暗闇の星屑、灰色のデネブ
エーディットは、客間の一つを一時的に使うことに決めた。こうすることが、一番いいと思ったわけではない。
でも、こうすることで、ラウレンスに、今度こそ選ばせようと思ったのだ。
バルコニーに出ると、暗闇の中に、少し簡素な庭が見える。与えられていた部屋から見えた庭よりも質素だ。
フランカが、後ろで燭台を手に持っているが、その弱い光ではあたりを見ることは叶わなかった。
紺色の外套を着たまま、エーディットは、バルコニーから見える星空に手を伸ばした。手の内側に星を捕まえることはできない。エーディットが、夫の手をつかみ取れないことへの暗示に思える。
「エーディット様。」
「フランカ、」
「屑が戻りました。だから、今度は、エーディット様の番です。」
風が吹いて、木々が葉を揺らす音が響く。暗闇の中では、目を凝らしても、何も見えない。フランカや夫には見える世界が、エーディットには見えない。
月が厚い雲から出て、影を照らし出した。エーディットが立つバルコニーの手すりに立つ夫は、簡素な服装なのに、寒さをまるで感じさせない。
冷たい冷たい美しさに、エーディットは一歩下がる。
「屑とは、とんだ言い草だな、フランカ。まあ、いいや。下がれ。」
フランカは踵を返すこともせず、エーディットの肩に触れた。
「どんな答えでも、私は、エーディット様の味方です。だから、」
「フランカ、二度言わせるな。」
小さな舌打ちの音が聞こえる。フランカが、そっと離れたことが分かった。
「なんで、待っていてくれないの?」
「ラウレンス様、」
「俺が、あんなことされて、喜ぶと思った?」
喜ぶとは、思わなかった。なぜなら、フェナはフェナであって、ディアナではないから。
ラウレンスは音もなく、手すりから下りた。エーディットは、また一歩、後ろへと下がった。
「選ぶのは、私ではありません。」
本当は違う。
エーディットは、ただ怒っていたのだ。エーディットが、レオナルトの夜の相手をさせられるかもしれない状況に、ラウレンスは分かっていたくせに置いた。周囲にそう勘違いさせて、それで、ラウレンスは何を得ようとしたというのだろうか。
フランカは、エーディットに選ばせるためだといった。でも、ラウレンスは分かっているはずだ。レオナルトとラウレンスのどちらを、エーディットが選ぶか。分かっているくせに、エーディットに選ばせようとした。
だから、怒っているのだ。
筋書きも結末も話そうとしないくせに、エーディットを自由な演者のように扱うラウレンスに怒っているのだ。
「俺が、エーディット以外を選ぶって?怒ってるの?言わなかったから。あいつと確かに過去に関係があった。エーディットが思ってる通り、下世話な関係だよ。」
「おやめください。」
「もし、エーディットが望むなら、話すよ。いくらでもある話だ。あの女とは、体の関係があった。戦いの後も、諜報で命懸けの時も、興奮していることはあったから。王宮にいたし、聞き分けのいいやつで、都合がよかった。」
「止めて、ください。」
「あの女とは、確かに、かなり長い間、関係があった。」
「止めて!!」
聞きたくなくて、エーディットは両手で耳をふさいだ。だが、その手は、ラウレンスに取られてしまう。夫からは土煙の匂いがした。
「他のやつとも関係はあった。エーディットと夫婦になったからって、俺は、やめなかった。それは、エーディットが一番よく知ってるか。そうやって、傷つけてきたんだから。でも、どいつもこいつも、はじめはディアナの代わりだったんだ。そして、そのディアナとはもう終わった。エーディット、君が、終わらせたんだよ。」
「やめて、お願い。やめて。」
知っていた。夫婦となってからも、他と関係があったことも、ディアナに心があることも。誰もが、ディアナの代わりで、それは、エーディットも例外じゃなかったはずだ。でも、それほど大切にしていたものを、エーディットが終わらせてしまった。
「あなたの傍には、私じゃ、だめなの。」
「それ、本気で言ってる?」
ラウレンスは息をのみ、掴んでいた腕を強く握る。火傷しそうなほど熱い手に、エーディットは、唇の温度を思い出した。
「俺は、エーディットを望んだんだ!ディアナじゃない!ディアナの代わりでもない!」
「なら、なんで、こんなこと。」
「それは、」
「私に選ばせる?私が何を選ぶか分かっている癖に!」
とらわれていた両手でこぶしをつくって、ラウレンスの肩にふるう。弱いその拳に何の意味もないことは分かっていた。
「ごめん、でも、俺は、」
「嘘つき!離れるなって言ったくせに!なら、どうして、こんなこと!」
「ごめん。ごめん、エーディット。」
振り上げた拳もろとも、抱きしめられて、エーディットはラウレンスの服を強く握った。
手のひらは強く握ってはいけない。その手に掴んだ愛を壊してしまうから。それを、知っていたのに、エーディットは強く強く、その手から出ていかないように、握りこんだ。
「選んでほしいなんて、愚かだった。エーディットが、レオナルトを選ばない確信があったから、こんなことをした。」
「トビアスのことは、あんなに遠ざけるくせに。」
「トビアスは、俺の目から見ても、将来有望だし、エーディットを大切にするいい男だ。そんなやつを、エーディットに近づける訳ないでしょ。」
「……嘘つき。嫌いよ。大嫌い。」
「ごめん、本当。だから、嫌いって言わないで。」
わずかに寒さのせいで震えているラウレンスの背に手を回す。そうすると、寒さをしのぐために、ラウレンスは強くエーディットを抱きしめた。
「でも、エーディットも、俺が何を選ぶか、分かっていたでしょ?」
「私は、怒っていたのですから、いいのです。」
エーディットはラウレンスの肩越しに夜空を見上げる。空に浮かぶ星を、手に入れられなくても、いいと思った。
エーディットが、花で埋め尽くされた、春の庭を見ることは叶わなかった。でも、花が枯れる、その時まで、この腕は、自分を抱きしめていてくれるのではないかと思った。
それが、淡い期待だったとしても、花の季節が移ろうまで、この腕の中にいられたら、いいのに。確かに、エーディットはそう思った。
「間に合うかしら。」
「ん?」
エーディットの体を離して、ラウレンスは、部屋に導きいれた。まるで、部屋の主は、自分かのように振舞い、エーディットから紺色の外套を脱がせた。よほど、嫌いのようだ。
「第一王子妃は懐妊されています。」
「ああ、そのこと。別に平気だよ。」
「間に合わなかったら?」
「不安?俺が他の女を孕ますって?冗談、やめてよ。」
エーディットの表情から何を悟ったのか、ラウレンスは、本当に嫌そうに顔を歪めた。
「やり方は、いくらでもある。子どもなんか、そんな都合よくポンポンできるもんじゃないし。今までだって、調整してきたんだ。」
「他の女性を囲って?」
「そういうことをした当主がいなかったわけではないけど、ファンデルは割と、妻に誠実なたちが多いみたいだ。」
あなたを、除いて?
エーディットは口に出しそうになって、唇が余計な言葉を吐き出さないように指先で抑えた。
「養子を取ったり、兄弟の子を実子として届けたり、産み月をごまかしたり」
「……庶子をつくるのが、早いわ。」
「弱みは妻一人で良い。俺も今回のことで思い知ったよ。それに、それ以外にも方法はある。」
「他に?」
ラウレンスは、少し迷ったような表情をした。エーディットは、ラウレンスが迷ったのを初めて見た。だから、少し驚いて、その袖をひいてしまった。
「……王家の子は、生まれ辛く、育ちにくい。」
「それは、」
「そんなもんだよ。それに、そのために、ヘルダを付けているんだ。」
「ヘルダは、お守りするために、」
「守るだけじゃない。」
エーディットは、聞いてしまった秘密に、指先が震えるのを抑えられなかった。これが、ラウレンスが生きているファンデルの現実なのだろうか。
共に現実を生きたいと、確かに望んだのに、恐ろしくて震えるなんて。なんて、自分は愚かなのだろうか。
「ヘルダは、エフェリーネ様に心を砕いていました。ヘルダは、フランカのように見えました。」
「それは、違うな。」
「ヘルダは、フランカのようにはならないと?」
「違う。エフェリーネは、エーディットとは違うって意味。エーディットのようには、なれないよ。だから、ヘルダは任務を全うできる。」
そんな
エーディットは、エフェリーネの顔を思い浮かべた。あれほど、苦しめられているのに、愛おしそうに腹を撫でる表情を、思い出して、指の震えを抑えた。
これが、エーディットが望んだ現実なのだと思うと怖かった。でも、恐れる必要はないと、同時に思った。
これが、一人で歩む道ではないのならば、怖がる必要などないと思った。




