第二章 第二節 産卵
車の下に潜り込んだまま、青木は身動きが取れずにいた。
時間の感覚が、曖昧になる。
数分なのか、十分なのかも分からない。
この先、どうすればいいのか。
頭では考えようとしているのに、思考がまとまらない。
――見つかったら、終わりだ。
だが、ここにい続けても、助かる保証はない。
走って逃げたとして、あれから逃げ切れるかどうかも分からない。
迷いの中で、突然、エンジン音が耳に入った。
一台の車が、近づいてくる。
青木は息を止める。
車の下から出るべきか、出ないべきか。
――まさか、あんなものが車で追ってくるわけはない。
そう思おうとする。
だが、完全には否定できなかった。
エンジン音は減速し、やがて、青木が隠れている車の隣で止まった。
ドアの開く音。
「早く行って来いよ」
「すみません」
誰かが小走りで離れていく音。
ドアが閉まる。
――ここ、確か……。
青木は思い出す。
この近くに、公衆トイレがあった。
会話の調子からして、車の乗員は人間らしい。
それに、このまま隠れ続けるのも限界だった。
青木は、ゆっくりと車の下から這い出た。
挙動不審になれば、警戒される。
できるだけ平静を装い、隣の車に近づく。
「……すみません」
突然声をかけられ、運転席の男が驚いたように顔を向ける。
青木は、町まで乗せてほしいと頼んだ。
だが、運転手の表情は明らかに訝しげだった。
森を走り回ったせいで、青木の服も顔も汚れている。
怪しまれて当然だった。
青木は、事情を説明することにした。
話を聞こうとして、後部座席の二人も降りてくる。
トイレに行っていた若者も戻ってきた。
青木は、まず自己紹介をした。
「……私は明朝新聞の記者で、青木悟といいます」
すると、運転手の男が名乗った。
「私は加藤良蔵。昆虫学を専門にしています」
続けて、若者が言う。
「下田健司です。大学生です」
後部座席から降りてきた二人も名乗った。
「小山修人、同じく大学生です」
「戸崎美奈子です。私も学生です」
青木は周囲を気にしながら、
神社で起きた出来事を、できるだけ冷静に説明した。
全員が、言葉を失う。
青木の様子から、嘘ではないと判断したのだろう。
加藤は、短く息を吐いて言った。
「……分かりました。町まで送りましょう」
その時だった。
「怖い話聞いたら、トイレ行きたくなっちゃった」
戸崎が苦笑しながら、トイレへ向かう。
青木と学生二人が車に戻ろうとした瞬間、
低く、重たい羽音が響いた。
――来た。
そう思った瞬間、
下田の首が、信じられない角度に折れた。
切断音は、ほとんど聞こえなかった。
青木が反射的に後退しようとした次の瞬間、腹部に強烈な衝撃が走る。
視界が白く弾け、
自分の身体の中身が、外へ零れ落ちる感覚だけが残った。
小山が車に飛び込もうとしたところを、鈎爪が首に食い込み、引き寄せられる。
次の瞬間、硬い顎が、小山の頭部を噛み砕いた。
加藤は、その光景を呆然と見ていた。
――次は、自分だ。
そう思った時、トイレの扉が開き、戸崎が姿を現す。
“それ”は、一直線に戸崎へ向かった。
倒され、四肢を押さえつけられる。
戸崎は叫び声を上げ、必死に抵抗するが、身体が言うことをきかない。
その生き物は空いている二本の腕で戸崎の服を引き裂く。
“それ”の腹部が、不自然に蠢いた。
人間のものではない細い器官が伸び、
抵抗できない戸崎の体内へと侵入していく。
それは膣を通り、子宮の奥へと到達していた。
戸崎の悲鳴が、夜に響いた。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
やがて、“それ”は立ち上がり、
戸崎の身体を引きずるようにしてトイレの中へ消えた。
直後、羽音が高くなり、闇の中へ飛び去っていく。
加藤は、我に返ると同時に車へ飛び込んだ。
震える手でエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。
「あれは……寄生蜂だ」
震える声で、加藤は呟いた。
「なぜ、あそこまで巨大化したのかは分からない。だが、間違いない……」
「彼女は、卵を産み付けられた。宿主にされたんだ……」
バックミラーに、別の影が映る。
飛来した“仲間”が、地面に残された遺体に群がり、食らいついていた。
加藤は、歯を食いしばる。
「あのまま、そこにいたら……」
言葉は、最後まで続かなかった。




