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リーングラードの学び舎より  作者: いえこけい
第三章
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トマトとビネガーと酢の物のベーレ添え

 これは昨晩、リィティカ先生の社宅で会議した後の会話です。


「未来の義務教育計画に対する問題点?」

「そうですね、まずは学習要綱でしょうな。今回の事もそうですが、あまりに杜撰が過ぎている気がします」

「それは現在、改善中だ。元よりノウハウのない分野だ。上からの要求と実務の意識差はいつまでも埋まらない渓谷のようなものだ」

「この規模を拡大したとき、果たして全ての学習要綱を満たせるかというと疑問に思えますな」

「リスリア王国は現在だって人員不足の部署は多い。いや、どんな社会も有能な人材という面ではどこも人手不足なんだ。特にリスリア王国は南方から人を連れてこなければ国の体裁をまとめられなかった」

「異議ありだ。【戦略級】の登場による人員の減少は認めよう。内紛の人死が他の類を見ないほどの人的損害を招いたことも。その結果として南方の人間を受け入れる体勢を作り上げたランスバール王の手腕は確かに頷ける。だが、その言い方だとまるで奴隷のように連れてきたように聞こえる。あくまでリスリア王国を盛り立てる誘致だ。言い方に気をつけろ」

「別に現体制に対する不満を言ったわけじゃない。南の人間は粗暴で個人的には好かないが、あくまでそれは個人に対するものだ。南の人間に対する蔑視のつもりじゃない。そんなこともわからないのか図書員の愚者は」

「物言い一つも満足にできない数学宮のバカ女に言われたくないな」

「話がそれてますよぉ、おちついてぇくださぁい」

「ともあれ、今、このリーングラードは各分野に優れた人材がいると思う。リーングラードではどんな分野でも対応できるだろう。しかし、これが南や東になったらどうだ? 本当にこれだけの人材を用意できると思うか? 絶対に特定の分野が固まってしまう。ここだけが義務教育の場ではないだろう? この計画の先には各地方に学び舎を作り、教育を施すことになる。三十年、四十年後はいいだろう。その頃までに義務教育を受けた人材が溢れかえっている。なら、目先の十年後はどうだ。本計画開始直後の人員配置だ。下手をすればこの学園から巣立った生徒に矢尻が飛ぶことになるぞ」

「でもぉ、教師が足りないってぇいうとぉ、今までの形態だとダメってことですよねぇ」

「教師を作る専門学校みたいなものが必要かもしれませんね」

「教育を施すために教師を育てる学校を作る、か。なんとも間の抜けた話だ」


 義務教育普及後の一番の懸念は、人材不足のようです。


 人材不足を補うための義務教育がまさかの人材不足だったという、まぁ、当たり前のような予見されていたオチというか、なんというかです。


 実際、実行されたのなら段階を踏まえていくのではないかと思います。


 リーングラードから始まり、各四方の都市でもう一度、生徒数を増やした試験運用を行い、徐々に徐々に学校や学園を増やしていくのでしょう。

 最終的に全ての都市部を賄えるようになるまで、どれくらいの年月が必要なのかはわかりませんが、その過程で文化水準も高くなるでしょう。


 もしかしたら、義務教育を受けた生徒たちが各村々で私塾を開くかもしれません。

 そうした時に【教育の骨組み】が出来上がっていれば、私塾でも一定の水準を保てるようになるでしょう。


 当然、優秀な教師が集う学園は優秀な生徒が輩出されるので、そのうち学園に通うための試験などが実施され、学園で学ぶ前の事前教育などが行われるようにもなるでしょう。


 他にもこれらの動きに連動した経済活動などが予想されますが、今の時点では特に気にする必要はないでしょう。


 もっとも気にするべき問題は、何時だって目の前です。


「むん! 調子が悪そうな顔をしているな! ヨシュアン先生!」

「ちょっと悪い夢を見ましてね。仕事でもしていたら気も紛れるでしょう」

「勤勉な発言だが体調管理には気をつけたまえ! なんなら健康のために朝から共に修練でもするかね?」

「朝はゆっくりしたいので、謹んで遠慮させてもらいます。後、静かにしてください。ものすごく睨まれています、シャルティア先生に」


 ここは職員室ではありません。

 【室内運動場】です。


 朝から筋肉を盛り上げているヘグマントと適当な会話をして、壇上を見上げました。

 ずらりと並んだ生徒たち。

 そして、自分たち教師陣。


 その全員の視線を受けて、微笑むのはレギィです。


「今日より【貴族院の試練】の試練官を務めるレギンヒルト・R・ジークリンデです」


 相変わらず卒のないというか、こうした壇上の場が似合うというか。


 夢で見た若レギィと違って、やっぱり色々と成長していますね。

 最初に会った頃と四年前の時点での若レギィ、それぞれちょっとずつ違いますが、完成度という意味ではやっぱり今のレギィほどではないですね。


 一方、生徒たちは現れたレギィを見て、ポカンとしています。


 それはそうでしょう。


 彼女はリスリア一の有名人ですから。


 【タクティクス・ブロンド】はそれぞれの役割があり、自分が王国法で対応できない罪人を裁く断罪人だったり、メルサラが『周囲に最強の存在がいることを喧伝する』ことだったように、レギィにも役割があります。


 レギィの【タクティクス・ブロンド】における役割は広告塔です。


 メルサラと役割が被っているように見えますが、少し違います。

 元々、攻撃色の多い赤の【タクティクス・ブロンド】は前線の兵を鼓舞する存在でした。

 前線、ど真ん中で敵兵を蹴散らし、勝利を実感させるための存在です。


 メルサラは軍や騎士とは折り合いが悪いため、今代のメルサラのために若干、役割が変更されています。

 冒険者として、身近に感じる驚異――魔獣などを駆逐することで最強が味方であるということを世間に知らしめているわけです。


 レギィの広告塔という役割は、前線ではなく後方。

 つまり、前線を支えるありとあらゆるものに、庇護を与える役割を持ちます。


 前線や軍に糧食を与える農民たちに、不安や不満を抱かせず、自身の役割に自信を持たせたり、実際に恩赦を与えて回る仕事をしています。


 白銀位がこうした役割を持つのは、白の源素の力にも関係があります。


 白の源素と相性がいい者が少ないこともあって希少価値があります。

 黒も同じですが、とにかくあまりいないので戦争で消費するよりも、後方の鼓舞を任された背景もあります。


 他にも白属性の術式には植物の発育などにも関わる力があり、昨日、【ザ・プール】の力によって見事、七不思議に上り詰めた『突如、満開する花壇』を見てもらえればわかりやすいでしょう。


 さすがにアレを農地でやれとは言いませんけどね?

 レギィが死んでしまいます。


「貴方たちの頑張りや成果は必ず反映されます。貴方たちの力が未来の王国への力となり希望となるのです。そして次なる世代へと引き継いでいく力にもなります」


 白と黒の源素はまだわからない効果もあるので、使い手は研究職や神官などの良い隣人となることが多いですね。

 

 ともあれ、役割通り、プロパガンダにも利用され、洗脳、情報統制、農民を愛国者にしたりするのもレギィの仕事です。

 もっとも、これを言うとレギィが本気で凹むので言わないようにしています。


 あの内紛の時、すでにレギィは次代の【タクティクス・ブロンド】として育てられていたため、よくよく【タクティクス・ブロンド】の役割に付き合わされていました。

 先代の白豚は……、ただのゲスでしたけどね?


 レギィは貴族院と白豚の二つに良いように踊らされていたことを深く後悔しています。


「貴方たちが試練を越えて、新しい世代として王国を繁栄させ、より豊かなリスリアの地に花満ちることを願っています」


 ポカンとしていた生徒たちも、本物のレギィだとわかって一様に色めき立っていました。

 知名度のある美人が目の前にいるのですから、そうなってもおかしくないですね。


 フリド君のあの暑苦しい眼差しはアレですか?

 妄想の中で騎士になってる感じですか?

 美人に忠を捧げているシーンを思い浮かべて、ちょっと悦に入ってませんか?


 あと、クリスティーナ君のあの穴が空ける勢いの目線はなんでしょう。

 レギィを親の仇のように見ていますが……、あぁ、思い出しました。

 たしかクリスティーナ君は【タクティクス・ブロンド】に執着していましたね。

 高みがどうのこうの妄言を吐いていたので、それ関係ですか。


 でも、メルサラにはあまり執着してませんでしたね?


 クリスティーナ君的に何か違いがあるのでしょうか。

 それとも自分が知らない間にメルサラにアプローチを仕掛けてみたか。

 一度、メルサラに聞いてみたいのですが、あの野郎、昨日から失踪中です。


 よほどレギィと顔合わせしたくないみたいです。

 下手するとこの一ヶ月、顔を合わさない可能性もあります。


 まぁ、自分もメルサラの面倒を見なくていいですけどね。


「これ以上、皆さんの貴重な時間を取るわけにもいきません。これで、私からの挨拶は終わらせていただきます」


 締めの言葉と共に、拍手が置きました。

 ピー、ピーと口笛を拭いている子がいますね。

 まったく、劇場の舞台挨拶じゃないのですから……って、アレはティルレッタ君?

 しかも口笛じゃなく、人形の【エセルドレーダ】に笛を持たせて吹かせています。


 なんでしょう、あの謎の行動。

 根本の意味がわかりません。


 あと、人形なのにどうやって吹いているのでしょうか?

 ……嫌な予感しかしないので、触れないでおきましょうか。


 小さくため息して、なんとなくレギィを見ると、レギィも視線を感じたのか自分を見てニコリとします。

 そういうサービスは止めてください、心臓が止まります。


 生真面目が服を着ているようなレギィなら、どうせ今日は資料とにらめっこしてテスト作りでしょう。

 干渉してくるならテスト作りが終わってからなはずです。


 それまでにセロ君とティッド君の様子を見ておきましょう。


 レギィの挨拶が終われば、次は余った時間で授業です。


 少しだけ気になったのは【室内運動場】を出る時です。

 セロ君が身を縮こませているようにしている様子が、目につきました。

 あれは……、やっぱり昨日の件を少し引きずっているようですね。


 この問題を解決するために、自分もちゃんと考えています。


 今日は授業内容を変更することを学園長に伝えました。

 昨日の一件の懸念があると伝えると、特に何も言われずにOKをいただけました。


 こうした臨機応変な対応すら、すんなりと通るのは非常にやりやすいですね。


 ヨシュアンクラスもアレフレットクラスも今日の授業は座学でしたが、急遽、実践に変えました。

 午前はヨシュアンクラスです。


 場所も【野外儀式場】に変え、生徒たちの前に立ちます。


 「朝の挨拶で【貴族院の試練】が始まったという実感は湧きましたね。ようやく『義務教育計画』も本格的に始まるわけです。そこで今日は今まで学んだ術式を一つずつ試していこうと思います」


 という名目で術式を使わせます。


「はい、先生!」


 と、勢いと共に手をあげたのはマッフル君でした。


「何か質問ですか?」

「朝の挨拶の時、レギンヒルト試練官が先生を見て、色っぽい視線送ってたよね」


 ちゃっかり目撃されていました。


「私も見ました」


 エリエス君も乗ってきました。

 

「私もバッチリ目撃しましたわ。一体、どういう関係ですの」


 クリスティーナ君まで……、何故、君たちはセロ君とティッド君のことはわからなかったくせにどうして自分とレギィのことには気づいたのでしょうか。


「偶然です。よくあるでしょう、そういうこと。目が合ったので微笑むくらいレギンヒルト試練官なら当たり前にやってのけます。彼女は内紛時に多くの鼓舞演説をしていましたからね。中には見たことがある人もいるでしょう」

「私は子供の頃、見ましたし実際、社交の場で顔を合わせたこともありますけれど、アレは社交の顔のような、そういうのとは違う気がしましたわ」


 何故、ジト目で見ているのですか?


「個人的に親しい人に送るような視線だったであります」


 リリーナ君、あのね?

 ここぞとばかりに燃料を振りまくのを止めなさい。


「熱~くて、物欲しそうな視線だったであります」

「そのセリフをそのまま、試練官に言ってみてください」


 どう答えるか謎ですが、あまり良い結果にはならないでしょう。

 主に自分が、ですが。


「あやしいですわ」

「あやしい……」

「あやし~であります」

「先生、授業を始めてください」


 エリエス君がマイペースですね。

 問題児三人も『え、今、そんなこと言うの』という顔でエリエス君を見ています。


 このエリエス君の無表情。

 最近、わざとやっているんじゃないかと思っています。


「エリエス君の言うとおりですね。三人ともアホなこと考えてないで、さっさと準備するように。スクロールで術陣の形を確認、術韻は全て覚えていますね? ボケッとしていると頭が暑いだけですよ?」


 納得してない顔でこちらを見ている生徒たちですが、セロ君だけは少し様子が違いました。

 恋愛に関してのココロスイッチがあるはずのセロ君。


 この手の話題なのに、まったく反応していません。


 むしろ、戸惑っている感じでモジモジしています。

 それに上の空なのか、皆が用意しているのに一人、ボーッとしています。

 熱中症ですか? 野外ですものね。


「セロ君、どうしました」

「ひゃぅっ」


 驚かれました。

 目線を合わせるように腰をかがめても、目を合わせてくれません。


 体も及び腰ですね。


「先生の話を聞いていましたか。それとも体調が悪いようならちゃんと申告してくださいね。先生も鬼ではありませんから」


 「絶対に嘘だ」「魔獣のようなオシオキ魔のくせに」とヒソヒソと言う子は、とりあえず物理的に静かにしてもらいました。


「ともかく、気分が優れない場合はちゃんと言うこと」

「……はぃ、だいじょうぶなのです」

「よろしい。では準備しましょう」


 あえて深く突っ込むことはしません。

 理由はわかっていても、ここで解決してしまうには色々と準備やわからないことも多いですからね。


「結界、フロウ・プリム、エス・プリム、ウル・プリムまでが試練の内容ですが、ウル・フラァートとリューム・プリムも一応、やってみましょう。アレンジはしなくていいですよ。しかし、アレンジのほうが上手くできると思ったのなら使ってみてください」


 儀式場の近くにある倉庫から前もって用意しておいた、抗術式が刻まれた甲冑人形『ドM君』を二つほど置いて、そこから二十歩の距離から術式を当てるという訓練です。


 明かりをつけるフロウ・プリムと、術式を防ぐ結界は『ドM君』を使わなくてもいいのでその場で展開してもらう予定です。


「では各色の結界から。教えたとおりなら赤、青、黄、緑の四色は使えますね?」


 白と黒の結界は特殊で、難易度も高いので教えていません。

 あれらは他の固有色結界と違って、物理結界に近いからです。


 ほぼ瞬時に展開された結界、セロ君とマッフル君がちょっとまごつきましたが、特に問題があるように見えません。


 この時、もっともホッとしたのは自分です。


 思春期による術式不全。

 女の子としての意識が生まれたセロ君に術式が使えたことに、安心したのです。


「次はフロウ・プリムです」


 ここでもまごついたのはセロ君。

 しかし、生徒たち全員の手のひらの間で小さな光の珠が浮かんでいます。


 どうやら問題はなさそうですね。

 杞憂だったのは良いことです。


「では次にエス・プリム」


 問題が起きたのはここからでした。


 順に火球を撃っていく生徒たち。

 そしてセロ君の番になったとき、


「ぇぃ」

 

 と、手のひらを突き出しました。

 しかし、何も起こらない。


 気まずい空気が流れました。

 空気に耐え切れなかったセロ君がちょっと涙目です。


「セロ君。落ち着いて深呼吸して。心を落ち着けてからもう一度試してみましょう」

「ぁぅあぅ……」


 落ち着けるような声色を意識して、セロ君を宥めました。

 それでもセロ君はそわそわしたまま、落ち着けずにいました。


 まずい。


 『眼』を開き、飛び込んでくる源素だけの世界でセロ君の術式をじっくり眺めてみても、セロ君の感情に赤の源素が引き寄せらている感じはしません。


 元々、闘争本能なんかとは縁のない子です。

 赤属性自体が苦手だったこともあって、うまく源素を引き寄せられないでいるのでしょう。


「ぇ……ェス・プリムっ」


 源素が寄り集まっていないのに術陣は描けないですし、術韻だけで何か起きるはずもありません。

 結果、当然のようにセロ君の術式は不発に終わりました。


「ぁ……、ぅあ……」


 ジワジワと瞳に涙が溜まっていきます。

 暗い感情にちょっとだけ黒の源素が動きましたが、すぐに興味をなくしたように去っていきます。


「セロ? 貴方、大丈夫なの」


 クリスティーナ君も不審に思って、セロ君の顔を見ようとしました。


「ぁぅっ」


 でも、泣き顔を見られたくない一心で顔を隠して蹲ってしまいました。

 その小さな背中が、嗚咽の反動で小さく揺れています。


 流石にこの行動にクリスティーナ君も戸惑います。

 リリーナ君やマッフル君ですら、何が起きたのかと動揺しはじめています。


「大丈夫です。ちょっと失敗しただけです。そうですね?」


 背中をトントンと叩いてあげながら、語り続けました。


「でも……」

「調子の悪いときは誰にでもあります」

「……ぁぅ」

「結界やフロウ・プリムはうまくいきました。なら、術式は出来ているんですよ。エス・プリムができないくらいでそんなに不安にならなくていいですから。顔を上げれますね?」

「……はぃ」


 おずおずと顔をあげて、自分と目が合いました。


「ひゃぅ」


 で、見た瞬間、頭を下げてしまいました。


「……地味に凹みますね」

「ぁ……」


 しまった。

 つい出してしまった声に自分は失敗したことに気づきました。


 セロ君がどうして術式ができなくなったのか。

 それは『見られること』への戸惑いや恐怖からです。

 でも、この子自身はちゃんとしようと頑張って耐えているのです。


 無理して、己をごまかして、セロ君は頑張っていました。

 見られているのは気のせいだと、言い聞かせて。


 そのセロ君に『セロ君のせいで先生に迷惑をかけている』と思わせてしまう発言でした。迂闊でした。


「がんばるのです……」


 立ち上がるだけでプルプル震えています。

 ここで自分まで心配そうな顔をしては余計にセロ君を苦しめてしまうでしょう。


 ただ自分にできることはセロ君を見守ることだけです。


「……っ」


 ちゃんと立ち上がったと思った瞬間、急に体をくの字に折りました。

 自分は反射的にセロ君の体が地面に落ちないようにと、滑り込むようにセロ君の体を抱えました。


「セロ君!」


 腕にもたれかかるセロ君から、曰く言い難い音がしました。

 腕と足に生暖かい何かが流れ落ちてきます。すえた臭いに自分は空を見上げてしまいました。


「……ぅぇ」


 えー……、うん。

 セロ君が吐きました。

 吐いたのはいいのですけど、絶妙なタイミングで助けにいったせいで、足と腕がゲロまみれになりました。


 いいんですけどね! 別に!

 それよりもセロ君の体が心配です。


 げふげふと喉の異物感に苦しんでいるセロ君に自分がしてあげられることは一つです。

 喉と鼻に残っているだろう吐瀉物を全部、吐き終わったのを見計らって一つの術式を構成しました。


「セロ君、こっちを見なさい」


 茫洋とした目線の前に指先を持っていきます。

 そして、灯す黒い炎。

 明暗する黒い炎を見たセロ君が、グッタリと体を預けてきます。


 帝国貴族の少女プリムラの意識を奪った術式です。

 まさかこんなところで使うとは思いませんでした。


 セロ君にこれ以上の負担をかけさせないために眠ってもらいました。


「先生……? セロ、どうしたの?」

「ちょっと体調が悪いようですね。先生はこのまま医務室にセロ君を連れて行きますから後片付けは任せます。用具がどこにあるかわかりますね?」


 吐瀉物を指差すと「マジで!?」という顔をしたマッフル君でした。


 とりあえずそのままセロ君をお姫様抱っこして医務室に向かいました。

 

 まさかここまで過敏な反応をするとは思っていませんでした。

 精神の負担からくる体の過剰反応だということはわかっています。

 その原因、それが何からくるかも理解しています。


 だけど、自分には何もできませんでした。

 この子の何を認め、どんな言葉をかければいいのか、さっぱりわかりませんでした。


 こうしてセロ君の身を案じることはできます。

 安全な場所に連れて行くことも。


 でも、それだけです。

 それしかできなかったのです。


 酸っぱい匂いに顔をしかめながらも、セロ君の心配しかできませんでした。


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