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人魚の冷えた恋  作者: 東屋千草
人魚の錆びた泡
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卑怯な蝶、ずるい花



「失礼いたします。エーディット様。」




ノックと共に、フランカの声がして、震える指先で螺鈿をなぞっていたエーディットは、慌てて返事をした。

冷たい廊下の空気を伴って入ってきたフランカの手には、着替えも水も布巾もなく、行火だけがあった。

エーディットは、黙ったまま、フランカの動きを目でたどった。




「旦那様が、昨日は無理をさせたから、ゆっくり休ませるようにと仰りましたので。」

「むり?」

「なるべく早く戻るので、眠らずに待って欲しいとも、仰っておいででした。」

「……そう。」

「いつもそうやって、エーディット様に甘えて、あのくず野郎。」

「フランカ!」




昨日のラウレンスが見せてくれた夢は、エーディットへの餞だったのだろうか。ラウレンスは確かに、筋書きを変えたと言ったが、どう変えたかは言わなかった。

結末がどう変わったのか、エーディットには分からなかった。

離縁を望んでいるわけではないけれど、自分の筋書きに従えた方が、先の見えない道を、導きなしで歩くよりもずっと良いように思えた。

あの、偽りを語る唇が、無理やりに好意を示すのが、嫌で嫌でたまらない。




「そんな風に言ってはダメよ。これからのことを、お話しくださるのかもしれないわ。」

「ただ、甘えているだけですよ。エーディット様がお優しいから、あのダメ男が甘えるんです。待っていてほしいだなんて、よく言えたもんだな。あそこまで、エーディット様にさせておいて。」

「甘えるだなんて……」




ふと、口から洩れた息が、白く染まる。

一度でも、エーディットに、甘えてくれたら、心を見せてくれたら。そこまで、想像して、エーディットは虚しさを感じた。

布でくるまれた行火に指を近づけると、じわりと熱を感じた。その熱が、ラウレンスの体温に似ていることを、昨夜知った。

エーディットは、意味もなく、自分の髪に指を絡めて、瞬きをする。次第に体が温まり、息を深く吸っても、肺が冷たくならなくなった。

夢であってほしいと、見ないふりをしていたが、昨日のことは現実なのだろう。肺から冷たい吐息が出ていくたびに、エーディットは、それを思い知った。

ならば、書き換えられた筋書きは、どこに向かうのだろう。泡にはさせない、そう言われたけれど、ならば、エーディットは何になればいいというのだろうか。

チューベローズの香りをいつも感じていたはずなのに、どこにもそれを感じない。それが、辛かったはずなのに、今は、それが怖い。

泡になるのは、少し後にしよう、そう思ったけれど、泡になれないことがこれほど怖いことだと思わなかった。

ディアナと結ばれないことをラウレンスは選んだ。あれほど、欲していたはずの人を、選ばなかった理由が、エーディットにあるとは、おこがましくて思えない。

エーディットを選んだ理由は、そこに、まだ、利用価値があるから。そうだとするならば、この先にあるのは、泡になるよりも恐ろしい運命なのではないかと思った。

こんなに恐ろしいと思うのに、それでも指先は温かかった。ラウレンスのすこし大きな手の温かさを思い出して、エーディットは結末までの時間が伸びたことを喜んでもいた。




「甘えているのは、私だわ。」




一番、愚かで、一番ずるいのは、エーディットだ。

螺鈿の細工を、もう一度、指先でたどって、ため息をついた。唇から、言葉が泡となってふわりと浮き上がる。指先でその泡に触れると、透明だったはずの泡は、一瞬にしてさびた色になった。

錆びついた言葉は、なんだったのだろうか。エーディット自身にも思い出せなかった。







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