手のひらのスピカ、枯れた春
「エーディット様、」
「寒いわね。」
ファンデル邸は、王都の貴族の家々の中では広い土地を有している。エーディットの生家があるユトレヒトはもっと人口密度が低かったため、家の庭はここよりも広かった。
だが、ファンデルの庭は、義母が心血を注いでいたようで、美しい花が咲き乱れるらしい。ガゼボから見る春の庭を気に入っていると、義母が教えてくれた。だが、まだ、寒さが残る庭には、花が咲く気配はない。
ガゼボについたころ、小雨が降り始めた。風がなくて良かった。ガゼボの屋根から滴る水滴を見て、エーディットはそう思った。
「エーディット様、すぐに傘を取ってきます。」
「いいわ。もう少し、待ちましょう。あなたが濡れてしまうから。」
春の庭を知らないで、ここから去ると思っていたのに。その花の色を知ったら、エーディットは、またここに縋りつきたくなってしまうのだろうか。
自分の中の感情を、エーディットは不思議に感じている。ここにいたいと思う気持ちと、縋りついてはいけないと思う気持ちと、自分で書いた筋書きに従いという気持ちをぐちゃぐちゃにしたようだった。
それは、夫への気持と同じだ。夫に、変わらず傾けてきた感情は、夫のためなら迷わず自分を泡にできるほどに強いのに、同時に憎いのだ。夫が選んだ服ではなく、似合わない服を着て、似合わないアクセサリーを身に着けて、夫に許さないと言ってやりたいと思うほどに、憎い。
「エーディット様、やはり寒いです。これ以上は、お体に障ります。おそばを離れることを許してください。」
言うが早いか、フランカは走り出してしまった。黒い靴には、ほとんど泥が付く様子がなかった。
エーディットは、静かに手を伸ばし、ガゼボから零れ落ちる雨粒を手のひらに集めた。
「奥様、」
「……フランカは?」
「フランカに奥様をお迎えに上がるよう指示されました。」
トビアスの顔は、冷たい印象を与えるが、それは恐ろしいほどに美しいからだ。男性とも女性ともつかない顔に、まったく表情はない。その手には一本だけ傘が握られていた。
「……ラウレンス様が、また、怒るわ。」
「フランカに言われました。奥様が望むならば、叶えるべきだと。たとえ、それが、僕を殺しても。」
「私は、何を望んでいるか、自分でも分からないの。でも、分かることもあるわ。私は、トビアス、あなたに死んでほしくはない。」
ゆっくりと濡れた手を伸ばす。トビアスの指先と、指先が触れ合った瞬間に、夫の体温を思い出した。トビアスの唇は夫のそれより熱いが、ふれる体温は夫のそれより低い。
「トビアス、」
「いくらでもお待ちします。答えが出るまで。僕は、命を懸けてもいい。」
エーディットは答えないことを選んだ。答えがないからではない。エーディットがずるいからだ。
エーディットが夫に抱くものは憎しみだけではない。だから、答えは、決まっている。
「戻りましょう。これ以上、雨がひどくなる前に。」
「そうね。」
一本の傘を広げたトビアスの体温を感じるくらい、体を寄せて傘に入る。見上げた顔は、どこまでも美しかった。神の愛する水色の瞳は、濁る前に誰を映すだろうか。
この庭の春を、きっと、エーディットもトビアスも見ることはできない。この予感は、当たるだろうと思うと同時に、この予感が外れていてほしいとも思うのだ。
それは、トビアスのためではなく、エーディット自身のために。
「……まだ、咲かないでね。」
まだ、もう少しだけ、待っていて。エーディットの心の準備ができるまで。
手のひらに集めていた水滴は、とうに手から零れ落ちたが、そのしずくは手のひらに星を落としたままだった。




