながら歯を食いしばって耐える。
「(力が、足りない……ッ!)」
避け損ね、自動発動した氷の盾が触手を防ぐがあっさりと砕かれ、クリスティーナは吹き飛ばされる。
ゴロゴロと転がっても居られない。
痛みを食いしばって、すぐに立ち上がると同時に触手がクリスティーナのすぐそばを叩く。
飛び散る礫が水のように脇から降り注ぐ。
「リオ・ラム・シルドっ」
セロもクリスティーナを守るために術式を使う。
礫は確かに防げたが衝撃までは殺せない。
クリスティーナは再び、ゴロゴロと転がる羽目になる。
「(ッ! 誰か――!)」
勝たねばならない、負けてはならない戦なのにどうだろうか。
圧倒的に敵の方が強すぎて、まともに剣を突き立てることすらできない。
ポルルン・ポッカの力を借りていながら、この体たらく。
情けなさと痛みで涙が出てくる。
「(いえ、誰かには頼れない。ここには私しかいませんもの!)」
エリエスもリリーナも、いない。
マッフルは目を覚まさない。
セロは攻性術式が不得意だ。
戦えるのはクリスティーナしかいない。
たった一人、ポルルン・ポッカたちと共にリリーナが救助を呼ぶまでの時間まで死ぬ気で耐えなければならない。
そう考え、力の入らない身体を立ち上がらせて眷属鬼を睨みつける。
だが、こうも思う。
リリーナが呼んでくる救助は何時になったら現れるのか?
いや、無事に着いたとして本当にコレに勝てるのか?
もしかしたらエリエスを救おうとして全滅してしまった、なんてことすらありえる。
誰が勝てるのか――こんなバケモノに。
悪神の化身と言われても信じてしまいそうになる。
こんなバケモノに勝てる人間なんて、いるはずがない。
むしろ恐怖に膝を折っていてもおかしくない絶望的な状況だった。
「(――でも)」
いつの間にかクリスティーナの周囲にポルルン・ポッカたちは居なくなってしまった。
セロの持つ術式ランプの頼りない灯りがおびたたしい死体の数を映して、目を背けたくなる。
もうマッフルを守りきれるかどころの問題ではなく、己を守るのが精一杯だろう。
今すぐ、この場から走り去ってしまいたい。
セロもマッフルも捨てて、逃げてしまいたい。
「(――それでも!)」
逃げたくない。
クリスティーナをその場に留めさせたのは誇りでもなければ、恐怖でもない。
例え力がなくとも最期の最期まで友達の前に立っていたい。
仲間を見捨てて生き延びたくないという、消極的であっても最後まで貫いていたい意地だった。
もしかしたら痛みに負けてしまうかもしれない、か細い意地。
そんなものは眷属鬼に通用しないだろう。
力も届かない。
クリスティーナが命を賭けたとしても眷属鬼を滅ぼす手段はない。
何があるのか。
この状況を逆転せしめる何かは――
「助けて……ッ!」
――何かはない。
それがありありとわかってしまう。
だから最後の手段に出る。
「助けて! 先生!」
声の限りに叫ぶ。
それだけしかできない。
届きやしないが一縷の望みをかけて叫ぶ。
もしかしたら近くに来ているかもしれないなんて希望を胸に、ありったけを叫んだ。
クリスティーナはまだ知らない。
それは非日常の中に潜み、どうしようもない『遭遇』として姿を表す。
目の前のバケモノこそがその通りなのだろう。
『遭遇』してしまえば力ない人間など滑り落ちるように尊厳もなく、躊躇もなく、嬲られるだけの無残で残酷な運命を辿る。
避けられ得ない宿命だ。
だが、そんな世界であろうとも在るのだ。
否、そんな世界だから在るのだろう。
そんな『この世の理不尽』に業火を噛み砕きながら、そのドロドロの拳を握るものが――在る。
例え四肢をもがれようともその首だけで怨敵を討ち滅ぼすような、執念の化身だ。
憤怒と憎悪に満ちたその生き方は人が見れば忌避を覚え、怖気が走るだろう。
決して手放しで褒められた生き様ではなかったろう。
だけどソレは決して『この世の理不尽』を赦しはしない。
例え、この世の全てを敵に回したとしてもソレは折れない。
そのために己の全てを捧げた男は――
「―――ッ!」
――かくして生き様を示すように現れた。
今まさにクリスティーナたちを捕食しようとした触手全てを断ち切り、クリスティーナの目の前を横断する白い壁。
何が起こったかわからないまま、クリスティーナとセロは次の瞬間、燃え盛る世界を見た。
この世の全てを燃やさんとする、苛烈にして奔放なる真紅の業火。
森の闇すら生ぬるいと断じて引き裂く灼熱の魔女は、極大の火球と共に落ちてきて眷属鬼を吹き飛ばしてしまった。
どんな理不尽があんな真似を可能にするのか。
クリスティーナにはわからない。
狂喜する魔女の背中は眩しすぎて暗い。
両腕を広げ、世界全てに挑戦するような格好はふてぶてしさが過ぎて、もはや傲慢と言えるほどだ。
そして、熱波は敵だけではなくクリスティーナたちも襲う。
アレにとってクリスティーナも眷属鬼も大して変わらないのだろう。
考慮も配慮もあったものではない。
熱波がクリスティーナたちを襲おうとした瞬間、白い壁はクリスティーナたちを守るように身を挺する。
とたん、身を炙る熱は届かなくなり、その落差に身体が寒さを感じるくらいだ。
「無事ですね」
その声をクリスティーナはよく知っている。
言葉にならない感情が胸から喉へと這い上がって溢れそうになる。
一縷の望みは叶った。
さっきまで一体、どこの何がどんな理屈でクリスティーナたちを助けたのか疑問と驚きに満ちていたのにその声を聞いた瞬間、全てを理解し、涙腺が緩んでくる。
「クリスティーナ君。マッフル君。セロ君」
逆光でよく見えなくてもわかる。
来た。
本当に来た。
それはいつもと同じように、それこそ教室で授業を行う時みたいに自然に降りてきて、その手はいつもと違い、あやすように頭を撫でる。
「たくさん言いたいことがあります。それでも先に聞かねばならないことがあります」
その変わらなさが大きな木にもたれるような気持ちにさせる。
いつもどおりであることが、どうしてこんなに心地よいのだろうかと思う。
あぁ、もう大丈夫なんだと思ってしまう。
普通に考えればたった二人が来たところで戦況が変わるとは思えない。
思えないが、もう任せて大丈夫だと信じられる。
「エリエス君はどこです? 姿が見えないようですが」
そして、ヨシュアンはどうしようもなく一番、的確な言葉を投げかけてくる。
クリスティーナは声が詰まりそうになる。
エリエスはクリスティーナたちを安全に逃がすために囮になったとは言えない。
しかし、怒られ、罵られようともクリスティーナが言わなければならない。
「……エリエスさんは西へ、この子たちが幾人かエリエスさんについて囮に」
分かっていても喉が乾き、舌は粘つき、出た声は思った以上に小さかった。
その時のヨシュアンの顔は怖かった。
怒られる、と思って首をすくめてしまう。
ゆっくり振り上げられる手はきっと叱り、罵るものだろう。
そう考え、目を瞑ったクリスティーナの頭に届いたのは暴言でも痛みでもなかった。
ポンポン、と優しく、そのあとは頭がグラつくように荒々しく撫でる手。
「よく、頑張りました。もう大丈夫ですよ」
さっき見た憤怒に染まった顔はなく、優しげに微笑を浮かべた顔だった。
鼻の奥が痺れるように熱い。
こんな、何気ない一言がとてつもなく嬉しくて、声を張りあげそうになる心を必死で抑える。
他の誰でもない、ヨシュアンだけはクリスティーナの頑張りを『察してくれる』のだ。
「とりあえずモフモフ。生徒たちを一度、学園に……」
そして、何時だって予想外の言葉を何気なく口にするのだからおちおち泣いてもいられないクリスティーナだった。
「モフモフ!? この毛玉の化物はモフモフでしたの!?」
白い壁にしか見えないこの生き物はよく見れば何やらモフモフとしている。
「はぅっ。もうおウチにいれてあげられないのですっ」
セロもその一言に驚いたのだろう。
若干、心配する部分がおかしいが、ある意味、もっともな感想でもある。
クリスティーナも一瞬、どうやって飼うのか迷う大きさだ。
いや、そもそも何故、モフモフが巨大化しているのか――相変わらずヨシュアンは理不尽の塊だと改めて思うクリスティーナだった。
ヨシュアンに勧められるままモフモフの背に乗り、見つめた向こう側はやはり真紅だった。
こうして呑気に騎乗している間もメルサラ・ヴァリルフーガは一人でバケモノとやりあっていた。
その後ろ姿と狂喜する横顔はクリスティーナが抱いていた悲壮感なんて、まったく感じさせない。
純粋に敵を圧倒し、焼き尽くすことしか考えていない。
「(私もアレくらい強ければ……)」
エリエスに無茶な作戦を考えさせなかったものを。
これが【タクティクス・ブロンド】と常人の違いなのかとまざまざと思い知らされる。
「エリエス君は無事ですよ。だから安心して学園で待っていなさい」
モフモフが走る直前にかけられた言葉に、クリスティーナはハッとする。
他の誰でもない仲間であるクリスティーナがエリエスの生存を信じないでどうする。
例え、この世が『すぐに誰かが居なくなる世界』であっても信じなければ始まらない。
こうしてクリスティーナとセロ、そしてマッフルの冒険は終わる。
それでも今はモフモフの上でありえない速度を体感しながら、まだ高揚する気持ちを抱いたままだ。
そして、彼女もまた待つことになる。
最後の仲間が帰ってくると信じて。
※
それは汚れた血が満ちた世界だった。
狭い部屋の中、血と汚泥だけが足首まで浸し、エリエスは茫洋と立っているだけだった。
ここはどこだろう?
はっきりしない意識のまま疑問を浮かべ、周囲を見渡して見ても何もない。
狭い部屋の中だとわかっていても視界に映る世界は何もない。
壁のような暗闇と赤が水平線を作るだけの世界だ。
エリエスはここがどこだか知っているが、わからない。
不思議な矛盾だが何故か気にならない。
『――あぁ、今回もまた失敗か』
声が聞こえ、振り向けば白衣の女性の背中があった。
その女をエリエスは見たことがある。
名前も知らない彼女は時々、アインシュバルツにやってきてはエリエスを意味なく眺め、そして、何も言わずに帰っていくだけの存在だった。
一度は彼女と自分の関係を考えてみたが結局、わからなかった。
もしかしたら母親ではないか、という憶測も抱いたが鏡に映るエリエスの顔と女の顔は似ても似つかない。
いや、似ている部分はある。
黒髪だ。
エリエスの黒髪と女の黒髪はよく似ていた。
ただ、それだけだ。
『何がおかしい? なのに――』
女は壊れたような、疲れたような――言うなら憑かれたような声でぼやく。
『失敗だ。また失敗だ。仕方ない。次の実験に進もう。なんてことはない、いつものことだ。次は成功する。あぁ、それまで待ってくれよ、私の――』
最期はブツブツと繰り返すだけで聞き取れなかった。
代わりにエリエスの視線に気づいたように彼女は振り向く。
『――いつになったら目が覚めてくれるんだ?』
女の目は真っ暗闇だった。
ポッカリと空いた眼窩から赤い涙を流しながら、三日月のように口を歪めている。
その異形に心臓が跳ね上がる。
「貴方は誰?」
務めて冷静に声は出た。
『――誰? 誰だったか』
「貴方は、何をしているの?」
『何? なんだったか』
コミュニケーションが取れているとは言い難いが一応、答えてくれるようだ。
『ただもう一度、会いたいだけだった』
外見は恐ろしい。
こうして向き合っているだけで鳥肌が止まらない。
しかし、何故だろうか?
『ただそれだけだったはずなのに、どうして』
なんとなく、そう、なんとなくだ。
知っているような気がするのだ。
『どうしてこんなに血が流れるんだろうなぁ――』
両手を広げると滝のように流れる血。
その様相は記憶にある彼女の姿と似ているが、それ以上の既視感を覚え、すぐに思い当たる。
その答えに辿りついたのが何故なのか、考える前に浮かんだ人はヨシュアンだった。
エリエスが師事する、異国人の教師とどことなく似ている。
例えるなら同じ材質で同じ絵の欠片で、形だけは違うような。
同じ絵柄で違う形のパズルのピースのようだった。
虚ろな表情がどことなく、ヨシュアンが時々見せる横顔に似ていた。
何かを求めているのに、決して手に入らないものへと手を伸ばし続けているような、そんな顔に込められた求めがどんなものなのかエリエスにはわからない。想像もつかない。
思うのは一つ、似ているということだけだ。
「貴方の求めは何?」
『なぁ、教えておくれ?』
エリエスの問いかけに答えず、真紅の手を伸ばす女性。
その光景にエリエスは逃げようとして、身体が動かないことに気づく。
『私はどうすればもう一度――』
真紅の手は近づいてくる。
叫びたいが声が出ない
今すぐ、この場から立ち去りたい衝動が胸を何度も叩く。
しかし、ここがどこなのか、どこに行きたいのかわからない。
『――あの子に会える?』
手を添えられ、べったりとエリエスの肩に血がこびりつく。
何を言っているのか、何をされているのかエリエスにはわからない。
『わからないはずがないだろう? お前は―――なのだから』
だけど、その思考を読んだように女は否定した。
『さぁ、還しておくれ。私の愛し子を……』
否定し続ける。
エリエスを、エリエスそのものを。
その全てが意味不明なのに何故だろう。
『さぁさ、還しておくれ!』
どうしてこんなにも『エリエス自身を否定されたような気持ち』になるのだろうか。
まるで母親に『生まれてこなければ良かったのに』と言われたような気持ちになるのだろうか。
女性が体重をかけてエリエスの身体を血の海に沈めようとする。
首に手をかけ、虚ろな表情で殺そうとしてくるのに――
「(何故、『哀しい』んだろう?)」
――浮かび上がる気持ちは怒りでも反抗心でもない。
心臓を握るような苦しみだけだった。
※
「エリエス君。起きなさい」
『きゅぅん、きゅぅん』と鳴く声と頬を叩かれる衝撃でエリエスは目を覚ました。
茫洋とした視界で、さっきまでの血の海と女の姿が夢だと気づくが、心臓はまだ苦しいままだった。
あの人は結局、誰だったのか。
疑問もあったが、ふと手首を触る感触に視界を寄せると――
「無事で良かった。大丈夫ですかエリエス君」
――真っ黒な眼窩の女性が狂ったような笑みを浮かべたまま、エリエスの手首を握っていた。
恨めしそうに、狂おしそうに、真っ赤な手でエリエスの手首を汚していた。
反射的に手を弾き、急いでこの場から逃げる。
しかし、身体は上手く動いてくれない。
不規則な心臓の音と同じでぎこちなく、近くの木にしがみつくことしかできなかった。
「先生です、先生。忘れたわけじゃないでしょう?」
周囲に浮かぶ緑の玉が強く発光し、ヨシュアンの顔がハッキリと見える。
おそらくリリーナがヨシュアンを呼んできてくれたのだろう。
心の底から安堵し、ヨシュアンをもう一度、見る。
困ったような顔と見慣れた眼鏡は間違いなくヨシュアンだ。
なのに何故、だろうか。
落ち着かせるために伸ばしたであろう、その手が真っ赤な血で汚れているのは。
ヨシュアンが何をして、その手は真っ赤なのか――いや、そもそもそれは現実なのか夢の続きなのか、あやふやになってくる。
もしも夢ならば、いや、夢の方が辻褄が合う。
こんな都合よくヨシュアンが現れるわけがない。
そう考えるとまるで夢の女がヨシュアンの皮を被っているみたいに見えて、その手を弾いてしまった。
そして、弾いた手の痛みでこれが夢でないと理解する。
拒絶してしまった。
ヨシュアンから差し伸べられた手を無意識に払っていた。
結論が出る前に身体は勝手に動いていた。
驚きに染まるヨシュアン、同時にエリエス自身も驚いていた。
「安心してください。大丈夫ですから」
ヨシュアンが驚いたのは一瞬だけだ。
すぐに努めて『困り顔』を作る。
「わかっています。ちょっと驚いただけですね」
そう言われても拒絶してしまった。
なおも手を差し出そうとしているヨシュアンにはわからない。
その手が怖くて仕方ないだなんて、わかりやしないのだ。
「――先生にはわかりません」
本当は拒絶したくなんかなかった。
しかし、ヨシュアンに拒絶されたらもう、エリエスはどうしたらいいかわからない。
ならば救いの手なんてない方がいい。
なのに、そこに居てくれることがとても安心するのだ。
訳のわからない非合理を抱え、エリエスは膝で顔を隠してしまう。
規則正しく動いていたはずの心臓が荒々しくて息が詰まる。
このまま見られると『察しのいいヨシュアン』がエリエス以上に気持ちを見破ってくるのではないかと堪らなく不安になるのだ。
訳のわからない――正体不明の感情を裂いた先にある感情をエリエスは見たくない。
見られたくない、あっちに行って欲しい。
願った通り、立ち上がるヨシュアンの気配が怖い。
見捨てられたのかと思うと、怖くて仕方ない。
なのにエリエスは動けなかった。
いつもみたいに問いかければ答えてくれるはずなのに声が出ない。
「エリエス君、立ちなさい。まだ終わったわけではありません」
無理矢理、手を取り立ち上がらされて布団のように柔らかい何かに押しつけられる。
それがやけに巨大な毛皮だと気づき、その柔らかさに抱きついてしまう。
まるで子供のようだと自虐的に思いながら、手の震えを隠すように抱きつく。
「先生はまだやり残したことがあります。モフモフならエリエス君を学園に連れていってくれるでしょう。モフモフ、エリエス君をお願いします」
毛皮に顔を隠しながら、遠ざかっていく気配を知る。
その後ろ姿をチラリと横目で見て、息を吐く。
「先生の期待に応えられなかった」
第一試練からずっと今に至るまで失敗ばかりだ。
ヨシュアンの疲れを癒すために行った料理は知識と経験不足で失敗し、シャワー室の一件では考え事のせいで規則を守れなかった。
今回の冒険にしても作戦自体は間違っていなくても、最悪の状況にまで陥った。
何が間違っていたのかすら、今のエリエスにはわからない。
「キースレイトの時みたいに失望される」
その間違いを正してくれるはずのヨシュアンに見放された場合、何を正しいと思えばいいのだろうか。
『それはない』
エリエスの独白を聞いたモフモフはあっさり否定する。
エリエスにモフモフの言葉は届かなくても言わずに居られない。
『同胞は決して子を捨てるような真似はしまい』
しがみつく子に鼻を寄せ、その震えが少しでも止まるように頭を擦り寄せる。
『アレは愛した者を見捨てられない――そんな選択すら思いつかないだろう』
言葉が通じなくとも一時の慰めになる。
『旅神もまた、そうだった』
モフモフは受け継がれてきた記憶を辿り、目を細める。
『愚かなほどに身も心も傷つけ、しかし――』
それ以上は語らない。
例え聞こえなくても語るべきではないのだろう。
「モフモフは暖かい」
『さもありなん。自慢の毛並みだ』
助かったはずなのにエリエスの心は沈んだままだ。
「――どうしたら良かったのかな?」
ポツリと呟いた言葉は毛皮に吸いこまれただけだった。
モフモフの背にゆっくり乗り、エリエスは三日月の下を滑るように往く、という貴重な体験をしたにも関わらず心は沸くこともなかった。
エリエスの冒険は苦い形で終わった。
仲間の負傷、囮作戦の失敗、考えうる全てを考えてもなお足りなかった。
ヨシュアンが来なければ仲間の期待すら裏切るところだった。
己のルーツを知るかもしれない相手との出会いや夢に出てきた女性。
この時のエリエスは己の謎にも無自覚なまま、まだエリエスは不安に揺れているだけだった。
※
モフモフから降りると、その大きな舌でエリエスを一舐めしてから、大きく飛び跳ねていなくなってしまった。
沈みこんだ気持ちのまま学園まで歩いている途中、ポツポツと雨が降る。
さっきまで三日月が輝く夜空だったのに、と不思議に思い顔を上げると西の森から白い火柱が立ち上がっていた。
それは空を突き抜けて天上大陸にすら届くほど長く、そして強烈な光だった。
夜雲を切り裂き、一瞬、昼になったのかと思うほど眩い光は全てを終わらせた合図でもあった。
それが本当に全てを終わらせたものかエリエスからはわからない。
ただ、なんとなく終わったような気がして、そのあまりにあっさりとしすぎて実感が持てなかった。
トボトボと学び舎に戻るエリエス。
自然と動く足にどうして学び舎へ戻ろうとしたのか疑問を覚え、考える。
もしもクリスティーナやマッフル、セロやリリーナが戻るのなら、きっとソレは学び舎だろうと自然に思う。
いつの間にか生徒たちに学び舎への帰巣本能が根付いていたようだ。
他の理由にエリエスも身体のところどころに怪我をしている。ここから一番近く、医務室がある学び舎に行くのは当たり前だ。
また、起こったことを教師に報告しなければならない。
ただでさえ予定帰還時刻より大幅に遅れている。
そんな小さな事柄すらエリエスには憂鬱の種だ。
予定通りに事が運べていない証拠なのだから。
篝火を眺めながら学び舎に入り、職員室のドアを開けた瞬間、飛びこんできたのは正座で並ぶクラスメイトたちだった。
クリスティーナは青ざめ、セロは涙目で、リリーナに至っては耳が下がっている。
マッフルも目が覚めたようなのだが、痙攣したような笑みを浮かべているので身体は無事でも心はそうでもないようだ。
ドアの音を聞いて顔を上げたヨシュアンクラスはエリエスの安否に顔を緩ませ、そして一斉に抱きつこうとして、足をもつれさせて倒れた。
これには教師陣も『しょうがないな』と言った顔だった。
「ほう。最後の一人が帰ってきたようだな」
シャルティアの笑みは安心させるものではなく、獲物を狙う獰猛な笑みだった。
それだけでも職員室のドアを閉じるには十分すぎる理由だろう。
しかし、ドアを閉じる気にはなれなかった。
「……ただいま帰還しました」
「エ~リ~エ~ス~……」
「エリエスちゃんなのです……っ」
ヨシュアンクラス全員が思い思い、手を伸ばす姿はただのホラーだったが誰も何もツッコめずに居た。
「誰が足を崩せと言った! エリエス! 貴様もこちらへ並べぃ!」
ツッコめないだけで怒られはするのだが。
ヘグマントの怒声に全員が動きを止め、慌てて姿勢を正す。
エリエスは鷹揚に頷き、そっと一番、端に座った。
それからは全て報告し終わるとまずヘグマントの怒声によるお叱りが始まり、意味なく背が伸びた。
次はシャルティアによる定点攻撃みたいな静かなダメ出しが続き、段々と鬱々してくる。
最期にはアレフレットの聖書の句を交えた、眠たくなるような叱咤で終わりを迎えた。
ピットラットとリィティカの慰めも所々に挟まったが、それがまた上げて落とすような様相になり、ヨシュアンクラスの全員はもう何を怒られたのかわからなくなるほどだ。
その頃にはもう、冒険していたことも相まってクタクタになり果てていた。
全員が『心配させてごめんなさい』と言い終わると、リィティカの付き添いで医務室に連れて行かれた。
「皆ぁ、疲れたでしょう? ヨシュアン先生が帰ってきたらちゃんと皆のことは伝えてあげますからぁ、ゆっくり休んでくださいねぇ」
ベッドの数が足りないせいでベッドを寄せて、一つの大きなベッドにするリィティカ。
ベッドメイクが終わるとすぐに生徒たちに向き直り、腰をかがめる。
「先生たちは色々と怒ったりしましたがぁ、本当に心配してたんですよぅ。特にヨシュアン先生はすごく心配していましたよぉ」
ふにゃ、と笑顔を見せるリィティカの言葉は真実だ。
少なくともマッフルを除く全員がヨシュアンの『無事で良かった』を聞いている。
何度も言うほど心配していたのだろう。
そして、リィティカが医務室から出るとまずはマッフルが床に膝をつけた状態でベッドに顔を埋めた。
「あ~……、うぁ~……」
声にならない、と言った様子だ。
これにクリスティーナも釣られて、ベッドに腰掛け、横に倒れる。
「たまりませんわ……、まったく」
もっともな怒られ方だった。
拳が出てもおかしくなかった。
少なくともヘグマントはそのつもりだったようだが、何故か殴られなかった。
「大変だったのであります……」
「はぅ……」
セロに抱きつきながらベッドに乗ったリリーナは、その柔らかさと温かさで身も心も癒す。
エリエスだけはベッドに近寄らず、仲間たちが緩んでいく光景をただ見ているだけだった。
「こっちだって大変な想いしたっていうのにさ……、あんなに怒んなくてもいいじゃん」
「まったくですわ。死を覚悟したというのに……」
「あ~、たぶん、ヨシュアン先生もさ、めちゃくちゃ怒るんだろうなぁ……、あ~!」
「憂鬱ですわ……、びりびりハリセンか、氷塊ゲンコツか、風圧デコピンか……、どれが飛んでくるのかしら」
「全部じゃない? うわ、言ってて寒気が」
「私なんか言ってて痛くなってきましたわよ。でも私たちはそれほど怒られる心配がなくてよ」
「なんでさ。あんただって同罪でしょーが」
「貴方が主犯だからに決まっていますわ」
珍しくマッフルが喉を詰まらせる。
流石に反論できず、色々と考えるがやっぱりオシオキから逃げられる言い訳は思いつかなかった。
「リリーナとセロりんとエリリンは頑張ったから、オシオキされないのであります」
「リリーナはこっち側じゃん。何、ちゃっかり逃げようとしてるわけ? クリスティーナも逃がしてたまるか!」
「いや~であります~!」
「放しなさい、この亡者め! ばっちぃですわね!」
手を伸ばすマッフルにクリスティーナもリリーナも捕まってたまるかと身をよじる。
何か知らない間にルールでも決まったのか、三人ともベッドから降りようとしない。
そんなおふざけをしていても、三人は自分たちが悪いとわかっている。
それぞれがそれぞれ、思い当たる節がある。
だから、罰は仕方ないことなのだ。
しかし、心はとめどなく不満を垂れ流す。これも止められないことだ。
元々スタミナ切れだったこともあって、すぐに暴れるのを止める三人。
「よく無事に戻って来れましたわね、私たち……」
ポツリとクリスティーナの言葉にエリエスはハッとする。
以前、言われたはずだ。
生半可な作戦は仲間を殺す、と。
それがまさに今回だった。
気づけばエリエスはマッフルの埋まった頭に近づき、包帯に触る。
「あ~……、あ、何?」
触られていることに気づき、マッフルが顔を上げる。
エリエスの目は茫洋としていて何を考えているかわからない。
「ごめんなさい」
その一言でエリエスが罪悪感を持っていることに気づく。
「いやいや、これはそこのクルクルお嬢様を助けるためだったしさ」
「誰がクルクルお嬢様ですって。さりげなく悪口を合体させないでくださいません?」
「三人であの少年を留めるように指示していたら」
「あのさぁ……」
マッフルが何かを言うよりも早く、リリーナが口を開く。
「ん~、ちょっとそれは困るであります」
『どうして?』という皆の視線にリリーナは意味なく、宙空に視線を這わせる。
「クリクリとマフマフはリリーナと連携が取れないであります」
「あら、言いますわね。それとも私の速さについていけないと言いたいのなら仕方ありませんわね」
「リリーナが一番、強いでありますから。ねー、であります」
リリーナに同意を求められてセロは戸惑う。
ともすれば実力を慢心しているような言葉にクリスティーナは頭を上げて、ジト目でリリーナを見る。
「ぁぅ。そういえばすごかったのです。リリーナさんはいつの間に、あんなに強くなったのです?」
「ん~? たぶん、あの時であります」
「どの時ですのよ」
「クリクラーと戦う前でありますよ?」
「はぁ? クリクラーというのはあの少年のことですわね。とにかく戦う前に強くなったとはどういう意味ですの」
「なんか、難しいでありますね。リリーナもあんなにやれると思わなかったであります」
リリーナ自身が意外だったのだ。
あの瞬間、やると決意したと同時に全てを出し切る覚悟だった。
そうした想いがあり、素質や積み重ねが一瞬にして結実、開花したのだろう。
実際、一人でやろうと考えなければリリーナもあそこまでの力は出せなかっただろう。
三人でやろうとすればリリーナはクリスティーナやマッフルに気を使って結果、三人がかりのほうが弱いという妙な話になる。
「えー、単騎で性能を発揮する……役割? でありますか?」
「オールラウンダーですわ。ヨシュアン先生がそうでしたわね」
「たぶん、リリーナはソレであります」
「ちょっと色々できるようになったからと言って調子に乗るんじゃありませんわよ」
「にひひ~、であります」
「例え、そうでも」
リリーナの覚醒は確かに誤算だったろう。
それを抜きにしてもエリエスはリリーナが一人でクリック・クラックの足を止められると思っていた。
そこに大きな誤算はない。
「あの卵は手に負えないものだったのに見誤った。『また』私は作戦を間違えた」
声も口調も、その無表情すらもいつもと変わりがない。
正直、ヨシュアンクラスの生徒たちでも今、エリエスが何を考えてこんなことを言い出したのかわからない。
だけど、マッフルは頭に触れられた手の冷たさに何かを感じる。
「あのさ、エリエス。あたしのつむじばっかり見てないで、ちょっとこっちに座ってくれる?」
マッフルはため息一つして、布団を軽く叩く。
言われた通りにエリエスは座り、言葉の続きを待つ。
しかし、マッフルは眉根を寄せて言葉に悩んでいるようだった。
他の皆も悩むマッフルの言葉を待っていた。
「あたしはエリエスに謝ってほしくない」
ようやく出てきた言葉は拒絶とも取れるものだった。
一番、その言葉を聞きたくなかったエリエスにとって、沈みこむには十分な威力だった。
「(あ、エリエスちゃんがしょんぼりしてるのです)」
セロだけはエリエスの小さな変化を察し、あたふたとしたが何か良いことを言えるでもなく、セロもしょんぼりするのだった。
そして、気落ちしたセロを抱いていたリリーナも突然の変化に首を傾げる。
「……なんですの、この空気」
マッフルから始まった連鎖反応を一人、冷静に眺めていたクリスティーナは引きつった顔をしていた。
なんとなくわかってしまうから逆に戸惑う。
「クリスティーナは一番、足が速くて切り込みやすい武器を持ってるからストライカー。リリーナは一人で色々できるし身軽で目が良いからスカウト。セロは色々あったけど物理結界のお陰で今はタンカー。あたしはある程度、剣術ができるし盾術も使えたからタンカーでアタッカー。でさ、エリエスは術式がうまいからキャスター。作戦を考えるのも一番、頭がいいから。皆で決めたことじゃん」
「リリーナは試練で一位だったでありますよ?」
「まずマトモな作戦、立てられるようになってから言ってくんない?」
それぞれが作戦を立てて、実際にやってみるという授業が行われた時。
リリーナはアクロバティックかつ理不尽な作戦を立て、誰もが作戦通りの行動が取れなかったことがあった。
この時、生徒はおろか教師すらもリリーナだけには作戦を任せられないと理解した。
理解した後に同じように全員が『作戦参謀にだけはなるな』と言い放ったほどだ。
どこまでも感性に従うリリーナの理屈に誰もついていけないのだ。
「それぞれ話し合って、納得して、エリエスだからあたしは大丈夫だと思ったし、あたしやクリスティーナが考えるよりずっと良いと思ってる」
「……そうですわね。指揮はやはり前衛より後衛に任せるべきですわね。全体を見渡せる位置にいないと話になりませんわ」
何故か自信満々のクリスティーナに『あんたは突撃しか命令しないでしょ』という目を向けるマッフルだった。
「今だって変わんないよ」
エリエスはきっと責任を感じているのだろう。
だけど、その責任は本当はマッフルのものだ。
マッフルが遺跡に行こうと言い出したのがきっかけだ。
エリエスはただマッフルのわがままをエリエスなりに上手くいくように段取りを組み立てていただけだ。
マッフルだけなら、きっと遺跡は見つからなかったろう。
冒険者に聞くために試合をするなんて考えられなかったことが良い証拠だ。
エリエスが居たから遺跡を見つけられたのだ。
「エリエスが気にするところってさ、そういうことじゃないと思う」
理屈でエリエスを理解しているわけではない。
感覚だって怪しいものだ。
本当に言いたいことだって、何なのかもわからない。
「今しかないじゃん。失敗できるのって」
だけど、言わなければいけないこともあるのだ。
支離滅裂でも良いから言えないと、きっとエリエスは悪い風に想い続けてしまう。
「今回はアレだったけど、ものすごく危なかったんだと思うけど、だけど、絶対に先生が助けに来てくれる今だから、あたしらって間違ってられるんだよ。間違う経験がタダでできるってそうあることじゃないんじゃない?」
考えてみれば学園という世界は異質だ。
生徒たちの責任を親でもない教師が背負う。
今回だってヨシュアンが――おそらく聞く感じだとメルサラが全てを解決しただろう。しかし、ヨシュアンがメルサラを連れて来たのなら解決したのはヨシュアンと言ってもいい。
生徒は手に負えないことを全て、ヨシュアンに任せてしまう。
それがヨシュアンの仕事と言ってしまえば、それまでなのだろう。
だが当の生徒は守られたまま、その光景を実感できずにぼんやり見ているだけでしかないのだ。
そして、いつか、同じような時が来た場合、生徒たちが己の責任を取れるようになるために。
先生の背中と行動を見て、いつかのお手本にする。
本来、あるべき自分の責任を未来に置き去りにしているという奇妙な場所だ。
まるで借金のようだとマッフルは思う。
「この学園から出たらさ。あたしは自分の店を持つために頑張るんだろうけど、そこで失敗したら責任を取るのってあたしなわけじゃん」
まだ明確なビジョンがないせいで少し気恥ずかしいが、きっとエリエスには言わないとわからない。
「もしかしたら責任が取れないことだってあるかもじゃん。そういう人って首吊るか、殺されるかのどっちかしかない世の中だしさ。そう考えると間違えられないじゃん。借金って怖いんだよ」
マッフルが育ったグランハザードという商会は金の取立てもする。
もちろん、そうした部分をグランハザードは見せなかっただろうが、昨日居たはずの誰かが居なくなれば、子供でも気づくし、どうなったかもぼんやり想像がつく。
『誰かが居なくなる世界』に居るのだ。
気を付けようと思っても、何を気をつけていいかすらわからない。
大人がそうして居なくなるのだ。
きっと落とし穴のようにハマるのだろうとも思う。
「何が言いたいかわかんなくなってきたけど、ようするにアレ」
そこには底なし沼のような言いようのない怖さがあった。
マッフルでもそう思ったのだ。
きっとエリエスは頭の良さから沼を覗いて意味を理解してしまったのだろう。
「ごめんなさいって気持ちが本当にあって、ちゃんと謝れるから誠意って言うんじゃなくて、エリエスが誰かを大事にしたくって『謝る』って行動が取れるから誠意なんだと思う」
いつの間にかマッフルは気持ちのままで喋っていた。
「先生もそういうつもりで誠意って言ったと思う」
支離滅裂でもいい、理屈でなくてもいい、何かを伝えたいと必死になっていた。
「エリエスは責任、感じてくれてるし。謝ってくれた。今だからって言うのもあって、混ざって変な話だけど。謝って欲しくないけど、でも謝ってくれた。あたしの失敗だったけど、エリエスはあたしの失敗も含めて、言ってくれたから。きっとそれって理解してくれたからでしょ。大丈夫、次はきっと、もっとちゃんとできるようになれるっしょ」
「でも、マッフルに代わりはいない」
エリエスにとって、その言葉は特に大した意味はなかったのかもしれない。
だが、マッフルの胸にストンと落ちてくる。
「いいよ」
何が言いたかったのか理解したら、もう伝えるだけだ。
「あたしはたぶん、エリエスの気持ちが見えないから、見えるようになりたかっただけなんだから」
もうこれで伝え終わったはずだ。
『友達なんだから気にするな』なんて言葉は言えないけれど、伝わって欲しいと思う。
「エリエスちゃんがダメなら……、みんなダメなのです」
眠たそうに目をゴシゴシしながらセロがエリエスの冷たい手を握る。
突然、触られたはずの手は子供特有の温かさがあって、心地よいとさえ思うエリエス。
あの『真っ赤な手』とは違い全然、怖くもなんともない。
「エリエスさん。右手をお出しなさい」
言われクリスティーナに手を出すと、その手を手で包まれた。
やはり、恐怖は感じない。
「指の皮が剥がれていますわよ」
腰につけたポーチから包帯を取り出し、指先をグルグルと巻いていく。
人差し指と中指の傷は『まるで慣れない弓を使った』ように見える。実際にそうだった。
「私にだって思うことくらいありますわよ。勝手に囮なんかして、勝手に私たちを助けようだなんて思い上がって! そんなに……」
クリスティーナの力の無さをエリエスが見抜いたわけではないのだろう。
眷属鬼を前にすれば、誰もが力無い子羊だった。
例外なのはメルサラ・ヴァリルフーガのような人外だけなのだろう。
いつかそこに辿りつきたいと願っても、辿りつけるかどうかもわからない。
少なくとも今は全然、歯が立たない相手だ。
「そんなに、頼りない前衛ではなくってよ」
それでも言わずに居られない。
言い切ってしまうと鼻が『ぐずり』と鳴る。
それを隠すように咳払いをし始めるが、ヨシュアンクラスの面々ももうクリスティーナとの付き合いも長くなってきている。
クリスティーナは、本当は涙脆い。
「……知ってる」
エリエスも知っているのだ。
クリスティーナが大威張りしながらも、それでも威張るに相応しい努力をしているくらい。
泣かないように努力していることくらい隣で見てきたのだ。
「授業妨害だけしなければ問題ない」
「それは褒めている……、わけではないですわね!」
クリスティーナが青筋を張りつけ、手に力を込める。
ちゃんとエリエスの怪我に触れないあたり、クリスティーナも弁えていたようだ。
信用されていないわけではない、それだけわかればクリスティーナは満足だった。
ただいつものように素直に態度と言葉にしないだけで。
「エリリンはモテモテでありますな~」
もう眠たそうなセロをあやすようにゆっくり左右に揺れているリリーナ。
リリーナは唯一、この中でエリエスを心配していなかった。
心配しなくても大丈夫だと信用していたからだ。
それに、リリーナが言うべきことは全てマッフルとクリスティーナが言い終わっている。
もしもそれでも足りないのなら、きっとヨシュアンが解決してしまうだろう。
それでもダメならリリーナの仕事だ。
学園とはそういうところなのだ。
「ギュッとしていいでありますか?」
「や」
だからリリーナがすべきことは変わらないことだ。
いつも、何度でも、拒絶されようとも。
それはヨシュアンと同じ、しかし、ヨシュアンのようにを目指した形でもあったがリリーナはそこまで深く考えていない。
「ちょっとだけ、ちょっとだけでありますから」
「ダメ」
「うきゃ?」
奇妙な声にセロを除く全員が窓を見ると窓に張りつくカエルのように、べったりと窓に付着するポルルン・ポッカの姿があった。
誰もが驚き、声に出せない間に『顔見せは終わったべ』と言うように、パッと窓枠を蹴って闇に飛び消えてしまう。
「……結局、あのポルルン・ポッカはなんだったのかしら。まるで私たちを助けるみたいに遺跡にいましたけれど」
「わからない」
謎が多い世界だとエリエスは思う。
異質で何が起こるかわからないし、過去もよくわからない。
知らないことの方が多くて、戸惑い、そして怖くもなる。
真っ赤な女とヨシュアンが何故、同じに見えたのかもわかっていない。
「でも――全部、皆とポルルン・ポッカのお陰で帰って来れたと思う」
やがて、いつもの談笑が始まるが誰ともなしにあくびをし始めて、次々にベッドに倒れていく。
子供には大変な冒険だったのだろう。
エリエスだって本当は眠たかった。
術式ランプの火を消して、真っ暗な部屋をウロウロしながらベッドに倒れる。
それでもクリスティーナやマッフルの言葉やセロの言葉を考えている内は眠れそうになくて一人、仲間が眠っている中で眠らずに今を考えていた。
色々なことが起きた昨日と今日。
答えは出なくても、仲間が触れている部分を感じられるだけで良かったのかもしれない。
そして、ドアが開き、誰かがイスに座るのを感じていた。
その気配をエリエスはよく知っている。
「――君たちが無事で良かった」
心の底から絞り出したような、初めて聞く声だった。
ヨシュアンは本当にエリエスたちを心の底から心配し、あの場に駆けつけたのだ。
きっと常識すら突破して、エリエスのために助けに来てくれた。
なのに拒絶してしまった。
そして、それは冒険とは関係ない。
エリエスは誠意を形にして終わらせないといけないことだ。
怖くても大丈夫だ。
それに怖がる相手でもないはずだ。
そう心に決めて、まだ揺れる心のままヨシュアンを引き止めるように起き上がった。
※
それから月の終わりの参礼日。
夏の終わりを呼ぶ緩い風の中で、エリエスは一冊の本と革鞄を持ったまま寮へと急いでいた。
胸に謎こそ残ったが、もういつかのように沈んでいない。
その様子はまるで何かの呪縛から解けたように見えるだろうが、彼女を取り巻くものはまだ彼女自身を縛りつけている。
赤い女にクリック・クラック。
その二つはまだ解決していない。
しかし、今はそんなことを気にしていられない。
ヨシュアンから渡された革鞄の中身を知らねばならない。
表面からはわからないが新しい謎を与えられて、嬉しいのだろう。
やがて奇っ怪な怪鳥のような声が響く寮の前に立つと中庭を覗く。
クリスティーナとマッフルの鍔迫り合いは、いつも以上に気合が入っている。
応援している子供達にもどこか熱が入っているように見えるのは二人の気合が移ったせいだろうか。
「入らないのでありますか?」
いつの間にか背後に、にょきっと姿を現したリリーナ。
「別に。見てただけ」
「そうなのでありますか。およ? その鞄はなんでありますか?」
「先生にもらった」
借りたはずなのがいつの間にかもらったことになっていた。
「中身は……、私本でありますね! やったであります!」
「アレは先生が燃やしたって言ってた」
ガクリ、と膝をつくリリーナだった。
まだ私本の奪還を狙っていたとはエリエスでも予想外だった。
「先生に文句を言ってくるであります」
「そんなことより」
「そんなことじゃないであります。大事なことであります」
「これ、教えて」
突き出された革鞄にリリーナも首を傾げる。
リリーナだって初めて見るのだ。
教えてと言われてもどうしようもない。
「ん~、もっと知ってそうな人ならそこに居ると思うであります」
指差す先は二人の試合を見学しているキースレイトだ。
確かにキースレイトは知ってそうだ。
他にもヨシュアンはクリスティーナやマッフルのことを聞いてきた。
自主訓練の理由について言及したのはエリエスに何かを教えると同時に気づかせるためだと推測する。
なら、この革鞄の中身をクリスティーナとマッフルが知っていることになる。
この二人が知っているようなことは大体、キースレイトも知っていることが多い。
「わかった」
さりげなく――本当にさりげなくエリエスはリリーナの手を掴む。
自ら接触してきたエリエスにリリーナは驚きながら、しかし、何も言わず、引かれるまま中庭を歩いていった。




