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リーングラードの学び舎より  作者: いえこけい
第四間章
270/374

少女たちの冒険譚 中編

 物理結界の有用性に最初に気づいたのはエリエスだった。

 

 例えばアレンジを加えると盾を好きな形状で、好きな位置に出すことができる。壁のように展開し、押し出すことができれば術式師一人で無数のタンカーを生み出すのと同じだ。

 奇しくもその戦闘スタイルはレギンヒルトの【未読経典】によく似たスタイルではあったが、思いついたエリエスも気づいていない。


 ただヘグマントクラスのように重量級のタンカーがいないヨシュアンクラスにとってセロは独特の立ち位置を確保しつつあった。

 エリエスはセロをよりタンカーの色を濃くするために、術式の宿題にも物理結界のアレンジを推していた。


 ただしセロはまだ物理結界を移動させるアレンジを知らない。

 己を基点にして物理結界を置くことしかできない。

 ヨシュアンのように結界を張りながら動き回ることもできない。

 セロができるのは物理結界を貼り続けることと形状変化ができるようになったまでだ。

 それで今は十分だった。


「だからリリーナに動かしてもらう」


 エリエスの言葉に首を傾げるセロ。

 その言葉の本当の意味に気づいたのは試合を開始してすぐだった。

 言われた通り、物理結界を大きく展開するとリリーナに持ち上げられた。


「展開、続けて」

「は、はぃなのです」

「いくであります、とりゃー」


 セロをお姫様だっこしながら走るリリーナの姿は四バカたちの度肝を抜いたが、それ以上に笑いそうになった。


 どこのバカが戦闘中にお姫様だっこで向かってくるのか。

 素人同然の考えだとゴルザは指差して笑ったのだが、その笑みがガラスに押し付けられるように歪んで吹き飛ばされた。


「ぐへぇ!? なんだぁ!?」

「兄貴ぃ……、子供相手に余裕かましすぎでさぁ!」


 その子供相手に負けたことを忘れている四バカたちだった。


「大人の強さってヤツを見せてぶべらっ!?」


 ナイフを片手に走り出したサールーも見えない壁にぶつかり、跳ね返ってゴロゴロと転がっていった。


「……何かある」

「やばいよぅ。はやく逃げないとぉー!?」


 ボツリとつぶやいたバーツとファルブブもいつの間にか迫ってきていた壁に押し出されて転がっていく。

 そのあとはまるで人間サイズのダンブルウィードのような有様だった。

 校庭の端まで辿りつく頃にはもうズタボロだ。


「私たちの勝ちです」

「ぐ……、ぐぞぅ……ッ! 反則だろ、あんなの!」

「特に決められてなかった」

「う……、いや、あぁいうのは、アレだ。反則なんだぞ!」

「どうして?」


 エリエスがゴルザの首元にナイフを添えて、淡々とした瞳で眺める。

 その様子は有無を言わせず脅しているように見えるが、エリエスからすれば、ただ単にここで立ち上がってもらいたくないから動けないようにしているだけだ。


「反則は、反則だからだ!」

「意味がわからない。ちゃんと説明して。どういう理由で、どういう条件に基づいて、どうして反則になったか理論で教えてください」

「理論!? お、俺がルールだからに決まってるだろ!」

「ルールになれる人間は王だけと先生は言っていた。貴方は王じゃない。なので条件になれない。それとお互いの立場が明確な時、条件は対等。だから貴方だけ有利な条件は対等でないのと同じ。それに対等でありながら貴方たちに有利な条件が加わった場合、『貴方たちは私たちより圧倒的に弱い』状態でないとダメ。貴方たちは私たちより弱いの?」


 ざっくりとゴルザの心に理屈の刃が突き刺さる。

 うめき声しかあげられなかったゴルザはガクリと項垂れた。


「はいはい、エリエス。あんまり死体に鞭入れて塩まで塗りこむような真似しないでよ」


 いつも通り、疑問に思ったらなんでも質問するエリエスの姿にどこかホッとしつつ、マッフルはエリエスの肩を叩いて、ジェスチャーで「代わって」と伝える。

 

「とにかく約束通り、遺跡の場所を話してもらうからね」

「よし、なら代わりにクリスティーナさんを!」

「死ね!」


 マッフルの腰の入った下段突きがゴルザの顔にめり込む。

 反射的に空へと両手両足を突き出したゴルザは、すぐに力なく大地にその身を横たえた。

 若干、顔面が凹んでいたような気もするが大したことはないだろう。


「塩はダメでトドメは良いの?」

「別にそんなつもりはないし、腹立っただけだし」


 マッフルの意味不明な返答に首を傾げるエリエスだった。


「あいつがどこのどの変態と付き合おうが勝手だけど、約束も守れない最低にわざわざあげるもんでもないし、つまり、とっとと遺跡の場所を吐きなさい!」


 ますます訳がわからないマッフルの言に、セロを抱っこしたままのリリーナはうんうんと首を振っていたのだった。


「マフマフは友達想いでありますなー」

「ねー、なのです」


 セロとリリーナは顔を見合わせて同調したのだった。

 一人だけわかっていないエリエスだ。

 しかし、疑問に思うものでもないだろうとあっさり脳内から疑問を追い出してしまった。


 一方、マッフルはリリーナとセロの勘違いを正したかったが、今は交渉中だ。

 すでに暴力が行われている以上、交渉とは呼べないがマッフルは交渉のつもりだ。


「そこの骸骨、どうなのよ!」

「わかった……、だからこれ以上、兄貴ぃを傷つけないでくれ割とマジで死んじまう。言うとおりにするから地図はあるかよ?」

「地図って誰が持ってたっけ?」

「セロなのです」


 リリーナから飛び降りたセロは校庭隅に置いたカバンから地図を取り出し、トコトコとサールーへと近寄る。

 サールーは地図を受け取ると慣れた手つきで地図の北西に×印を描く。


「ほらよ、西の通り道の一番先を北に行ったところだ。今日中に遺跡前まで辿りつけたら余裕で帰って来れるぜ」

「本当にここに遺跡があんの?」

「俺たちだって見たことねーよ。先輩らは本気で準備してやがったしな。たぶん、真実だろ。俺たちも行きたかったが兄貴がこれじゃなぁ……」

「記憶違いとかしてない?」

「信用ねーなぁ!? これでも冒険者だぞ! 地図の一つくらい読めねーでどうするよ」

「……オレ、わからない」

「バーツ! ここで信用落としてトドメを刺されたらどうすんだー! 本当に兄貴ぃが死ぬぞ!」


 一番、早く復活したのは基本体力がずば抜けているバーツだった。

 熊のような身体をのっそりと起こし、じっとマッフルを見上げる。


「……遺跡は近寄らないほうがいい」

「なんでよ」

「……危ない」

「べっつに。生徒会だって危ないじゃん」


 遺跡に行かないという選択肢はもちろん、あった。

 冒険者が遺跡で怪我をして帰ってくる話や異形の化け物の話、見たこともない罠の話も聞いてきた。

 遺跡が見つからなければそれでも良かった。

 どうせ遺跡に行かなくても黒字なのだ。なら挑戦してもしなくてもどちらでもいい。


 遺跡の場所を知り、向かえない理由がなくなると躊躇もなくなる。


「とりあえず、ありがと、おじさんたち。これで遺跡に行けるし」


 以前のマッフルならそんな危険な場所に行ってまで宝物を取ってこようとはしない。

 冒険者に取ってこさせて買い取るのが商人として正しい方法だ。


 しかし、今のマッフルは剣士としての側面もある。

 腕試ししたいという気持ちもあるのだ。


 自分たちはこの義務教育計画でどれくらい成長できたのか、という疑問は日に日に増していく。


 プロの実地でどこまで通用するか試してみたい。

 その中でもプロでも挫ける遺跡は試しの場に相応しいように思えた。


「ま、怖くなったら帰ってこいよ」


 サールーの嘲笑めいた言葉にちょっとだけムッとするマッフルだったが、授業で習った精神抑制法でムカつきを抑える。

 安い挑発に乗って時間を無駄にしても意味がない。

 何より、先に騎竜と装備類を取りに行ったクリスティーナを待たせると騒がしくなる。


「よし。皆、行こう。早くしないとツンツンお嬢様がまぁた性根を尖らせてるかもよ」


 ヨシュアンクラスが校庭から去った後、目を覚ましたゴルザが這いながら医務室を目指し、ちょうど仕事を終えて出てきたヨシュアンに遭遇する。

 そして、また失神したり、アニーに追いかけられたりしてヨシュアンクラスの同行を報告できなかった。

 

 しかし、それらを誰も責めることはできない。

 知らされざることを誰も知ることはできない。


 少なくともヨシュアンクラスは遺跡がどんなものかまだ勘違いしたままだった。

 それは話をよく聞いていたマッフルも例外ではない。


 ※


 クリスティーナは背後に騎竜を従わせ、仁王立ちでクラスメイトを待っていた。

 完全武装したまま牧場で立つという、どこか間抜けな光景もヤグーしか観客がいなければ誰も文句は言わないだろう。


「(この屈辱はどうしたらいいものかしら)」


 あの悍ましい取引を思うと腸煮えくり返る思いだが、理に適っている。

 時間を無駄にせず、なおかつ遺跡の情報を得る一番の方法だ。


 もしも、あの時、マッフルがエリエスと同じことを言い出してもきっと天秤にかけて、理を選んだろう。

 普段、わがままばかりで声も大きいが、損得勘定くらいできる。


「(あの子は愚民ほどではありませんが妙に私を目の敵にしていましたわね。まさかあんな方法で貶めてくるとは思いませんでしたわ――)」


 エリエスはクリスティーナを目の敵にしているわけではなく、授業を邪魔するから邪険に扱っているだけで、普段はマッフルを相手にした時と同じようにちゃんと受け答えもする。

 おそらく勉強を教えてくれと言ったら素直に教えるだろう。

 むしろ邪険されていたのでエリエスを少し避けていたのはクリスティーナで、だからこそ、知らなかっただけだ。


「(あのように隙を突かれたのも普段からあの子がむっつり黙っているからですわ。何を考えているかしら)」


 とはいえ、どうコミュニケーションを取っていいかわからない。

 こうして考えると同じクラスという以外で共通点が少ない。

 マッフルは商人、セロは修道院、リリーナは森の集落で暮らしてきた。

 ここまで考えて、ふと疑問に思う。


「(そういえばあの子、今まで一体、どんな暮らしをしてきたのか全然、聞いたことがないですわね)」


 一緒に暮らしてきたら、ある程度、生活というものが見えてくる。

 マッフルにしてもセロにしても、謎しかないリリーナでも普段の態度から暮らしぶりがわかる。

 しかし、エリエスは?

 茫洋としていて、まったく見えてこない。

 何も知らないことに眉を顰め、腹の底の怒りより疑問の方が強くなり、深く考えようとした時、遠くから歩いてくるヨシュアンクラスの面々を見つける。


「やっと来ましたわね! あの程度の眉毛に何をちんたらやっているのかしら!」

「いや~、負けちゃった」

「嘘ですわー!? 嘘だと言って!」

「うん、嘘」


 全身、鳥肌まみれでこの世の絶望を味わったクリスティーナが、マッフルに掴みかかるまで一秒もかからなかった。

 『幽歩』からの一足、ほぼ無挙動だったがマッフルも『弱支配域』を広げ、クリスティーナの掴みかかりに対応する。

 がっしりとつかみ合う二人はつまり、いつも通りだった。


 ただ内容に高度な技術が使われるようになったのは教師陣の発奮と彼女たちの努力の賜物だろう。


「『瞬歩』でありますなー、前は出来なかったでありますのに」

「怒りで強くなった」

「マフマフも支配の練度が上がってきているでありますなー」

「精度ならマッフルが一番」


 のんびりと観戦していたエリエスとリリーナだった。

 いつまでも見ているのも時間の無駄なので装備類を確かめようとしたら突然、掴みかかるのをやめたクリスティーナがエリエスに向き直る。


「エリエスさん! 貴方、どういうつもりですの!」


 先の勝負のことを言っていると理解したエリエス。


「求められた条件で一番の方法を取っただけ」

「そういうことを言っているのではありませんわ! 仮にも仲間を売るような真似を――」


 クリスティーナは言葉を言い切れなかった。

 つい出た言葉が、怒っている理由だと言って気づき、そしてエリエスの瞳を見てハッキリと理解した。


「(この子は私は仲間だと思っている? いえ、それはともかく、この瞳! 本当にこの子は純粋な理屈であんなことを言い出したのですわ)」


 打算も無ければ恨みもない。

 それが一番だと本気で思って作戦を立てたのなら、クリスティーナの憤りはどこに持っていけばいい?

 良かれと思ってした行動にクリスティーナはどう対応したらいい?

 いや、それ以前に――


「クリクリ~、急がないと日が暮れるでありますよー」

「う……、わ、わかりました。とにかく移動しますわよ。遺跡の場所はわかったのでしょう? 装備は全員分を持ってきましたから、さっさとお着替え遊ばせ」


 ――時間もない。

 うじうじと考えて出す言葉でエリエスたちを待たせるわけにもいかない。 持ってきた装備に着替えなければ、せっかく待ち時間で作った簡易着替え室が無意味になる。


 ヨシュアンクラスがぞろぞろと着替え室に入っていくのを見ながら、クリスティーナの顔に影が射す。


 クリスティーナにとって学園生活は今までの生活と立ち位置が違っていた。

 実家に居た時は周りにいる誰かがクリスティーナのことを察して、語りかけてきた。

 怒っているなら無聊を慰めるし、機嫌が良いのなら紅茶を淹れる。

 周囲の大人たちによって感情を処理してもらっていたようなものだ。


 今の立場は違う。


 クリスティーナより未熟な者がいる。

 クリスティーナよりできる者がいる。

 同等の者もいる。

 全てがごちゃまぜな共同生活は時々、立ち位置をあやふやなものにする。


 特にクリスティーナよりできる者なはずのエリエスの間違い、という奇妙な状態は落ち着かなくなる。

 怒りたいし、文句も言いたいがエリエス自身に悪気はない。

 説教しようにも何を説教すればいいかわからない。

 どう言えば、どうすれば発散できるかもわからない。


 結局、これ以上、騒ぎ立てることもできず、エリエスがしたことの分だけクリスティーナは不満を抱えこんでしまった。


 そんなクリスティーナを背後から柔らかな感触が包む。


「な――! いきなり何を引っついてきて」

「傷ついちゃったでありますね。いい子いい子であります」


 着替え室に入っていったはずのリリーナがクリスティーナの背後から近寄り、抱きしめていた。


 リリーナからすればクリスティーナも、いや、そもそもクラスメイト全員が妹のようなものだ。

 人よりも絶対数の少ないエルフだからこそ、集落での生活は年上が年下の面倒を見るというシンプル極まりないものだった。

 優れた理屈は単純で、効率的だ。

 学園生活も例に漏れず、生活の違いは問題はなかった。


 もしも集落との違いを言うのなら、それは子供の数が多いことだろう。

 集落ならば大人の方が多く、手隙の大人が子供の面倒を見るが学園では教師が忙しいせいで子供の世話ができない。

 【宿泊施設】の住人は各々の仕事で忙しい。

 必然、生徒が生徒の面倒を見る回数が増える。


 リリーナは面倒を見る側の筆頭でもあった。


「ぐ……、傷ついてなんかいませんわ! どさぐさに紛れて胸を触らないでくださいませんの!」

「固いであります」

「防具を着ているのだから当然でしょう! だからって胸具の隙間に手を突っ込まないの!」

「あ、今のヨシュアン先生っぽかったであります」

「ふざけないでくださる!」


 ただ、クリスティーナで楽しむリリーナからはそんな面倒見の良さは見られない。

 リリーナも面倒を見ているつもりはなく、一緒に楽しむつもりでいる。


 結局、今回もリリーナの優しさは伝わらなかったようでクリスティーナは困ったような顔で戒めを振りほどいただけだった。

 それだけでクリスティーナはいつもの表情に戻っていたなどと、耳を引っ張られていたリリーナにしかわからないことだったろう。


「どうしたのですか?」


 一方、簡易着替え室の中でゴソゴソと戦闘衣装を身に纏っていく。

 前衛のマッフルは愛鎧でもある多関節鎧【カーファの多殻鎧】だ。

 今回は森の中と移動が多いという条件から軽装状態で挑むようだ。


 後衛のセロとエリエスは身に纏うというよりも完全に着替えだ。

 セロの【ヒュティパ正式祭服】も、エリエスの【ベルナット・マグル作・ピルツゲヴェーべ】も学園制服の上からは着られない、防具と服が一体化している。

 ただ、今回は二人とも森を往くことから外套を上から羽織っている。


 暑さで奪われる体力よりも、夜露で体力を消耗しないことと枝葉に引っかからないこと、そして、布団の代わりに纏うことで重量を削減している部分を主眼に置いて外套を選んだようだ。


「ぼんやりしてるのです」


 時間が限られている中で着替え時間は早いほうがいい。

 なのに手を止めてしまったエリエスを見たセロは首を傾げながら聞く。


「……訳がわからない」

「そりゃ、何の相談もなくクラスメイトに売られそうになったら怒るっしょ」


 カチャカチャと部品を組み合わせ、篭手をはめるマッフル。


「勝てる見込みがあっても、絶対に勝てるって保証はないじゃん。もし負けたらクリスティーナにどうやって謝るつもりだった?」


 そこまで考えていなかったエリエスは、すぐに思考を巡らせる。

 負ければ確かに大惨事だろう。

 もっとも大惨事なのは事を知ったヨシュアンによって制裁される四バカたちとヨシュアンクラス一同なのだが。


「でもさ、エリエスが作戦とか考えるのって私たち、全員で決めたことじゃんか。クリスティーナだって信じてたから荷物と騎竜を取りに行ったわけだし。エリエスが本当に悪いと思ったのなら謝ればいいし、そうでないなら何も言わないでいいんじゃない?」


 悪いことをしたかと問われ、どこにも非はないと答えを出すエリエス。

 しかし、引っ掛かりを覚え言葉にしなかった。

 では、何に引っかかったか。そこまで考えクリスティーナの怒り顔が浮かぶ。


「エリエスちゃんはごめんなさいしなきゃダメなのですっ」


 想像の中のクリスティーナの姿はセロの強い言葉と人差し指をピッと前に出す態度で消えた。

 

 セロにとってエリエスは学園でできた初めての友達だ。


 学園はセロにとって、見たこともないものばかりの世界だった。

 年上ばかりだけではなく、同年代もいる学園生活。

 見たこともない道具や寮内、授業内容も未知のものばかりだ。


 それでもなんとか生活できたのは、基本となる生活がちゃんとセロの中に根付いていたからだ。

 決まった時間に起き、皆で食事をし、夜は刺繍の代わりに勉強をする。

 あまり生活リズム自体は変わらず、見慣れない物や知識があっても教師が教えてくれる。

 徐々に慣れ始めた今は気にならないが、当初は本当に見るもの全てに恐れ多いような気持ちを抱いていた。


 その中で泰然としているエリエスは頼もしい存在に思えた。


 エリエスはリリーナのように面倒見がいいわけではないが迷いがちなセロに対して、理屈できっちりと答えを出し、ヨシュアンの代わりに迷いを打ち消してくれる存在だった。


 そして、今になって立場は逆転してしまっていた。

 不確定な求めを知ろうとするあまりに迷うことが多くなったエリエスにセロは感覚でそうだと理解していた。

 今、エリエスを助けるのはセロだと密かに決意していた。


「クリスティーナさんは怒ってたわけじゃないのです。エリエスちゃんが勝手に太眉さんにあげちゃうなんていうから、かなしくなったのですっ」


 こんなありふれた言葉がエリエスの助けになるかどうかはわからない。

 だが、頭のいいエリエスならセロの言葉から幾数もの答えを導くはずだと信用している。


 セロの期待通り、エリエスはクリスティーナの怒りの理由を導き出す。


「クリスティーナの信用を裏切った?」

「んー、まぁ、そういう言い方もできるんじゃない?」

「信用してるようには見えなかった」

「ぶっちゃけるなぁ。単純にお嬢様のエリエスへの接し方がわかんないだけじゃない? 髪型みたいに器用なお嬢様じゃないしさ」

「あれはあれでかわいい髪型なのですっ」

「はいはい、落ち着こうなーセロ」


 もしもクリスティーナが答え通りに不信を抱いているのなら、それはキースレイトと同じ理由だと推測する。

 そうした時、どうすればいいか――誠意を見せなければならないとヨシュアンから教わっている。


 エリエスが着替え室の外に出ると、クリスティーナが細剣のレピンドを構えてリリーナを警戒していた。

 何があったかエリエスにはわからないが、間に割って入ればお互いに警戒も解けると知っているので逡巡もせずにクリスティーナに近づく。


「クリスティーナ」

「なんですの。今、この色魔から身を守るのに忙しいんですの」

「クリスティーナの期待通りに勝ってみせた」

「……それがどうかしまして?」

「だから、大丈夫。悲しまなくていい」


 エリエスは漆黒のような瞳でクリスティーナを覗きこむ。

 あまりに一直線すぎて『うっ』と身を引くクリスティーナだった。


「なんのことか知りませんけど、気にしてなんかいませんわ!」


 レピンドを鞘に収め、薄らと頬を赤らめながら腕を組んで背を向ける。

 

 エリエスの瞳が『なんだかつまらないことで悩むな』と言っているようで少し頭にきたが、真摯に見てくる様に裏はなく単純に言葉通りなのだろうと理解して、ため息をつく。

 あれもきっと悪意のない励ましなのだろう、と理解する。


「そこで上目遣いでウルウルってやると効果があがるでありますよ? 顎をちょっと突き出して、こう、であります」

「こう?」

「ウルウルさせるであります」

「涙は出ない」

「そこで目薬の出番であります」

「ちょっとリリーナさん。エリエスさんに妙なことを教えないでくださる?」


 リリーナのアドバイスにジト目を向けるクリスティーナだった。


 そして、着替え室から顔を出して様子を伺っていたマッフルは何とも言えない表情を、セロは胸のつかえが取れたような表情をしていた。


「なかよしになれたのです」

「う~ん? どうかなぁ。いや、なんて言っていいんだろ……、よくわかんないなぁ」


 ただマッフルだけはこの光景がどうにも不自然というか、ボタンをかけ間違えたような奇妙な気持ちを抱えていた。

 確かに丸く収まっただろう。クリスティーナも根っこが単純だ。口で言うほどいつまでも不満を抱えていないこともわかる。


 だが、どうしてもエリエスが根本的に理解していないような気がしてならないのだ。


「というか、なんか勘違いしてるような……、ま、いっか」


 こうして彼女たちは無事、騎竜に乗って西の森を目指した。

 【宿泊施設】の住人たちは学園生徒を見慣れているが、それでも騎竜に乗って姦しくしていれば嫌でも目立つ。

 何人かの住人に温かい目で見送られながら、ヨシュアンクラスは森へと入っていった。

 

 ※


 森は非日常だ。

 それはリーングラードのような『奇妙な森』だけに留まらず、世界中のどこでも同じような認識が見られる。

 エルフのような森に住む者でも自らのテリトリー外の森は境界線の外にある。

 彼らは人よりほんの少し、森の境界線について詳しいだけだ。


 一線を越えた森の闇は深くて広い。


 しかし、同時に彼らは森を利用せずに生きてはいけない。

 食料として果実や木の実があり、樹木は何よりも優れた建材で、虫たちが作るコロニーはなめし革の材料になり、ハチミツは言わずもがなだ。

 さらには人が食せないものであっても家畜にとっては飼料になりえる。


 人と森は切って離せない。


 だからこそ森に分け入る人が必要であり、生徒会システムを元となった冒険者たちは日常の人々の代わりに非日常に分け入る者でもあった。

 当然、生徒会を行う生徒たちも同じように非日常を体験する立場にある。


「ツィーゲン・シュトライフェンは森の奥でしたわね」


 まるで幕の降りた劇場のようだとクリスティーナは思う。

 木々の葉と共に絡みついた蔦がぶら下がる様子は空を隠すための帳に見え、空の色も徐々に闇色に近づいているせいか、より一層、葉の暗さが際立つ。


 それぞれがそれぞれのランプで周囲を照らしても、夕闇を押しのけるほどではない。

 何よりも心細く感じるのは『誰も頼れない』からだ。

 東の森に比べ、西の森は木々が深く、周囲は暗い。

 もう夕暮れ時だということも相まって、徐々に視界は悪くなってきている。


 茂みのベールの影から、どんな原生生物や魔獣が現れるかわかったものではない。

 視界が悪く、何時、野生の餌食になるかわからない場所だ。


「どっちにしても見つけるのは明日じゃん。とりあえず野営地まで行かなきゃ話にならないし」

「そんなこと、わかってますわよ」


 何か口に出していないと不安が押し寄せてくるとは言えず、ついきつい口調になる。


 騎竜に乗りながら周囲を目だけで観察しているクリスティーナは学園に居た時のように浮ついていない。

 それは何も油断や警戒心から来るだけでなく『油断したら見えないくぼみに騎竜の足を取られる』のではないかと思って、注視せざるをえないからだ。


 クリスティーナだけでなく、マッフルやエリエスも同じ心持ちだったろう。

 特にセロは森というだけで少し、おっかなびっくりな様子だった。


 そんな中、リリーナだけは先行して周囲の確認をしているため、この場にいない。


 他にも緊張する理由はある。


 『生徒たちだけで森の奥まで入ったことがない』ことも理由に挙げられる。

 鉄鉱石を採りに行った山裾コースは一日かけて往復する。今回の遠征と同じ距離と時間を往くのだが、その時はヨシュアンが傍にいた。


 もちろん現状は仲間同士で補い合う形でフォローがないわけではないが、教師のフォローに比べてしまうとどうしても頼りない。

 信頼していないわけではないがヨシュアンのようにフォローできるか、あるいはしてくれるかと考えると不安を覚えてしまう。


 様々な条件が重なり、緊張感は今までの依頼とは比べようもない。


「セロ。術式ランプの火が切れている」

「はぅ……」


 セロは慌てて紐で鞍に固定された術式ランプを触り、火を灯す。


「取り付け型にしとけば良かったのに」


 マッフルの持つ術式ランプは冒険仕様だ。

 片手を塞がないように腕に取りつけるもの、胸部防具につけるもの、様々な形とパーツがあるが、マッフルの持つ術式ランプは右胸と肩の中間に設置できるものだ。

 クリスティーナの術式ランプもまたアタッチメント型だ。


 この二人はよく討伐依頼を受けるため、ハンドル型の術式ランプが邪魔になると知っている。

 クリスティーナに至っては矜持を曲げてでも術式ランプの光量をあげており、今までの依頼の反省が活かされている。


 一方、エリエスとセロは討伐依頼をあまり受けないせいか、術式ランプの改良まで気が回らなかったようだ。

 鞍の紐にくくりつけて、消える度にランプの縁を触って術式回路を起動させている。


「……光量の時間を長めに調整するべきだった」

「冒険者は術式ランプと燃料ランプ、二つ持ってることもあるんだってさ。光量を調整しなくても使い分ける感じでさ。術式ランプを取り付け型にして燃料ランプは手に持つ形」

「燃料ランプを取り付け型にしないのは何故?」

「危ないからに決まってんじゃん。えーっと、燃料ランプの中身って松脂なんだけど、もし戦ってる時にランプが壊れて防具に飛び散ったら燃えるじゃんか。だから基本、取り付け型は術式ランプ、燃料ランプはハンドル型。これが基本。戦闘中は術式ランプ、移動中は燃料ランプってね。面子や術式師次第では必ずしもそうとは限らないらしいけど」

「二つを一緒にできない?」

「面白い発想だけど、やめといた方がいいと思う。松脂を燃やすと汁が出るんだけど、その汁の汚れがしつこくってさ。ヘラで剥がすんだよ。で、術式ランプって刻印するじゃん。刻印の溝に入りこんだら大変だし、いざというときに使えないんじゃ冒険者の道具として失敗じゃん」

「わかった」


 そして沈黙するとカポカポと足音を響かせる音だけが響く。

 風が葉叢を揺らすとつい、目を向けてしまう。そして、何もないとわかるとホッと胸を撫で下ろす。


「……リリーナさんは一人でこわくないのですか?」

「んー、さぁ。エルフだし、森に詳しいから大丈夫だと思うけど」

「この辺はまだ大丈夫ですわ。何か居たとしてもヴォルフかシュピーネくらいですわ。両方とも今の私たちなら余裕で撃退できますわよ」


 と言っても突然、茂みから飛び出してきたら迎撃より先に恐怖で身体が動かなくなるかもしれない。

 そう考えると自然と身体が固くなってくる。

 

 前衛のクリスティーナとマッフルからすれば、後衛のエリエスとセロが襲われるより先に対応しなければならない分、緊張度は高い。


「私一人でシュピーネくらい、余裕ですので安心して私の後に続いてよろしくてよ」

「クリスティーナの後に続くと穴に落ちるから止めといたほうがいいよ」

「穴に落ちたことなんてありませんわよ!」

「先月。採取依頼。誰かさんがリリーナの注意も聞かずに突撃して、足滑らせたことがあったっけ」

「アレは……! リリーナさんの注意が遅かったせいですわ!」

「リリーナのせいにするなよなぁ。感じ悪い」

「今! まさに感じが悪いのは貴方ですわ!」

「その誰かさん、『いやぁあ! おたすけぇー』って叫んだんだけどさ」

「なっ……! 貴方だって蜘蛛の巣に顔から突っ込んだ時に『きゃああ!』だなんて可愛らしい悲鳴をあげていたくせに!」

「アレは急に出てきたからびっくりしただけだし、そもそもそんな悲鳴なんてあげてないし」

「だったら私だって、そんな情けない悲鳴をあげてませんわ!」

「二人とも、周囲を警戒して」

「……うっ」

「……うん、ごめん」


 前衛がいきなり喧嘩し始めたら、エリエスと、主にセロは気が気でない。

 そのことに気づいたクリスティーナもマッフルも流石に自重する。


「せんせぃもいっしょがよかったのです……」

「ダメ」


 弱気になったセロの言葉に間髪いれずに否定するエリエスだった。


「先生は疲れてる。それに私たちだけで遠征できないとこれから何もできない」


 理に適った言葉なだけではない。

 セロもうっすらとだが同じことを考えたことがあった。


 ヨシュアンなら言えばついてきてくれるだろう。

 それこそ無理して助けてくれると知っている。


 しかし、最近のヨシュアンは妙に暗い顔をする。

 それがアルベルタという過去について思案している時の顔だとしても、そんなことを知らない生徒からすれば疲れているようにしか見えない。


 ヨシュアンも意識して生徒たちに見せないようにしているが、その全てが上手くいっているわけではない。

 特にセロはヨシュアンの顔色に敏感だ。


「……がんばるのです」


 負担になりたくないが、構って欲しい気持ちもある。

 両方共、セロの本心だ。

 だが、どちらにしてもヨシュアンの手を煩わせない範囲はセロ自身ができるようにならねばならない。


 これはセロだけではなく、ヨシュアンクラス全員がなんとなくそう思っている部分でもあった。


 やがて、前方でぼやっと緑色の光が浮かび上がる。

 一瞬、ドキリとしたクリスティーナとマッフルだったが、すぐにリリーナが周囲の索敵を完了させた合図だったと思い出す。


「少し、早駆けしますわよ。エリエスさんとセロさんはフロウ・プリムで前方を照らしつつ、私たちについてきなさい!」


 クリスティーナが紐で騎竜を手繰ると乗手の意思を理解して、少し足を早める。


 リリーナを一人きりにしていられない、などという高尚な気持ちではない。


 ただ自分たちが不安で仕方ないからリリーナと合流したいという気持ちだったが、生徒たちにはまだそんな気持ちを受け入れる器も、余裕もない。

 そうした気持ちを隠せるだけで精一杯だった。


 ※


「おかぁえりー、であります」

「逆でなくて? とにかく、先行調査、ご苦労ですわ」


 わりと心細かったりするクリスティーナたちを笑うように、呑気に野営の準備を始めているリリーナ。

 既に火を熾し、くつくつと鍋を炊いている。


 それぞれ適当な木々に騎竜を繋げると、火を中心に座る。


「で、どうだった? ヴォルフとか居た?」

「んー、全然であります。というよりこの辺は大丈夫っぽいであります」

「でしたら、休めそうですわね」


 この言葉をクリスティーナたちは『周囲の警戒を終えたから安全だ』と取ったことに首を傾げるリリーナ。

 リリーナは『この森は大丈夫だ』と言ったつもりなのだが、どちらにしても同じだろうと思って、特に追求することはなかった。


 不思議な森だとリリーナは思う。


 もうすでに冒険者たちが作った道はない。

 空は真っ暗で、三日月がゆっくりと雲をかけている。

 垂れた蔓は見ようによっては絞首台の縄のように見えて怖いかもしれない。何かあっても誰も助けに来ず、仲間はここにいる全員だけだ。

 失敗すれば全員の足を引っ張り、すでに救出は困難でなくても時間がかかる位置にいる。


 普通ならこの状況で少しは不安を感じるものだ。


 なのに、どうだろう。状況も、周囲を見ても何も感じない。

 虫の鳴き声が風の吹く音すら安心させるための音楽のように聞こえる。

 苔は岩に張りついて、座るとクッションみたいに柔らかい。

 まるで『父親の膝の上にいるような不思議な安堵感』にリリーナは包まれていた。

 

「採取依頼の目標がどこにあるかわかる?」

「ん~、もうちょい北っぽいであります」


 なんとなく周囲の植生がわかるから不安を感じないのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えながら鍋の中身をグルグルとかき混ぜていた。


「となると所在がわからないのはツィーゲン・シュトライフェンだけですわね」

「ツィーゲン・シュトライフェンって、黒い山羊っぽいヤツであります?」

「そうですわ。毛皮が討伐の証になりますわね。同時に依頼者が欲しいものも同じですわ。確か角が――何かに使われるという話を錬成の授業でやりましたわね。取っておくに越したことはありませんわね」

「角は楽器に、胃石は解毒薬の材料になる。他にも依頼者が欲しがらないものがあるかもしれない。それらは私たちのものにしてもいいから一度、リストの採取依頼品を全員で確認しておくことを提案する」

「んー?」


 リストを地面に置いて、石で固定した後に術式ランプで照らす。

 『悲暮らし草』『アマヨモギ』『串木の樹液』などの採取物をチェックしているエリエスとクリスティーナ、マッフルとは別に、リリーナは遠くを見ていた。


 真っ暗な森の奥、もぞもぞと動く影。

 そいつはあまり人間を恐怖しないのか一定以上、近づかず闇に紛れてしまっている。

 体毛が黒いせいでさらに見分けがつきにくい。


「リリーナさんは何をみてるのですか?」

「んー、ツィーゲン・シュトライフェンは黒い山羊で間違いないでありますよね?」

「だから、そう言っているではありませんの。何度も同じことを聞かないでくださる?」

「角がクリクリみたいにグルグルで、顎ヒゲが赤いであります?」

「しつこいですわね。図書館で調べたのですから間違い――」


 ここでようやくクリスティーナが不審に思う。

 討伐原生生物の特徴を調べるのはクリスティーナとマッフルの役目だ。

 リリーナの役目は採取関連。なのに、ツィーゲン・シュトライフェンの特徴を何度も言い当てている。


「あんな山羊でありますか?」


 指差した向こうで、のっそりと顔を上げる黒山羊の姿があった。

 

 セロもクリスティーナもようやくその姿に気づいて、立ち上がる。


「な――! ここは安全だったのではありませんの!」

「大丈夫でありますよ?」

「今の貴方にどれだけの説得力があるというのですの!」


 警戒せずにのほほんとしているリリーナにしびれを切らしたクリスティーナが【レピンド】を抜き放つ。


「ちょうどいいし、ここで倒して毛皮、持っていこっか」


 マッフルものんびりと立ち上がる。

 クリスティーナの反応もわかるが、相手から殺意や害意のようなものを感じられない。

 気づかれてものんびりと草を食んでいるだけだ。


 【大図書館】で調べた通りだと厄介だが、こうも相手が油断しているのなら一撃で仕留められる自信がある。


「山羊さんはおとなしいのです」

「何を言い出しますの、この子は!?」


 ただ一つの誤算がセロの行動だった。


「山羊さんはおうまさんみたいにこわくないのですっ」

「あ……」


 草を手にツィーゲン・シュトライフェンに近寄るセロ。


 餌付けしようとしたのだろう。

 茂みをかき分けて、ツィーゲン・シュトライフェンの目の前に立つと草をゆっくりと近寄らせる。


 ツィーゲン・シュトライフェンも害意がないとわかり、草に鼻を近づけ、食べられると判断する。

 途端、顔が四つに割れて、血のように真っ赤な口蓋を見せて草を丸かじりしたのだった。


「―――っ!?!?」


 声に出せない悲鳴をあげて腰を落とすセロ。

 慌ててセロを捕まえて、茂みから引っ張り出すクリスティーナ。

 気持ち悪さにやや引きながらマッフルがセロとクリスティーナの前に出て、小盾を構える。


 さすがにツィーゲン・シュトライフェンも騒がしくなった生徒たちに驚き、威嚇するように口蓋を広げていた。


「……うわぁ、えぐぅ」


 細く長い舌らしきものがシュルシュルと音を立てて震えるのを嫌な顔で見るマッフルだった。


 ツィーゲン・シュトライフェン。

 彼らは草食であるが、粗食であるために口に入るものならなんでも噛みつこうとする。

 その奇っ怪で、特殊すぎる口はより多くの食糧を溜めこむためにあるのに、何故かものすごく胃酸が弱い。

 反芻する器官も脆弱であるため、口の中で磨りつぶす器官が発達し、それがあの口なのだと言われている。

 一度、噛みつかれると皮膚や肉をズタズタにされることから『肉屋の山羊』と呼ばれ、また見た目が人畜無害な黒山羊にしか見えないため『偽装の山羊ツィーゲン・シュトライフェン』とも呼ばれている。


 時々、慢心した冒険者が指や腕の一部を持っていかれるのだが――生徒たちはそんな小噺は知りもしない。


「リュー厶・フラムセン。合わせて」

「ほいよっと」


 冷静に術式を編んでいたエリエスが後方から空気圧縮の槍を口蓋に叩き込み、よろけている間にマッフルが剣を突き立てて息の根を止める。


「慢心がすぎますわよセロさん! 相手は原生生物ですのよ!」

「……ひぅっ」


 クリスティーナに抱きついたまま、離れようとしないセロだった。

 よほどツィーゲン・シュトライフェンが怖かったようだ。


 こうしてセロは着々と嫌いな動物を増やしていくのだった。

 もっとも今回は原生生物嫌いだったが。


「リリーナ、解体するから手伝って」

「あいよー、ほいよー、であります」


 もう息をしていないツィーゲン・シュトライフェンを見て、リリーナは思う。


「ん~、こいつも心地良かったんでありますかね?」


 この森が心地良すぎたから害をなす人間の接近を許してしまった。

 それは野生としてあってはならない慢心だ。


 だが、その慢心してもおかしくない空気がこの森にはある。


「何か言った? あ、ロープ持ってたっしょ。足縛って、こっちの枝にかけて」


 手際良く解体の準備に入るマッフルの手伝いをしながら、やはり不思議に思う。


 心地良すぎて『生来、持っていたはずの牙のような衝動が抜けていく』、そんな奇妙な感覚を最近、どこかで味わったことがあるということに。

 しかし、ここまでハッキリと意識していながら、どこでそんな感じを受けたのか思い出せないことにリリーナは不思議を感じていた。


 この日、ヨシュアンクラスは依頼の原生生物を一匹討伐し、夕食には山羊の肉が追加された。

 臭みもあり、独特な硬さの肉ではあったが「硬い、臭い」と騒ぎながら食べる夕食はきっと楽しい時間だったのだろう。


 この先に何があったとしても、間違いなくこの瞬間は楽しめていたのだ。


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