天使のささやき、悪魔のさえずり
深いため息を吐いたラウレンスに、ホフマンは目を細めた。年を取ったとはいえ白そこひとは無縁の目で見る夫婦は、以前とは明らかに違って見える。
何も言わないラウレンスと、何も言えないエーディットではなくなった。
「奥様に、避妊薬を飲ませるのはやめたのか?」
「うーん。子どものために、エーディットを選んだって思われるのは、嫌だったんだけどねー。」
ラウレンスは退屈そうにホフマンの運針を眺めていた。自分の体と感覚を完全に切り離さない限り、見ているだけで吐き気のする光景にもかかわらず、ラウレンスが何かを感じている様子はない。
相変わらず、恐ろしい男だと、ホフマンは思った。
「エーディットに、子どもに罪はないからって言われてさ。」
「王子妃の件、知られたのか?」
「というか、教えた。俺もさ、迷ったんだ。アルトみたいに、現実を何一つ知らせず、真綿で包み込むように大切にしたい。でも、それを、エーディットは、望みそうにないなって思って。」
「お前が、他人の感情に重きを置く日が来るとはな。」
本当に意外だった。影として生きることを強制されるファンデル家の中で、あまりに優秀すぎるゆえに、表舞台にも立つことを許された男だ。以前は、誰も信用せず、自分の感情すら切り売りして、人を人とも思っていない性質を隠しもしなかった。だが、今は、妻との生活のためなら、人のふりをする程度には、人間に近づいている。その妻に狂って、妻以外はどうでもいいことは隠していないが、以前を知るホフマンからしたら、それでも大きな違いだった。
「他人じゃないよ。エーディットだからだ。ヘルダには、しばらく様子を見させることにした。避妊をやめて、子どもができなきゃ、また考えるよ。無事生まれても、無事育つとは限らないしね、王家の子どもなんて。」
ファンデルが、王家に純粋に仕えているとは思っていないが、それを隠しもしないのは、よほど自分の能力に自信があるということだ。それが、この男の場合は、買い被りでないところが恐ろしい。
「避妊のことは?」
「言ったよ。」
「それは、正直がすぎないか?」
「心配しているのは、お前が、避妊に協力したことを知られることだろう?心配するな。もう言った。」
ラウレンスをここまでにしてしまう、エーディットが、やはり恐ろしいと思う。ただの武官のなりそこないの娘だと思っていたが、その瞳を見ていると、操られることすら心地よく思える。
「……エーディット様は、なんと?」
「今度からは、先に教えてほしいって。理由が分かれば、悲しむ必要がないからだとさ。」
「なるほど。ともに現実を生きることを選ぶか。」
それは、危険だな。
ホフマンは、エーディットに自害用の毒を渡そうと思った。ファンデルの現実を共に生きるとなれば、エーディットがその現実に追いつめられる日もありうるということだ。この男が、それを許すとは思えないが、可能性を限りなくゼロにすることが出来ても、それはゼロではない。
ラウレンスは、強い。だが、ラウレンスがこれほどに狂う、エーディットは自分の身すら守ることが出来ない。ラウレンスが、エーディットを盾にされたときに、何をするか分かったものではない。
「なに?俺が、ファンデルを放棄するとか、心配してる?」
「……お前は、エーディット様を盾にされた時、どうするのだ。」
「ああ、それ。」
「盾にさせないなどという、世迷言は聞く気はないぞ。」
ラウレンスは、最後の運針まで見届けて、解放された左肩を勢いよく回す。まだ、痛みはあるだろうが、ラウレンス自身は、それに気を払う様子もない。
「大丈夫。悩んでたけど、決めたから。俺は、エーディットは選ばないよ。」
「なに?」
「別に、俺がファンデルだから、そうするってわけじゃない。エーディットを残したら、エーディットが苦しむだろう?誰にもすがれなくて苦しんで、ずっと、俺のこと想い続けることになるかもしれないし、誰かにすがるしか方法がなかったら、そうしちゃうかもしれないし。」
ラウレンスは、そんなこと許せないじゃんと、狂気じみた笑顔を見せた。
「だから、俺が残るんだよ。エーディットを殺した人間を、もう二度と人間に生まれてきたいと思わないくらい苦しめて、殺してくださいと懇願させるまで苦しめて、殺すし、そいつの一族郎党全員苦しめてから殺すし、かかわった人間は全員同じ目に合わせる。生まれてきたことを後悔させて、それから、俺はエーディットのいるところに行く。」
「……そんなことをしたら、奥様の行くところにいけないぞ。」
「行けるよ。エーディットも俺と同じ場所を歩くって決めてくれたんだもん。」
ラウレンスは、ベッドから降りて、伸びをした。窓越しに見える青空は輝かしいほど美しいが、きっとこの男は、ただの晴れとしか思っていないのだろう。
「それでいいのか?」
「それ、誰に聞いてんの?」
ラウレンスが振り向いて微笑んだ。無駄に整った顔の微笑みが、恐ろしく見えるのだから、やはり自分の目は悪くなったのだろうか。
世界の敵だと言われても不思議ではない、その微笑に、エーディットはきっと天使のような微笑を返すのだろう。
悪魔のようなラウレンスに、エーディットはふさわしくない。そう思う反面、二人は本当に似合いだと思う瞬間もある。
エーディットは、一見、悪魔に魅せられた天使のようであるが、本当は違う。エーディットは、天使であり、同時に、悪魔でもある。ラウレンスを本当の悪魔にした、美しき歌声の悪魔だ。それは、歌声で人を惑わす、セイレーンのようにも見える。
恐らくは、自分もその歌声に惑わされている。だが、それで死んでも、おそらくは、後悔しない。
それは、ラウレンスも同じなのだろう。妻を部屋に招き入れて、抱きしめているラウレンスを眺めながら、ホフマンはそう思った。




