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人魚の冷えた恋  作者: 東屋千草
人魚の錆びた泡
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唇に解、冷たいだけの証明



結局、エーディットが、あの庭の春を見ることはなかった。ラウレンスが、ブラバントの反乱鎮圧に駆り出され、エーディットはファンデル邸を出たからだ。

ブラバントは、先の戦争で、土地が荒れ多くの国民が焼きだされることになった。もともと、農耕を主な収入源としていた国民たちが、略奪することで生きながらえていたが、それを鎮圧することを王が命じた。

政から捨て置かれた土地にとって、鎮圧が何の意味を持つのかは分からない。飢えた国民に、施さず、奪うなと命令するのは、ずいぶん傲慢だと思った。

エーディットは、ファンデル邸を出て、第一王子妃・エフェリーネの話し相手として王宮に仕えていた。

エフェリーネが懐妊したことは、エデゥアルトから聞いていたとはいえ、それを目の前にすると少なからず動揺する。

夫が、ディアナという恋人を切り捨てた一因が、このわずかな腹の膨らみなのかと思うと、どんな感情を抱けばいいのか分からない。得体のしれない気持ち悪さを感じるのだ。




「エーディット、」




エフェリーネは少しゆったりとしたドレスを身に着け、ソファに寄りかかるようにして座っていた。口元を抑えているのは、白いハンカチで、その絹で何人の庶民が暮らしていけるのだろうかと、一瞬想像させるほどの意匠だった。




「エフェリーネ様、お加減はいかがですか?少しでも、水分が取れたらいいのですが。」

「今日は少し調子がいいわ。紅茶は香りが駄目だけれど、お水なら飲めそう。」




腹のうちで育っている子どもは、嘔気という凶器で母親をいたぶっているようだった。得体のしれない気持ちの悪さを感じる、もう一つの理由はこれかもしれない。腹のうちで育つ他人が、宿すものを傷つけるのは、まるで孵化する前の寄生虫を見ているようだからだ。

それなのに、エフェリーネは、自分の腹をさも愛おし気に擦るのだ。母親になったことのないエーディットには到底理解できない感情だ。













「エーディット、ブラバント鎮圧の命令が出た。」




同じ国民だってのに、嫌になるよね。


夫は、いつもと同じように、軽い調子で口にして笑っていた。その時、何と答えるのが正解だったのだろうか。エフェリーネのもとに来てから、何度も、会話を反芻するけれど、正しい答えは思いつかなかった。




「……長い、のですか?」

「どれくらいになるか、全然わかんない。それに、危険だと思う。相手は、もう、手負いの熊より失うものがないからね。その間、エーディットには、」

「私は、ここにいればよろしいのですね?」

「いや」




嫌な予感がした。ラウレンスの答えを変えたかったら、遮った。でも、そんなこと、何の意味もなかったのだろう。




「王宮にいてほしいんだ。」




エーディットは、ラウレンスにとって弱みになる。確かに義父は言っていた。妻を娶れば、妻がラウレンスにとっての唯一の弱点となる。だから、それ以外の弱点を作ってはならないと。

王宮は確かに守りは強固だ。外敵から守るには、最も強固な場所といってもいいかもしれない。有象無象の澱みと悪意が内側に潜んでいるというだけで。




「はい。承知いたしました。」



そう答える以外にエーディットには選択肢がなかった。もし、叶うなら、違う答えが欲しかった。ラウレンスは、エーディットの答えを聞いて、一つ口づけを落とした。その唇は冷たくて、冷たくて、エーディットの体を芯まで冷やしたのだ。




「ごめん。」




唇は冷たいのに、手のひらは熱くて、その体温の差に、身動きが取れなくなっていたエーディットから、ラウレンスは顔を背けて謝る。何に対してかは、聞きたくはない。














「エーディット?」




呼びかけられて、エーディットは顔を上げた。その動作で、耳にかけていた髪が一房落ちる。屋敷と同じで、エーディットは何の香りも纏っていない。なのに、自分のその髪から、わずかにチューベローズの香りを感じた。




「エフェリーネ様、今日はいくつか果物をお持ちしたのです。匂いがすくなくて、水分が多いものを。少しでも口になされば、紅茶やお水の代わりになりますわ。」

「ありがとう、エーディット。あなたは本当に優しいのね。」




ああ、いやだ。


こんな優しい人を、騙している気になる。自分の身の内からチューベローズの香りを感じる理由が、エーディットには分かっていた。

その香りは呪いだ。王宮の有象無象が口にする呪いの言葉、そしてエーディット自身が夫に抱く疑念が呪いに変わった香りだ。


ああ、いやだ。


エーディットは静かに微笑んで、口元を扇子で隠した。これは、夫の描いた筋書きの一つなのだろうか。もしそうならば、どんな筋書きよりも巧妙で、そして許しがたいものだった。









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