百年前の恋人、忘れた仮面
「参ったな。」
ラウレンスは小さく声を出した。スパイの疑いのある商家を始末しに行ったら、予想外の手練れを雇っていた。顔を隠した少年は、身のこなしが、影と遜色ないものであったが、ラウレンスの相手にはならないと思った。だが、その少年から一瞬、チューベローズの香りがした。
それに気を取られて、目くらましを使われて、左手で太刀をうける羽目になった。妙な角度で、無理に刃を受けたせいで一太刀入れられた上に、肩を脱臼した。
最悪だった。
少年には逃げられたが、おそらくラウレンスの一撃で長くは生きられないだろう。他の人間は皆殺しにして、強盗の仕業に見せかけた。
朝日が出るまで、時間がないと分かっていたから、少年を追うのはやめた。あの香りを纏った人間を生かしておくのは、許容しがたかったが、確実に殺ったという感触を信じることにした。
本当は、自分で傷の治療をしてから、屋敷に戻るつもりだったのに、結局、エーディットが目覚める前に屋敷に戻ることを選んでしまった。
すやすやと眠っているエーディットは、ベッドの右側をあけて、赤子のように丸まって窓際を向いている。
エーディットは、いつもそうだ。ラウレンスに背を向けて眠るのだ。
「……ラウレンス様?」
まだ、日が昇っておらず暗闇に包まれた部屋の中で、自分を見下ろす影に、エーディットはあまり驚いている様子がない。安心しきった声で、呼ばれると、心を鷲掴みにされて勢いよく振られているような感覚に襲われる。その感覚は、エーディットを娶ってから何度も襲われている抗い難いものだった。
「エーディット、まだ、寝てていいよ。」
「……お怪我を?」
暗闇で、何も見えないはずなのに、エーディットは上半身を起こしてラウレンスの方を見上げた。エーディットの目では、ラウレンスの形を正しく認識することも難しいだろうに、言い当てられて、少し驚く。
「血の匂いが」
「少し、切られただけ。あと、肩、脱臼しちゃった。」
「ホフマン先生をお呼びしないと。」
「やだよ、あのじじい、俺のこと痛めつけることしか興味ないんだから。」
「治療をしないと。私が、痛みが少なくなるようにお願いしますから。」
「やだよ。じじい、エーディットのお願いなら喜んで叶えるだろう?それ見るのが、やだもん。」
ラウレンス様
非難がましいエーディットの声に、ラウレンスは、とりあえず駄々をこねることを選んだ。
ベッドに座り、エーディットを抱き上げ、胡坐をかいた自分の膝に乗せる。
「傷が、」
「平気だよ。左手だし。」
エーディットは少し戸惑ってから、ラウレンスが離す気がないと分かると、体の力を抜いた。
「ラウレンス様から、外の香りがするなんて、珍しいわ。」
「……そう?」
一瞬、チューベローズの香りを嗅ぎ分けられたのかとドキッとした。別に、やましいことなんて一つもないが、妻を不安にはしたくない。
「眠たいわ。」
「いいよ。寝てて。」
「怪我をしている夫に抱きしめられながら?」
そんなことをしたら、どんな悪妻かと後ろ指をさされる、とむくれるエーディットは小さなあくびを漏らした。
「別に、いいじゃない。俺は、エーディットが、俺のこと、信頼してくれている気がして嬉しいけど。」
「気じゃないですわ。信頼しているのです。」
ああ、まただ。
心が鷲掴みされて容赦なく振られて、酔ったような感覚をおぼえる。
「朝日が出たら、必ずホフマン先生をお呼びします。」
「うん、わかった。」
「……嫌に、素直ですわね。」
エーディットは、いぶかしげに見上げてから、ゆっくりと目を閉じた。幼い子どものような寝息が聞こえてくると、ラウレンスもベッドボードに体を預けて目を閉じる。
寝息は子どものようなのに、エーディットの体温は低い。夏の暑さの中では、その冷たい肌は、ずっと触れていたくなる。
ああ、好きだな
ラウレンスは目を閉じて、妻の体温を感じながら、そう思った。




