クモの糸、磔の蝶
こぽこぽと何かが溢れるような零れ落ちる音で、エーディットは顔を上げた。
「エフェリーネ様、」
「ここで、お待ちください。少し、落ち着かれたら戻ります。」
「それほど、つわりが強くてらっしゃるのですか?それならば、私は、失礼いたします。」
「いいえ、ここで、お待ちください。」
ヘルダ・ファン・エイクの黒い髪は、乱れ一つなくひっ詰められている。見ているだけで頭痛が起きそうなほど、きっちりと結わえられていた。
ヘルダは、エフェリーネのそばをほとんど離れない。守るために常に寄り添うように立っていて、そして、ヘルダはフランカと同じだった。雨の中、走っても泥を跳ねさせない。足音をさせない、その所作はフランカと同じだ。
「……でも、」
「エフェリーネ様は、今、とても不安定です。」
「それは、つわりが、それほどお辛いという意味でしょうか。」
「それも一つですが、もう一つ理由があります。安定するためには、あなたに会う必要があるのです。」
「それは」
つまり、エフェリーネは、エーディットのチューベローズの香りに気づいたということだ。噂という呪いに、エフェリーネもかかったのだ。
「だから、ここでお待ちください。」
「噂は嘘です。」
「そうでしょうね。でも、それは、不安定なエフェリーネ様には、分からない。だから、あなたに会って、毎日確かめなければならないのです。夫の手付きになっていないか。」
「私は、純粋にエフェリーネ様のお話し相手として出仕したのです。」
「その言葉に、今まで何人の王家の女が騙されてきたんでしょうね。でも、今回ばかりは、私は、それを確信しています。」
それは、なぜ
そう言葉にしようとした瞬間に、ヘルダは唇に指をあてた。声を出すなというジェスチャーと共に、エフェリーネが蒼い顔をして現れた。
「エフェリーネ様」
「エーディット、ごめんなさいね。」
「いいえ、体調が優れないのならば、私は失礼いたします。」
「いいえ。少しだけ話をさせて、そうすれば、楽になれるから。」
エフェリーネが力なくソファにかけるのを見て、エーディットはそれに従った。
「エーディット、あなたは強いのね。強くて羨ましい。」
「……私は、強くなんて。」
「強いわ。あなたは噂を知っているのでしょう。どんな役割を求められているか知っている。もしかしたら、あなたの夫もそれを承知で、あなたを出仕させたのかもしれない。それなのに、あなたは反論一つせず、静かにそこにいる。」
「私は強くないです。私はただ、怒っているだけです。夫が、もしこれを承知で、私を出仕させたなら、死んでやろうと思うくらいには。」
「あなた、意外と気性が荒いのね。」
くすくす笑って、エフェリーネが絹のハンカチを口元にあてた。
「あなたに会うと安心する。会うたびに、違うんだわって思えるの。もし、あなたの夫が仕組んだことだったら、許す?フェナを許したように。」
「……どういう意味ですか。」
近くに控えていたフェナがわずかに動いたのを気配で感じた。エーディットに悟らせてしまう時点で、フェナはフランカとは違うのだと思った。
「これは、知らなかった?」
「エフェリーネ様、どうか、おやめください。」
フェナの声は震えていた。だから、答えは聞かなくても分かった。
「あなたの夫と、とびきり仲良くしていた娘を、許してそばに置いているように、夫も許すかと思って。」
エフェリーネの声は、甘くて苦い毒のようだった。知らずにいれたら幸せでいられたはずなのに、エーディットは、何に怒ればいいのかすら分からなくなった。
「ごめんなさいね。私ね、本当はとっても意地悪なの。」
クモの糸にきづかずに、蝶が絡まり、空にはりつけられている。命が消えるその瞬間は、美しいのに、繭にくるまれたその遺骸は、どろどろに解けて記憶すら失ってしまう。
哀れな蝶だ。私も、この人も。
「安心いたしました。エフェリーネ様が、王妃にふさわしいと分かって。」
安心した。もう、チューベローズの香りを感じる必要はない。罪悪感から、自分に呪いをかける必要はないのだ。




