恋の戦略知識を培って
王都に足を踏み入れたレギンヒルトがしたことは、まずランスバール王へ報告だった。
と言っても到着してすぐに直接、報告できたわけではない。
使いの者を出し、事のあらましは伝えてある。
王は計画の発案者にして最高責任者だ。
試練を担当したレギンヒルトには王へと報告する義務がある。
王に訪れる旨を先触れとして出し、目通りが叶った日と時間まで王都の屋敷で待ち、執務室に向かう。
これらの段取りは、他の色々をすっ飛ばしての略式だ。
ただの報告に謁見室を使う必要もないというランスバールの意見も考慮されている。
実際に日数を調整している部分もある。
ここまではいい。
問題はそんな略式でも面倒な段取りをし、約束通り訪れたレギンヒルトが執務室のドアを叩いたにも関わらず、何故かランスバールがいないということだった。
代わりにベルベールが部屋の中央でポツンと立っていた。
「……これは一体、どういうことでしょうか」
相手は王なので突然の用が舞い込んでくることくらい承知の上だ。
だが、ここに訪れるまで何一つ聞かされないなどということはそうそうない。
それほど火急な件が舞い込んだのかと逆に心配になるほどだ。
「申し訳ありませんジークリンデ卿」
複数の最悪のケースを想定しているレギンヒルト。
そんな思考を読みながらベルベールは頭を下げた。
「陛下は今、『暗黒闇皇帝』になるべく準備があります」
レギンヒルトは言われた言葉を吟味して……、意味がわからなかった。
「現在、その対応に追われておりまして少しお待ちいただく形になります。ご容赦ください」
何を言ったのか。
『暗黒闇皇帝』とは何なのか。
いや、そもそも、なろうとしてなれるものなのか。
その前に約束をすっ飛ばすほどの重要な案件なのかどうかも疑わしい。
「陛下の準備が整い次第、お呼びしますのであちらのお部屋でお待ちください」
「……え、えぇ。待たせてもらいます」
理解しきれないが待たねばならないことはわかる。
半ば呆然としていたため素直にベルベールの案内を受け、レギンヒルトは隣の部屋に連れられていった。
そして、すぐにベルベールは執務室に帰ってきた。
「もうよろしいかと」
ベルベールが静かに告げると執務室のイスが大きく傾き、のっそりと偉丈夫が顔を出す。
「ふぅ……。マジ狭いな、これ」
リスリア王国国王ランスバールだ。
彼が何をしているかなんて言わずともわかるだろう。
王城の隠し通路の一つに身を潜めていたのだ。
執務室から寝室、寝室から地下へと降りれる道だ。
そこに隠れてレギンヒルトをやり過ごしたのだ。
何故、やり過ごしたかは、
「ついつい隠れちまった。アレだな。まぁた説教されちまうな。バレなきゃいいか。しかし、こいつは使えるぜベルベール。『悪の王様ごっこ』のアリバイ工作にピッタリじゃね?」
特に意味はないようだ。
あるいは代々の王とて一度も使ったことがない秘密の通路を試してみたかっただけかもしれない。
「少しお待ちを。御髪を整えます」
ランスバールの頭には蜘蛛の巣がぴったりとくっついていた。
見かねたベルベールがハンカチを取り出し、丁寧な所作で巣を取り除いていく。
「以前は裏料理界を乗っ取り、『首領バルバール』として活動しておりましたね。リューミン厨師に活躍させて裏組織の一つを壊滅させた過程は中央劇場を賑わすほどの筋書きでした」
「おうおう。正しい悪の首領ってやつは負けてなんぼだからな!」
豪快に胸を張るランスバール。
王としての仕事をしながら彼は裏に表に、こうした組織を解体、駆逐していた。
なくては困る暗部すらも管理し、時には自らが出演することで有志に組織を解体させてきた。
趣味と実益を兼ねたリスリアの掃除だ。
この四年で三つの組織がそうと知らずに潰されている。
「やりすぎないようにしねーと変な被害も出るからな。健全かつ正しい闇組織の運用も楽じゃねぇよ」
「素晴らしい手腕にございます。具体的にはヨシュアン様にバレた瞬間、燻製焼きの刑でしょう」
「あれな、普通に呼吸できなくて死ぬるぜ。足の裏カピカピになるしよ」
「以前はクライヴ様が助けに来なければ本当に死ぬところでした」
「年々、ひどくなりやがんのよ、あいつはよ。いつか捕まんぞ、王族虐待でよ」
「この場合、ランスバール様が原因なので十分に手回しさせていただきます。もちろんヨシュアン様を無罪にするために」
「お前はどっちの味方だよ!」
「もちろん、両方にございます」
生徒たちが経験しているように、この手のアレには厳しいヨシュアンだった。
実際、法規制と需要の隙間にそうした黒い職種がなければ軋轢を生む。
例えば治安維持。
騎士たちが巡回することで目立った犯罪は防げている。
しかし、目立っていない部分では平然と犯罪、暴行などは起きている。
中には騎士たちの目を掻い潜って『ごくごく普通の人々』が暴力沙汰を引き起こす。
酒場での乱闘、冒険者同士の諍い。痴話喧嘩に決闘まがい。
本来なら騎士が仲裁や制裁を行い、取り締まるべきなのだろうが王都でもどれだけの件数の暴力沙汰、刃傷沙汰が起きているかわかったものではない。
急いで駆けつけた騎士が間に合わないことなどよくある話だ。
それが王都だけでなく村や町となるとカバーしきれるものではない。
自分の身は自分で守るしかない。
そして、身を守るために集団を作ることは当然のことだろう。
自警組織は自然と作られ、過剰な防衛意識はやがて自警の枠を越えて、ただの暴力組織に変わっていく。
しかし、そうした組織がなければ腕力の弱い者が割を食ってしまう。
どうにもならない社会の歪のようなものだ。
ランスバールもこうしたものはよく知っている。
そもそもランスバールとヨシュアン、革命軍を担った者たちも暴政という暴力があったからこそ生まれた面もある。
だからといって行き過ぎた組織を野放しにしてはいけない。
それは人の上に立つ者として看過してはならないバランス取りだ。
「それにしてもアレは最高だっただろ? 厨王十三闘膳! 最後に敗れたオレが瓦礫に飲まれながらも高笑いするところ! 逃げていくリューミンがなぁ、最後にオレに手ぇ伸ばしてくんだよ。うるっと来たぜぇ……。それがお前、義務教育計画に料理人として参加したいっつー手紙出してきたときはなんか笑えたな色んな意味で。運命ってヤツぁ、スパイスが効いてやがるぜ」
楽しそうに語るランスバール。
その裏方だったベルベールはただ聞いているだけだ。
ちなみにベルベールも仮面の厨師として登場していたのは余談だ。
さて、『ヨシュアンと同じように経験から不正を嫌う者』は実のところ、多い。
正義感や暴政への怒りだけではない。
単純に不正が食糧不足の原因の一つを作ったからだ。
もっとも、この人はそうではない。
もっと個人的な事情と周囲の環境のせいだったろう。
「話は聞かせていただきましたランスバール王」
レギンヒルトが扉を開けて、笑顔を見せていた。
見る者の背筋を氷で撫ぜるかのような、底冷えする空気をまとったレギンヒルトだ。
ランスバールも引きつった顔しかできない。
「失礼だとは思いましたが大きな声が聞こえたので」
「お、おう。そんなところに突っ立ってないで入れよ! ま、待たせて悪かったな! はーはははっ!」
一応、ドア前で女性を待たせるつもりはないようだ。
豪快に笑いながらごまかししていたがレギンヒルトのジト目は収まらない。
しかし、以前のように説教はしない。
今は報告の場であり、説教をするべき時ではない。
ましてやその報告が身から出た錆も含まれているとなると怒るのも筋違いのように思える。
「どうだった学園は? ヨシュアンから手紙はもらってんが『覚悟しろ』しか書かれてなかったからなぁ、驚いたぜ」
「ちなみに私ももらっておりますが丁寧かつ優しく、気遣いにあふれたヨシュアン様らしい文面でした。すでに四通目です」
「オレとの差がひでぇな!」
日頃の行いである。
なおレギンヒルトは人形が送られてきた以外、一度も手紙などもらっていない。
手紙の内容も人形を送る経緯を軽く書いてあっただけに過ぎない。
そのことがまた柳眉を少し震わせた。
「義務教育計画が試練官としての報告は書類にまとめておりますが、それ以外にも書類に書けない重要な事を報告しに参りました」
憤りも感じるが今回はちゃんとした仕事だ。
いつぞやのお忍びとは訳が違う。
王である以上、腹が立つから殴るというわけにはいかない。
それができるのは特殊すぎる立ち位置のヨシュアンくらいだ。
「文書にできない出来事なぁ? なんだ、事件か」
「はい」
これより話す出来事はレギンヒルトにとっては身の恥でもある。
しかし、それを包み隠さず話さなければならない。
話ながらもレギンヒルトは思い出す。
かけ違えてきたものとかけ直したもの。
その初まりから。
レギンヒルト・R・ジークリンデはヨシュアン・グラムを好いている。
それを明確に意識した時期は後になるものの今では『恋に落ちた瞬間』にも自覚がある。
清めの森で出会ったあの瞬間。
突然、レギンヒルトの前に現れ、意識を失った青年。
素肌をさらすことに怖さを覚え、その弱々しさに驚き、しかし、何一つとして彼から目を離せなかった。
レギンヒルトからすれば隔離された世界の外から来た青年。
閉ざされた部屋に新鮮な風を呼び込む、竜巻のような存在だった。
ボロボロの様子からレギンヒルトは内紛というものがどういうものかを知り、そして興味を持った。
青年の視点から語られる全てが新鮮で、同時に胸が痛いものだった。
リスリアという国の中で何が起きているか明確に教えてくれる人間でもあったのだ。
もうこの時点でレギンヒルトはヨシュアンに固執していた。
たった一回の出会い、人生においてもほんの少しの時間しか共有しないはずの遠い世界の住人。
いつしかその淡い心は日々の雑多な出来事や責務に押しつぶされて、消えてしまうものだと思われた。
「ほぉん……、そいつはまた面倒だな、おい」
運命は転がる石のようだとレギンヒルトは思う。
誰にも止められない、どこに向かうかわからない。
転がるたびに磨り減って、どんな形で立ち止まるのか何一つ想像できない。
そう、再びヨシュアンに出会えた時もだ。
再会できるとは思わなかった。思ってもいなかった。それは夢で見るだけの実現されることのない再会だった。
神に感謝し、同時に呪った。
何故ならヨシュアンの隣には太陽のように眩しく笑うフィオユトリィ――フィヨがいた。
その時の感情をいつまでもレギンヒルトは覚えている。
嫉妬し、落胆し、悲しくなり、始まってもいないのに終わってしまったことが辛かった。
人生でもっとも暗い気持ちになった瞬間でもあった。
しかし、そのおかげで気づきがあった。
嫉妬の裏返しはいつだって愛情である。
「ベルベール。アレ持ってきてくれ」
全てを説明し終えたと同時にランスバールは眉根を歪めながらベルベールに指示を出す。
語った内容は簡単に二つ。
一つは試練官に渡される資料が何者かによって改竄されていたこと。これはヨシュアンから知らされ、同時に青ざめた内容だ。
ヨシュアンが関わっているのなら生徒たちも優秀だと疑いもしなかった。
ヨシュアンの知識は異質で、奇妙で、有り得べからざるものだ。
学術施設に関してヨシュアンからいくつか書類をもらっているが『どうしてそうなるかの過程が曖昧で結果だけが明白』なのだ。
結果から逆算すればこういう知識になるのではないか、という感想を抱くほどに。
そんな影響を間近で受けた生徒がどうなるかレギンヒルトにも予想がつかない。
その結果が資料を疑いもせずにいたのだから、臍を噛む気持ちだ。
もう一つは魔薬。
レギンヒルトのメイド、プルミエールが何者かに唆され、同時に魔薬を所持していたことだ。
プルミエールが何時、魔薬を手に入れていたのか。
これはもうレギンヒルトでは知りえない情報だ。
こちらもプルミエールの気持ちにちゃんと応えてやれなかったからこそ起きた犠牲でもある。
生命こそ助かったものの、幼児退行してしまったことには指に力がこもる気持ちだ。
レギンヒルトにとってリーングラードへの訪問は苦くもある。
同時にヨシュアンと向かい合う機会を得たという意味では嬉しくもある。
複雑な気持ちと立場なのだ。
心を任意に切り替えられる【戦略級】術式師でも、悔しいものは悔しい、嬉しいものは嬉しいのだ。
「ん~、まぁ。ともあれ従者の件についてだ。こっちからの罰は試練官の業績と帳消しな。せいぜい面倒見てやれとしかいえねぇな」
ベルベールが何故か新調されている本棚から羊皮紙の束を持って、ランスバールに手渡す。
「あの婆さんがいらんことしたせいでほとんど罰らしいもんはねーけどな。一応、けじめだ。あぁ、それとこっちは大騒ぎだったんだぜ? 外交手段がガラリと変わるだろうし、向こうも把握していない事態で罪を着せられて困るだろうな。圧力を緩めるか路線変更せざるをえないだろうなぁ……、無茶苦茶しやがるぜ」
「申し訳ありませんでした」
「婆さんに言えよ。外交案が一部、パァになりましたよってな」
ランスバールも学園長が『事件を帝国のせいにする』とは思わなかったようだ。
学園長から報告された内容に違和感を覚えたランスバールは何かの策略の匂いを感じ、その策を読み取ろうとしていた。
おそらくヨシュアンが失敗したのだろう。
そこまではわかった。
運が良かったのはまだ致命的な失敗ではなかったことだろう。
何を失敗したかまではレギンヒルトの報告を聞くまではわからなかったが、これでランスバールの下に『事件周りの情報が集まっている状態』と言える。
「ま、こっちのほうが面白そうだけどな!」
帝国との外交はおそらくこれまで以上の硬直に持ち込まれるだろう。
この状況にお互いのメリットもデメリットもない。
せいぜい西のハト派と東のタカ派が言い争って適当な位置に収まるだろう。
ヨシュアンの報復から始まった一件も、ここで何かが変わるだろう。
あれ以来、妙にこちらを探る仕草をしていた帝国だが、それも一時的に止まっている。
学園への干渉に関して帝国自身、把握しきれていなかったからだろう。
一時的に止まっているのは各領主に報告を急がせているからだ。
どのように学園へ干渉し、どこまでの人員がいて、どんな方法を使っていたのか。
しかし、調べても『学園の試練に干渉した人員はいない』と報告が上がる。
そうなると帝国内部は疑心暗鬼だ。
どこかの誰かが嘘をついている可能性のほうが高いからだ。
もちろん王国が嘘をついたという可能性にも目を向けるだろう。
しかし、表向きはどうやっても『王国は帝国が悪い』といい、『帝国は王国に干渉した覚えはない』と言い争うことになる。
落としどころは簡単だ。
学園長がしたように王国と帝国、どちらにも属さない第三者を生み出すことだ。
第三者の架空の犯人を作り出せばいい。
少なくとも王国も帝国も同じ落としどころに向けて外交を行っている。
しかし、第三者に法国をすえるわけにもいかない。
ここで法国まで巻きこむと余計に事態が複雑化し、落としどころまでの距離が遠ざかる。
事件解決までの時間がかかりすぎるのだ。
時間は欲しいが時間が惜しい。
王国は貴族院の相手を、帝国は法国や内部の派閥相手で忙しい。
ここで時間を使いすぎるとお互いにデメリットが生じる。
そうなると有耶無耶にしようと軍事行動を起こしたり、敵に決定的な隙を作ってしまうかもしれない。
「つーかな。ある意味、この硬直もいい機会だったんじゃねぇか?」
レギンヒルトが首を傾げる。
ランスバールが開いた羊皮紙。
それをレギンヒルトにも見せた。
羊皮紙の内容を読むたびにレギンヒルトの柳眉が少しずつ歪んでいく。
「これは……、建国祭で帝王を暗殺!」
「しようとしたヤツがいたって話だな」
心底、面白そうな顔のランスバール。
滞在一ヶ月、移動含めたった三ヶ月でこれほど事態が動くものかとレギンヒルトは思わずにはいられない。
「というより本気じゃなかったっぽいな。嫌がらせ目的だよ、そいつは」
「嫌がらせ目的……、これがですか? 重大な事件ではありませんか」
「ん、まぁな。一応言っておくが別に王国側がなんかしようとしてたわけじゃねぇぞ? 帝国側で勝手に起きたんだってよ。それをウチの猫どもが拾ってきた」
【とびだせ! 黒猫にゃんにゃん隊】の帝国調査隊が持って帰ってきた正確な情報だ。
建国祭に乗じて、複数の暴漢が帝王を殺そうとしたらしい。
暴漢たちは【キルヒア・ライン】によって殺され、帝王は無事だった。
その後、相手の協力者らしき組織や施設の強襲してみたところ、もぬけの殻だったという内容だ。
問題はその暴漢が『法で規制している魔薬を服用していた』ことだった。
魔薬。
レギンヒルトの従者もまた魔薬を使っていた。
何か繋がりを疑うには十分な内容だ。
だが何よりも厄介なのはこれらの情報を他人が聞けば、真っ先にレギンヒルトを疑うということだ。
疑われてしまうと身の証明をしなければならない。
少なくともレギンヒルトにはその義務がある。
「あんまりにも逃げんのが早すぎんだろ? 【キルヒア・ライン】の組織力はやべーからな。魔獣も真っ青になるような追いかけ、追い立て、首に縄かけ、ひきずりまわしやがるぜ。取り逃がすなんつーのは考えにくいだろ。いくら犯罪組織か反帝王派の仕業にしたって、どっちにしても同じだ。なのにその資料に書かれているとおり『現場の犯人しか皆殺し』にされてねー。背後まで追いきれなかったんだよ。大体、一撃当てて離脱なんつーのはな、威力偵察か嫌がらせかのどっちかしかねーんだよ。本隊は背徳の街で一杯やりながらHI-HA-って両手叩いてやがるぜ?」
ランスバールは疑っていない。
レギンヒルトを疑い、この件を調べさせるという手もあるがソレは『レギンヒルトの使い方』とは違う。
なのであえて触れないし、調べさせるつもりもない。
そもそもレギンヒルトが一枚噛んでいるようには思えない。
「だから嫌がらせですか?」
「それか『実験のつもり』だった、だろうなぁ。んで、その組織がな、資料の続きだ」
今度はベルベールから資料をもらうレギンヒルト。
その羊皮紙は通常の資料に比べて文量はなく、代わりに一つの紋章らしきものが描かれていた。
レギンヒルトにはその紋章のバケモノに見覚えがあった。
枯れ枝のような六つの足にずんぐりとした体格を持った、牙のある異形の生き物。
かつて多くの神々を食らったと言われる神殺しの生物。暴食の化身。ウロコのない白濁の暴竜。
【神話級】の魔獣ファーヴニール。
古き言葉で『嵐を裂く者』。
滅びた聖槍【北風のヤドリギ】に大陸の一部ごと縫いつけられ、二本の聖剣【樫の乙女】と【アルブリヒテン】によって六肢を切断されてもなお肥大化し、王国と帝国、二つの宝珠によってようやく動きを止めた最悪の魔獣である。
それでもなお生きていたそうだ。
トドメを刺すためにはさらなる苦労があったとされている。
伝説の二竜トリシュラとプームプームの同時攻撃にも耐え、六神のうち三神が喰らわれ、最後は天上大陸よりの落し物によって新たに作られた【泡凪】【泡沫】によって心の臓を切り裂かれ、大陸ごと沈んだとされている。
教会においては最悪の大敵とされた、強烈にして苛烈な魔獣神。
多くの信徒が知る有名な魔獣だろう。
「【嵐のファーヴニール】。悪神の紋章を象るだなんて……」
「ここからはアレだな。ヨシュアンにゃぁ聞かせらんねぇ話だ。この紋章な、実は結構、前から知ってたんだよ。内紛の時の話なんだがな、コイツと繋がりがあった先代【タクティクス・ブロンド】がいやがったんだよ。それも二人な」
ランスバールも何か思うことでもあるのか、一度だけ窓の向こう側を見る。
格子が挟まっている頑丈そうな窓にレギンヒルトは首をかしげた。
以前の執務室はあんな物々しい窓だったのか。
とはいえ、どうでも良いことなので見なかったことにするレギンヒルトだった。
「とりあえず長話になるから座れ」
ソファーに勧められ、レギンヒルトは小さく首を動かして是とした。
そのまま足を揃えてソファーに座った。
ランスバールは豪快に対面に座るのを見ると、まるで正反対と言えるだろう。
「【嘲笑う緑石】ヘイカー・ランペルドーと【狂える赤鉄】アルベルタ・サヴァルシュバルツ。こいつら、この魔獣の紋章を持った奴らと関わっていたらしい。資料だと【嘲笑う緑石】は魔獣の生体素材を、【狂える赤鉄】はなんつーんだろうな、体液やら何やらを研究していたっぽいな。【嘲笑う緑石】はわかりやすいだろ。聞いたことねぇか? 【嘲笑う緑石】が内紛で使っていたキメラ。そいつの素材は魔獣だっつー話」
「いえ、私は彼とは面識がありません。その内容もまた知らされておりませんでした」
「あー、そうだっけか? まぁ、こっちはヨシュアンのほうが詳しいか。なんせトドメを刺したのはあいつだしな。【狂える赤鉄】のほうは知らねぇだろ。こっちも知ったのはつい最近だ。ヤツの施設を洗ったら日記みてぇな形で残ってやがった」
どうやら【狂える赤鉄】は一時期、その組織と蜜月にあったようだ。
魔獣から魔薬を生み出し、組織は魔獣の生態を知る。
お互いにメリットがあったようだが【狂える赤鉄】に裏切られて半壊したようだ。
「そのようなことが……。まさか生きているなんて話は?」
「ねぇな。確実に死んでる。オレも確認してるしな。それよりヨシュアンには給料前の財布みてーに固く閉じてろよ、特にアルベルタにゃ過剰反応しやがるからな。下手すりゃ拷問じみたやり方で財布をこじ開けてきやがる。お前も注意しとけ。言ったら意固地になるぞ」
「それはきっとランスバール様だけでしょうが、わかりました。ですが、この組織は何故、生命の敵である魔獣などを」
「んー、信仰してんじゃね? 神様みてーに見えてねぇわけじゃねぇし、目の前に巨大ななんかがわかりやすく居たら信じたくなるだろ。別にでっかい組織ってわけじゃねぇよ。細々としててな、今でも未開拓地域なんかにゃ、魔獣を神として崇めてるところはあるしな」
魔獣信仰は元々、自然信仰でもある。
自然と寄り添いあって生きるとどうしても自然の中から信仰の対象を選び取る。
それは雷であったり、風であったり、森の暗がりであったり色々だ。
概ね自然の恵みに対する感情なのだろう。
そして、魔獣のような危険生物を信仰の対象にすることは珍しい話ではない。
森の狼、肉食の鳥、獰猛な竜種や沼の水棲生物、そうした人知の及ばない生き物にも人は恐怖を投影し、庇護を求めようとする。
その庇護は与えられるものではなく奪われるもの。
選ばれないこともまた、恵みなのだ。
「帝王暗殺未遂の暴徒な、未開拓地域のヤツらや帝王に反感のあるヤツを適当に集めた感がねぇか? 基本が土着だしな。探そうと思えば結構、簡単に手繰っていけるんじゃねぇか? もっと面倒なのは『そういうヤツらを知って集めた誰か』だろうよ。魔薬にしてもヤツらが持ってんのは素材だけだしな。それを加工する技術を持つ誰かがいたとオレは思っている。んでもってなぁ、レギンヒルト」
もっとも信仰された対象は人の気持ちなど汲み取らないだろう。
擬似的な共生関係こそ築けても、魔獣は人を殺す。そういうものだ。
子供の頃から神々の教えを信じているレギンヒルトからすれば、魔獣を信仰するなんて信じられないことだ。
「たぶん、ソイツはこっちにちょっかい出してくんぞ? むしろリスリアが本命だろ。なんつーか勘でしかねぇし、そんな情報もねぇがな。帝国に手ぇ出してきたってーわりにこっちはずいぶん手が込んでやがるところを見るとリーングラードあたりになんかあんじゃねぇのか?」
「ではヨシュアンに」
「だから、あいつに言ったら血眼になんだろ。あいつはあいつで仕事があんだ。ガキ育ててんのも立派な仕事だ。メルサラに言うのもダメだな。ノリ良すぎてクチが軽い。一応、ベルベールがボカした情報を送んだろうよ。そんだけであいつならなんとかしやがる」
内紛時においてもヨシュアンは曖昧な指示に対して、できる最大限の成果を目指していた。
ランスバールからすればこれでも十分な情報を送っている……、つもりだ。
もちろんランスバールの情報では足りないのでベルベールが影に日向に最大限の情報を送っている。
しかし、今回はヨシュアンにとってもデリケートな問題が含まれている。
できることは『おそらく起こるであろう戦闘への支援』くらいだろう。
早速、源素結晶をどれくらい送れるか計算するベルベールだった。
「こっちもせいぜい気をつけろ程度しか言えねぇんだよ」
「では何故、私にこの情報を?」
「リーングラード以外にも活動するかもしれねぇだろ。やられたら困る箇所はあちこちにありやがる。もしかしたら、どこぞの領地の防衛に出てもらうかもしれねーからだろ」
ランスバールの信頼とも投げやりにも似た、ざっくりとした言葉を聞きレギンヒルトは悩む。
魔獣信仰の組織はプルミエールに魔薬を与えた組織かもしれない。
そう考えるとじっとしてはいられないが、だからといって王の意向に逆らうわけにもいかない。
少なくともレギンヒルトには異を唱えられる立場にない。
積極的に出るような能力でもなく、そんな立場でもない。
あくまで防性であってそれ以上は望まれていない。
ならばレギンヒルトは他に何かできることはないのか、を考える。
これだけの問題ではない。
王都から何かヨシュアンの助けになるようなことは――そこまで考えて、ようやく気づく。
「(結局、私はヨシュアンのためにできることがないのですね……)」
貴族院の悪巧みすら掴めず、いざ試練官になってみたらプルミエールの件や資料改竄の件で足を引っ張ったような形になり、力にもなれなかった。
すでに『見えない誰かの策に加担してしまっている』のだ。
迷惑しかかけていないことに気づいて、静かに落ちこむレギンヒルトだった。
そして、そんな心の声を聞いたベルベールは、聞こえないほど小さなため息をついた。
「(ヨシュアン様にとって女性は『役に立って欲しいもの』ではありません。寄り添い、迎えて欲しいものなのですが……、まだ気づいていないようですね)」
レギンヒルトは幼い頃から自らの価値を教えこまれている。
次代の【タクティクス・ブロンド】として、美しく咲く華として、そして、いざとなったら有力領主の篭絡のため。
その全て、誰かの為に在るものだ。
だから無意識にレギンヒルトもそう在ろうとする。
求める理由を求めすぎているのだ。
ヨシュアンの心を知りたがったのは心の距離が遠いからという理由もあるのだろうが、もっとも核心に迫る理由に『ヨシュアンの求め』を知りたがったことだろう。
しかし、『ヨシュアンの求め』は途切れてしまっている。
女性を本気で求めていない。
それはレギンヒルトを求めていないのと同じ意味だ。
だから女性から求められると、まずは断ってしまう。
ありとあらゆる理屈をこねあげて断るのだ。
しかし、今は前向きに努力しているようなのでヨシュアンから求めた場合はその限りではないのだろう。
となるとヨシュアンを攻略するにはどうしたらいいか。
求めさせるしかない。
ヨシュアンに対して明確に『受け入れる』と言わせなければならない。
そのための手段を行使しなければならない。
「(もともとレギンヒルト様は求められることに慣れすぎています。求めさせたり、求めていくことになると途端に恋愛下手になります。術式師として攻性が苦手だからこそ、こうした面もまた攻性が苦手なのでしょうね)」
そうした恋のストラテジーが組めるほどレギンヒルトは攻撃的ではない。
愛情や恋慕、そうした気持ちは間違いなく本物だ。
しかし、心の中を読む限り、レギンヒルトは頑張っていたようだが空回りがひどかったように見受けられる。
いざとなったらヨシュアンのために生命すら捨てるくらいの気持ちがあるのに歯車が噛み合っていない。
それがベルベールが抱いた印象だった。
「(もっともそうである、と伝えてしまったら最後でしょうが)」
ヨシュアンは全力でレギンヒルトを遠ざけるだろう。
失くしたくないから遠ざけてしまう。
「(しかし、レギンヒルト様が純粋な好意で動いているのも事実です。ヨシュアン様のお相手となる資格――最低条件を満たしている数少ない一人でもあります。ここで脱落されてしまうのも少し惜しく思えます)」
ベルベールにとってヨシュアンは大事な人だ。
純粋に幸せになって欲しい人であり、喜んでもらいたい人だ。
フィヨを失った胸の穴は恋愛では埋まらないが、恋愛が不必要というわけでもない。
「(ここは一つ、何か献策を……、と言いたいところですが今のレギンヒルト様を焚きつけたところでまた空回りするだけでしょう。そうなるとヨシュアン様にも悪影響を及ぼします。レギンヒルト様の恋を愛にまで成長させる方法は……)」
もっとも成長を促す方法は誰かと恋愛することなのだが、擬似恋愛などもっての他だ。
そうするとレギンヒルトはますます混迷し始めるだろう。
それ以上にヨシュアン以外を異性として見ていない。
つまりレギンヒルトを成長させようと思うのなら『恋愛のいろはを教えられる男女の機微に聡い相談者』が必要で、その相談者は『ヨシュアンとレギンヒルト両方に詳しい人物』であり、なおかつ『相談者とレギンヒルトが双方とも恋愛対象になりえない』ことが条件に挙げられる。
そこまで考え、うってつけの人物がいることに気づきベルベールが窓の外に向けて小さなサインを送る。
ランスバールを守るために配置された【とびだせ! 黒猫にゃんにゃん隊】に送るサインだ。
言語に匹敵する数のハンドサインを駆使し、命令を送る。
遠く、本城から離れた尖塔の窓から執務室を眺めていたノノは格子窓に近づくベルベールの姿に気づき、だらけた姿勢から瞬時に臨戦態勢に入る。
「何か面白いことが起きたみたいッスね……、どれどれ」
まさかの緊急サインに驚きながらも格子窓を注視する。
一言、時には名詞で送られるハンドサインを脳内で組み合わせていくに連れてノノの表情は困惑する。
『ソコカラ マエニサンポ アルキナサイ』
「ものすごく簡単な命令に見えて、ただの意地悪ッスよね?」
『ジョーダン デス』
「ブラックでハタ迷惑な冗談ッスね……」
ベルベールの冗談はとにかく心臓に悪く、黒いものが多い。
たまにしか行われないのが幸いではあるが、この一言でもわかることは多い。
緊急なのに冗談をはさんできたということは、時間はあるが急いで取り掛かって欲しいという意思表示だ。
他にも会話じみたハンドサインから、緊急性はないことが伺える。
しかし同時に必ずやらねばならないという意味も込められている。
こうした複雑な裏向きを込めているのなら国王絡みではない。
個人的なお願いなのだろう。
しかも個人的でも最上級の類だ。
「……失敗すると何をされるかわからないッスね」
そういう意味では緊急よりもストレスの溜まるサインだったと言える。
ついでに冗談にもストレスが溜まる。
指示のハンドサインを受け取って、首を傾げる。
「はぁ? まぁ、命令ならやるッスけど……、何の意味があるんスかね?」
ベルベールのサインはおおよそ何に必要とされるのかわからない。
元老院派と中立派の有名人を引き合わせて、どうするのか。
しかし、疑問もそこそこにノノは立ち上がる。
【とびだせ! 黒猫にゃんにゃん隊】の仕事は疑問を挟むことではない。
速やかに、確実に遂行することだ。
「つっても、簡単なんスけどね」
思った以上に簡単な指示に口笛でも吹きたい気持ちで部屋を抜け出す。
【とびだせ! 黒猫にゃんにゃん隊】は一律給料ではあるが、こうした緊急指令にはその都度、ボーナスが出る。
失敗すれば生命が危ないことを考えるとハイリスクなのか当然なのか、判断に分かれるだろう。
「前から欲しいワンピがあったんスよね」
階段を降りながら、ノノは楽観していた。
しかし、わざわざノノに緊急の指示が送られるという意味には彼女は気づかなかった。
そのせいで色々と苦労することになるのだが、それは少し先の話だ。
「――素直にオレを崇めてりゃぁいいもんをなぁ? ん? あれ? オレの話聞かれてね? おーい、わりと重要な国防について語っちゃってんだけど聞いてる?」
レギンヒルトはヨシュアンのために何もできないと落ち込み、ベルベールは緊急サインを送っていたために黙っていた女性陣にランスバールは首を傾げるのだった。
「私に何かできることはありませんか?」
すでに賛成派になることは伝えてある。
しかし、もうリーングラードに出向くことはできない。
外交は元々、レギンヒルトの領域ではないので手が出せない。
なら得意な広告塔としての仕事をしたい。
何かしていないとさらに深く考え込んでしまいそうなのだろう。
「あ? あー……、ねぇな」
「そうですか……」
ランスバールの何気ない言葉に、肩を落とすレギンヒルト。
「いや、学術施設作るってぇ約束をヨシュアンとしたんだろ。そっちに専念しろよ。結構、面白い案だと思うぜ? 学園に技術提供して、学園からは就職先の斡旋にしたらよ、ちゃんと学んだ人材も集まるし、お前んとこの領も人が集まるだろ。なんだっけか、ジークリンデ領の名物って」
「絹です。ジークリンデ領南東部に養蚕場と機織り町があります」
疑問に答えたのはベルベールだった。
すでに窓から離れ、ランスバールの隣といういつもの定位置についている。
「おぉ、そうそう。それ以外だと薔薇の種とか作ってたんだっけか?」
「荘園造りに最適な品種と荘園職人がいます。王城の建築家がジークリンデ領より輩出した他にも建築、芸術、詩吟が盛んで西部と北部との経済交流点でもあり、豊かで安定した領です」
「芸術の町で学術施設か……、似合ってんのか似合ってねぇのか。引きこもり繋がりでアリっちゃぁアリだな。無駄にもならねぇみたいだしな」
ランスバールは学術施設に関して前向きな姿勢を見せていたが、当のレギンヒルトは諦めていた。
ヨシュアンのためにできることがない、そのことが必要とされていないみたいに思えて胸が苦しいのだ。
「ま、ともあれゴクローさん。なんかあったら呼ぶから領地に帰ってていいぞ」
「わかりました。後でベルベールをお借りしてよろしいですか?」
「ん?」
ランスバールがベルベールを見ると、小さく頷いた。
どうやら何事かの相談でもあるのかと見たランスバールはそこまで深く考えずに、
「ま、ほどほどにやれよ」
簡単に許可を出した。
「それでは失礼します」
レギンヒルトがドアを開けて、丁寧な所作で出ていくのを眺め、遠ざかる音を聞くランスバール。
表向きの仮面を外して、どっかりとソファーにもたれ込む。
「はぁ~あ。妙におとなしいな。話聞く限りだとヨシュアンとうまくいったんじゃねーの?」
「どうでしょうか。最初の一歩をようやく踏み出せたのではないかと」
「人より七年くれー遅れてんのな」
「そうですね。七年ぶり……いえ、六年ぶりに動き始めたのではないのでしょうか」
「青春を取り戻せってか? なんか手助けしてやんのなら行ってもいいぜ」
「いいえ。それには及びません。具体的には外交の改正案が差し迫っているので当人同士で頑張ってもらう予定です」
ベルベールが暗躍して、場を整え、ヨシュアンとレギンヒルトをくっつけても仕方がないのだ。
あくまで当人の気持ちで動き、決着をつけなければならない。
周囲の手助けがあるヨシュアンよりもレギンヒルトのほうが分が悪いので、ほんの少しテコ入れしただけに過ぎない。
それもほんの少しだ。
それで気づかないようなら脱落してしまっても良いのだ。
「ヨシュアン様もランスバール様も両方、お助けしてこそベルベールです」
それがベルベールの矜持であり、望みでもあり、そして在り方でもあった。
廊下を歩くレギンヒルトは小さくため息をつく。
その光景にすれ違った侍女や貴族は憧れのため息をつき始め、廊下に酸素が足りてないのではないかと疑ってしまう。
「(どうしたらいいのでしょうか?)」
王への報告が終わったら今度は元老院に書類と口頭説明、それから貴族院に向かい書類を提出だ。
まだまだやることは多いが、ヨシュアンとの関係は何も変わっていないと言える。
確かに前進したかもしれないが、はたして前進と呼んでいいのかすらわからない。
かけ違えたボタンを直しただけだ。
ここからは死んでしまったフィヨのことを慮りながら、二人でちょっとずつ進んでいくしかない。
なのにここに来て、やはりヨシュアンが何を考えているのかわからない。
一年間でヨシュアンに恋人ができなければレギンヒルトの気持ちを受け入れると約束したのは確かだ。
確実な方法だったと思う。
しかし、確実だと理解していてもレギンヒルトは不安だ。
ようするにレギンヒルトは『余り物でいい』とヨシュアンに告げたも同じことだ。
何時、どこで何かが起きて、あっさり転覆するような船に乗って不安にならないわけがない。
明日にはもうヨシュアンに恋人ができていてもおかしくない。
少なくても女性二名が好意を抱いていると判断している。
そのうえレギンヒルトにはもうチャンスがないのだ。
今までは前向きな感じでごまかしていたのが、様々な情勢の変化、そしてそこにレギンヒルトが影響させてしまったという念から、心が憂いていく。
いっそヨシュアンを食べてしまえば……、と考えてその思考は檻に閉じ込め、深く沈める。
その思考は社会と相容れない衝動だ。
恐ろしい魔獣のような心をどうにかして理性の檻で閉じ込めなければ、いつかヨシュアンを殺してしまうだろう。
「(それだけは嫌です)」
もっとも怖いのは、その思考に一切の忌避感がないことだ。
まるで明日は魚が食べたいなぁ、という気軽な気持ちで浮かび上がってくるのだ。
「(でもそれが一番、心地いいとわかって、だから)」
愛しいと求めるがあまり一心同体を求め、その究極である食人にたどり着く。
そこまでの思考に一切のブレーキがかからない。
彼女が力の代償として欠けた精神性はいつだって彼女の裏側でボソボソと問いかけるのだ。
好きな人を奪われていいのか?
奪われて正気でいられるのか?
奪われないように食べて/食べられてしまえばいいじゃないか、と。
だけど表のレギンヒルトはいつだってそれを押しとどめている。
ヨシュアンが幸せなら良いことだ。
奪われるのではない、選ばれているのだ。
ヨシュアンの選びは当然の権利であって私が縛っていいものではない、と。
これはもう六年ほど付き合ってきた衝動だ。
収め方も十分に理解している。
最初はわからず、理解もできず、ついには助けに来たヨシュアンを食べようとしたこともあったが、周囲の反応から『やってはいけないこと』だと理解し、抑制に努めている。
高い精神抑制技術が衝動を抑えているので今のところ、ヨシュアンにもバレていないと思っていた。
「……ふぅ」
衝動を抑えきってから、再び歩き始める。
他人から見れば、少し立ち止まってため息をついたようにしか見えないだろう。
「(これがバレてしまえばヨシュアンに嫌われるのでしょうね……)」
もっともレギンヒルトは誤解している。
当のヨシュアンはそのことを知っていて、レギンヒルトの感情が高まった時は何時でも抑えこめるように戦闘態勢にいる。
ある意味、一番の理解者でもあった。
「あんらー、急に立ち止まったりなんかして気分でも悪いの?」
野太い裏声をかけられて、ギョッとしてしまうレギンヒルト。
目の前には奇抜な人間がいた。
短髪に後ろ髪だけ伸ばした、どこの世界のスタンダートかと疑うような変な髪型。
形はおろか髪色まで頂点で青と赤で真っ二つに分かれている。明らかにおかしい。
さらに服装に至っては何を目指しているのかわからない。
まるで騎士が着るような鎖帷子のように荒いメッシュが入った絹の服。
革のズボンはピチピチで男独特の細いヒップラインがハッキリとわかる。
そのくせ足元は女性用のヒールなのだ。
長身なのに、さらに身体を高くしてどうするのかとレギンヒルトでも思う。
「心配だわぁ。大丈夫? 医務室は遠いから来てもらおうかしらん」
「え……えぇ、少し考え事をしていただけです。大丈夫です。心配をおかけしました……、エドウィン・フンディング」
そんな奇抜な男……、存在に上から屈められて下から顔を見られると、驚く以外の行動が取れなくなってしまう。
「イヤだわぁ! 同じ【タクティクス・ブロンド】じゃないの。それに女同士なんだから気軽にエドって呼んでくれてもいいのよ?」
エドウィン・フンディング。
なんというか、レギンヒルトとは対極の存在だ。
規律や規則などを重んじる彼女から見て、自由に振舞うエドウィンはどう接していいかわからない相手でもある。
あまり面識はないが、ヨシュアンとは友好関係を築けているという話くらいは聞いている。
そう、あの頑なで気難しいヨシュアンが唯一、貴族でも心を許し友と呼んでいる存在だ。
一体、どのようにしてヨシュアンの心の扉を開いたのか。
その手腕と性格に、軽い嫉妬すら浮かぶ。
「ん~……?」
「だから、もう大丈夫ですのでそこを……」
「もしかして恋のお悩み中だったかしら?」
ズバリ心の中を当てられて、再びギョッとする。
もちろん表には一切、出していないが驚愕は収まらない。
「そんな顔をしてたらわかるわよぅ。不思議そうな顔しなくてもいいのよ」
うっすらと笑みを浮かべていただけなのに、何故か理解されてしまう。
何かの魔獣かと疑うレギンヒルトだった。
逃げたいとも思うが、ここで逃げるのも変だ。しかし、答えを返さないともっと変だ。
こんな人目のつく場所でレギンヒルトがエドウィンにまごついていたら、何を思われるかわからない。
早急にどうにかして切り抜けないといけない。
「まぁまぁ、そんなに慌てる必要なんてないんじゃない? 聞けばあの計画の試練官としてリーングラードまで行ってきたんでしょ。報告だって日を改めなきゃいけないんだから、用事だってないでしょ。すこし、そこの部屋でお話しましょう?」
「申し出はありがたいのですが……」
「遠慮しなくていいじゃなぁい。悩んでいるのなら一緒に悩みましょ。それがいいわ。そしたらちょっとは気持ちだって楽になるんだから」
しかし、逃げる間もなくあれよあれよと部屋の中に連れて行かれてしまった。
これが普通の男なら大問題に発展するところだが、運がいいのか悪いのか相手はエドウィン・フンディング。
エドウィンが女性を連れ込んでも誰も気にしない。
むしろ男を連れ込むことのほうが大問題に発展する。
主に男の心の方にだ。
「それじゃ、お話しましょ。そういえばこうして同じテーブルに座ることなんて滅多にないわよね。うん、親善会で女子会っていうのもいいかもね」
いつの間にか居たヴェーア種のメイドがお茶を淹れ、二人に振舞う。
この状況をセッティングしたノノだ。
レギンヒルトは混乱していたのでそうとは気づかなかったが、ここまでの流れは全てベルベールが仕込んだことだ。
「(さって。あのメイドちゃんがわざわざ『レギンちゃんとの会談』を設定するんだから、何かあるんでしょうけど……、少し違うっぽいわよねぇ)」
一方、レギンヒルトの拉致に成功したエドウィンは、この状況が今、リスリアが置かれているアレコレと関係がないというところまで直感で理解していた。
「(単純に元気づけてあげたかっただけ、かしらね?)」
メイドのノノに『全部、わかっている』とウィンクする。
するとノノは足元から頭のてっぺんまでイモムシが這い上がってきたような気持ちを味わう。
「(怖ッ!? ていうか怖いッス!?)」
ヴェーア種の本能がガンガンとアラームを鳴らしているが、根性で耐える。
この結末を見届けてようやく指令の達成だ。
それまでは普通のメイドとして二人のお茶くみに務めなければならない。
「(ひ~んッ! やっぱ姐さんはドSッスわ!)」
簡単な指令だったはずがいつの間にか耐久レースに変わっていたことを、今、ようやく理解したノノであった。
「んじゃぁ、はい、どうぞ」
「……どうぞと言われましても」
「そうね。ならレギンちゃんの好きな人を当ててあげましょうか」
ん~、と、指先をピンと伸ばしてグルグルと宙をかき回すわざとらしいポーズをしたあと、
「ヨシュアンじゃないかしら?」
またズバリと当てられてしまったのだ。
レギンヒルトもさすがにおかしいと思い始めた。
なぜならば『レギンヒルトがヨシュアンを好きだと知っている人間』は数少ない。
婚約者事件まで起こして『ヨシュアンに被害が向かないように』と仕組んだにも関わらず、エドウィンが知っているのはおかしい。
リーングラードでは明言したのは威嚇と『最低でも約束を取り付けられる』という確信があったからだ。
ヨシュアンに打ち明ける前の日、夜の貴賓館でリィティカと会わなければ最後まで黙っている予定だった。
もしも、ヨシュアンがリィティカを好いていなければ。
学術施設の建設を聞かなければ。
レギンヒルトはそこまで確信できなかったろう。
それにこの行動は突発的で、いくらリーングラードから情報が漏れたにしては知るのが早すぎる。
「そんなに睨まなくても簡単な話よ。だってヨシュアンと話すときはいつも周囲を気にしてるじゃない? 他にもヨシュアンの家に七日も泊まったって話だってそうよね。意識がなければそんなことしないじゃないの。それに目。ヨシュアンを見ているレギンちゃんはもうウルウルしていて恋する乙女そのものじゃない」
疑問が氷解して、レギンヒルトは肩から力を抜いた。
なんてことはない。
復元の術式を教えにヨシュアンの店に泊まったことを本人から聞いたのだ。
それから怪しいと踏んでいたのだろう。
そうなるともう最初からバレバレだったようで警戒していたのが、情けないやら恥ずかしいやら、言い難い気持ちが湧いてくる。
「と・な・る・と~……、試練官になったのってもしかして愛しのヨシュアンに会いにいくためかしら! きゃ~!」
「はい。でもそれだけでなく、純粋な興味もありました」
「興味? もしかしてヨシュアンが教師をやってること? あぁ、でもどんな授業内容かも興味があるわねぇ。ヨシュアンのことだからきっと授業にないことも教えてそうよねぇ。なんだかんだで博識だもの。でも短気だからずっと怒っていそうな気もするわねぇ。で、どんな感じだったの? どこまで進んだの? キスくらいはいけたわよね?」
結局、エドウィンの話術に押されるように細かい部分まで話してしまうレギンヒルトだった。
相槌を打ちながら、時には驚き、時には促し、全体的に同意してくれるエドウィンはとても良い聞き手であった。
こうした聞き上手だからこそヨシュアンの心の扉を開けたのだと考えると、真似できそうにないと思うレギンヒルトだった。
考えてみればヨシュアンとの会話も仕事の話が多く、好き嫌いや趣味嗜好の話に入るのも受身だったことに気づく。
エドウィンの会話を促す能力が羨ましく感じながらも『こうしておけば良かったのか』と勉強になる会話でもあった。
思えばフィヨも頷きながらもレギンヒルトの話を促していたような記憶が蘇る。
「う~ん、そうねぇ。その話を聞いていると良かった面もあったけどもう少しなんとかなったんじゃないかしら? なんて思っちゃうのよねぇ。だって最初は良かったと思うのよ。ストレートに想いを伝えていたし、そのあとも強引だったけどそうでもしないとヨシュアンは絶対、うまく動いてくれないでしょ? だからイケイケで良かったんだけど、ちょっと周囲に対してうまく働きかけられなかったんじゃないかしら。その辺はレギンちゃんも考えていたんだけど、やっぱり授業を途中で止めたのはダメね。ここはボカして興味を引いて改めて二人っきりじゃないと。でもその結果でヨシュアンが生徒に肩入れしてることに気づけたのは良かったかもしれないわね。そのあとちゃんと生徒たちに気を使っていたものね」
「興味を引くと、どうなるのですか?」
「悲劇でもよくあるけれど逢えない時間って、やっぱり色々と考えちゃうじゃない。で、興味を持つってことはその人の何かをちょっと考えちゃうのよ。関係やどう接したらいいかなんて。特に男の人は一度、聞いてしばらくしてから答えを出したりしてない? 即答しないのよ。しても『貴女に任せる』なんてそれっぽいことを言うのよ。それか薄い感じで曖昧というか。興味を持たせて答えを出させるまでの時間がいるのよ。まだポンポンと話し合える関係じゃないんでしょ? まだまだなんだから考えさせないと」
「考えてくれていると思いますか? ヨシュアンは体調や気分に関してはよく気づいてくれますけど、あまり私の欲しい言葉なんかはあまり言ってくれなくて」
「プライドってものがあるのよ。どんなに女性を大きく気遣ってくれる男でも『女性の上にいてたい』ってね。まずはね、わかってあげなきゃいけないのよ。理解し合うよりも先に理解して、うまくリードさせてあげないと。リーングラードでもなんだかヨシュアンと上手く行かなくて、ちゃんと言うことも聞いてくれないのは貴女がちゃんとヨシュアンのどこを貴女の上に立ちたかったか、何に尊重して欲しかったか気づかなきゃダメだったんじゃないかしら? 最後はちゃんと話し合いをして、お互いのダメなところや良いところ、勘違いしていたことを確かめあえたんでしょ? そこが一歩目ね」
対等の友人関係が少ないレギンヒルトにとってはエドウィンとの会話は勉強でもあった。
「あ~ん、でも。最後の最後。やきもきして人間関係を口にしちゃったところは減点。男は仕事関係を気にする生き物だから、絶対に人間関係にケチをつけちゃダメよ。本当にダメな関係だったら『貴方をダメにする関係だから、ちゃんと決着をつけて距離を取らなきゃ』って言葉にしてわかってもらうこと」
思い返したら、色々とダメな部分がエドウィンの手によって浮き彫りになっていく。
自分なりに気にしていたつもりでも深くつっこんで『これからのことへの予想』が足りていなかった。
「そうなると相当、ヨシュアンに苦労させていたのですか?」
「恋ってね。二人だけのものじゃなくって周囲の人間関係だって関わってくるんだから、そこにも気を使わなきゃね」
そんなことを聞くとすぐに謝るための手紙を書いたほうがいいのではないかと、気が気でなくなる。
「でも取られると思うと気が気でなくなります。ヨシュアンはいつもいつも誰か他の女性が近くに居て、そのくせ自分のことは棚上げで、でも話はずっと黙って聞いてますしわかってくれているのかと思ったら、全然そんなことなくて……」
「そうねぇ。男っていつも女のことなんて考えずに自分の主張ばかりだものね」
レギンヒルト的にも不満があったようだ。
エドウィンからすれば、レギンヒルトのやり方も問題があったが、それ以上にそうした手段を取らせたヨシュアンにも不満点があった。
「(ヨシュアンも相手が好いてくれているのだから、もう少しやり方があったんじゃないかしら? ねぇ?)」
遠くリーングラードで教鞭を取っている友に次に会った時は何を言ってやろうか。
そんなことをぼんやり考えながら、恋愛初心者なレギンヒルトに女としての役割を教えていくのだった。
「(いつまで続くんスかね……これ)」
レギンヒルトとエドウィンは半分、忘れかかっているがこの場にはノノがいた。
そして、話の内容もバッチリ聞いているのでこのネタでヨシュアンを脅せるかなと思っていたが、
「(でも他言すると姐さんに殺されそうッスし、もしもヨッシーの口から姐さんに聞かれでもしたら……、その前にヨッシーに口封じされそうで怖いッス)」
ヴェーア種独特の警戒本能がこのネタが災厄しか詰まっていないことを告げていた。
それは正しい予測でもしもノノがこれを他言しようものなら少なくともベルベールとレギンヒルト、そしてヨシュアンを敵に回すことになる。
特にベルベールを敵に回した時点でノノはおしまいだ。
だから耳を塞ぎたかったがメイドである以上、そんな姿勢を人に見せるわけにもいかず、ただ入ってくる自らを滅ぼす情報を聴き続けるしかなかった。
陽が落ちるまで、まだまだ時間はあり、エドウィンの恋愛相談は続いていくのだった。




