ただれた言葉、魚のやけど
エーディットは、与えられた新しい服の中から、すみれ色に近いパンジーの色を選んだ。
夫は、それを見て、かわいいと褒めてから、少し苦虫をかみつぶしたような顔をした。それを見て、エーディットはこの服を選んで正解だったと思った。
「エーディット様、今日はどうされますか?」
「そうね、どうしようかしら。」
エルマが淹れてくれた紅茶を口にしながら、エーディットは、わずかに微笑んだ。
エルマは、エーディットが微笑むだけでも、頬を赤らめる。エーディットは、決して聖母ではないのに、この屋敷の中では、女神のようにあがめられるから不思議だ。
エーディットは、心のうちに闇を飼っているのに、それにまるでみんな気づいていない。ファンデルは、人の闇をたくさん見てきたはずなのに、エーディットの闇に気づいていないのだ。いや、気づいていて、その闇ごとエーディットを愛しているのかもしれない。
「お出かけするというのは、どうでしょう?」
エルマの提案に、エーディットは、ふと気づいた。ユトレヒト州からホラント州に居をうつしてからずいぶん経つというのに、エーディットはほとんど出かけていない。
もちろん貴族の婦人が、軽々と出歩くものではないが、夫を伴った夜会や、ユリアナとのお茶会以外でほとんど外に行こうと思ったことはない。
自分の感情と向き合ったり、夫の感情を推し量ったり、そればかりで、エーディットは外への興味を失っていたのだ。
ユトレヒトにいる時は、外に出かけたり、領地の平民とも交流があったし、季節の行事にも参加していたというのに。エーディットの中が、それだけ、ラウレンスへの関心で占められていたのかと思うと、悔しさを感じる。
「それは、いいかもしれないわ。」
「ならば、紺色の外套を用意いたしましょう。」
フランカの言葉に、エーディットはわずかに小首をかしげる。フランカも、エルマも、夫に思うところがあるようだった。
夫が嫌がりそうなことばかり、提案するのだ。
きっと、エーディットが一人で出歩くことも、この色の服を着ることも、紺色の外套を着ることも、夫には嫌でたまらないことだろう。なぜ、嫌がるのか。そこまで考えて、それ以上を想像することを、エーディットはやめた。
あの偽りの言葉しか話さない唇が、好きだからと、形作るのが、たとえ想像の中だとしても許せない。
「どんなお店があるかしら。どんな人が住んでいるのかしら。」
「きっと、お出かけになられたら、楽しいでしょう。」
「……そうね。でも、今日はやめておくわ。」
「どうしてですか?あのくずのためですか?」
フランカは、仕える主のことを、別の名前で呼ぶことに決めてしまったようだ。
「フランカ」
「何をして過ごしてもいいって、屑が言ったんですよ。何をしたっていいって。エーディット様は、自由にしていいんです。その心も、自由でいいのですよ。」
「フランカ、それは」
「恋人を作ったっていいのです。」
「フランカ!」
エーディットが珍しく声を荒げたことで、フランカはいったん、口を閉ざした。
「屑が何をするかはわかりませんが、もし、エーディット様が望むのならば、命を懸けて、私たちがお相手をお守りします。」
「そんなこと……そんなこと望んでいないわ。」
「それくらい、自由になっていいんです。それだけのことを、エーディット様はされたんですから。」
「望んでないわ。私は……私は、」
そこまで言って、エーディットは自分が、何を望んでいたのか分からなくなった。ラウレンスのために泡になろうと思っていた。泡になって、ラウレンスをハッピーエンドに連れていければ、自分はそれで満足できると信じていた。
でも、泡にならなくていいと言われて、結末が分からなくなって、何をしていいか分からなくなった。
自分が消えれば、幸せになってくれると信じていた。だから、その先があることが想像できない。
何を望んでいたというのだろうか。
いずれ忘れ去られるような泡になって、ラウレンスの人生に何も残さず、思い出してももらえないことを、本当に自分は望んでいたのだろうか。
「エーディット様、ゆっくりで構いません。屑以外にも、男はおります。お優しく、天使のようなあなた様であれば、いくらでも男を選ぶことができる。そのうえで、屑を選ぶというのであれば、私たちは反対しないのです。」
「私は、あの人のために泡になろうとまで、」
「どうしてですか?」
「え?」
「どうして、そこまでするんですか。ただ、お父君が優秀だったゆえに決められたにすぎない縁談でした。エーディット様は、あの屑にとって、人質でした。なのに、どうして、そこまで献身的に心を傾けるんですか。屑にそこまでの価値がありますか。」
エーディットは、フランカの言葉に混乱して、動けなくなった。持っていたカップが手からこぼれ落ちそうになって、慌ててエルマがそれを両手で受け取る。
「フランカ、やめなよ。天使様が困るでしょ。」
「私は、エーディット様に幸せになってほしいの。それに、屑が必要かどうか、考えてほしいだけで。」
カップが手から離れて、エーディットはその手を膝に戻す。重ねた手は、冷えて震えていた。
「……私、」
どうして、ラウレンスにこれほどまでに心を傾けたのだろう。その理由がわからないのに、どうして、震えている手は、ラウレンスの温かく大きな手を想像しているのだろうか。
エーディットは、その答えを知りたくないと思ってしまった。




