セイレーンの歌声、はじける泡
冷たい海の中をさまようような感覚が、夢の中だというのに、鮮明で、エーディットは息苦しくなった。冷たい汗が背を流れ落ちた瞬間に、目を開けた。
泡がパチンとはじけるような音が耳元でした。その音は、命がはじける音に似ている。泡になることを、エーディット自身も望んだはずだ。なのに、はじけた泡の音にエーディットが感じるのは、悲しみなのだ。
目を開けると、カーテンの隙間から朝の上り切らない太陽の色が見える。
まだ、寒くて、口からもれた吐息が白く見える。それを見ると目を閉じたくなった。エーディットが生きている証が、唇から漏れ出たことに、苦しみを感じるのだ。
背中側はいつものように寒かった。そこに、夫がいないことの証明は、エーディットを夢から覚ましてくれた。
なぜ、あんな夢を見てしまったのだろうか。
夫が、自分を選んでくれる夢。選ばれないことに絶望するのをやめるため、自分で筋書きを書いたはずだったのに。
エーディットは静かに上半身を持ち上げた。夢では自分の左側にいた夫。音を立てないように手を伸ばして、そこに温もりがないことを確認する。
頭がぼんやりと、重たく感じられて、エーディットは自分の立てた膝に、頭を預けた。
どこから、やり直せばいいのだろうか。
実家に戻るために、馬車の手配をして、エデゥアルトにお願いして。
そこまで、考えて、エーディットは深いため息を吐いた。エーディットは急いで行動する必要があった。夫に、正式な離縁を言い渡される前に、エーディット自身がこの家を出る必要があるのだ。
自分の矜持を守るために、書いた筋書きを、全うするためだ。だから、昨日見た都合のいい夢を忘れて、すぐに動き出さなければならない。
(「好きだから」)
不意に、ラウレンスの声がよみがえり、エーディットは思わず顔をしかめた。夢でも聞きたくなかった。そして、現実なら、なおのこと聞きたくない言葉だった。
エーディットは、昨夜と同じ清潔で乱れた様子もない、自分のネグリジェにショールを羽織った。
自分を映すのが嫌で、ほとんど座らなくなった鏡台に向かい、棚を開ける。
手を伸ばした拍子に左肩から落ちたショールを右手で戻してから、箱を取り出した。
東洋の螺鈿の細工箱は、エーディットが生家より持ち込んだものだ。中には、髪飾りや、ネックレス、指輪、ブローチが所狭しと並んでいた。
夫が用意したものだ。
華やかな色や形のものばかりが、並んでいるのを見ると悲しくなった。誰のために選んだものか分かるからだ。
何度も捨てようと思い、それでも捨てられなかったものだ。それは、エーディットの心に似ている。
淡く切ないこの心を捨て、泡になることを選んだ今、これらもまた捨てなくてはならない。
未練がましくしていては、きっと敏い父に悟られてしまう。
「……終わりにしなくちゃ。」
「何を?」
何の音も気配もなく現れた夫に、エーディットは、心底驚いた。鏡越しに映る夫は、エーディットを見つめていた。
どうして
終わりにしようと思うと、夫は、エーディットを思い出す。忘れた花など思い出さずに捨ててしまえばいいのに、時折、思い出して、戯れのようにとまる蝶だった。
エーディットが動揺を悟られないように息を吸ったことに、ラウレンスは気づいただろうか。
「今日は、少し雪が降ってるみたい。外出たら、寒くて嫌になっちゃった。」
もうすぐ、春なのにね。
エーディットは、その春には、この屋敷にはいないはずだ。
「昨日のことで、少し、エデゥアルトと話さなきゃいけないんだ。だから、早めに出仕しなきゃいけなくてね。今日はちょっと早めに用意したんだよ。でも、今日も頑張って、食事までには戻るから。」
食事までには戻るから、離縁の話をしよう、そう続くことを想像して、エーディットは自分の握った手のひらを見つめた。
「……はい。」
目を見ないまま、笑顔を作ることを忘れていたエーディットは、鏡台のそばまでラウレンスが近づいたことに気づいていなかった。
顔を上げた時には、鏡越しの夫は、エーディットのすぐ後ろに立っていた。
「そんな恰好じゃ、寒いでしょ。」
そう言って、後ろから抱きしめられた瞬間に、眩暈を覚えるほどに鼓動がひどく乱れて、エーディットは恐ろしいほどに心臓がいたくなった。
「こんなに、冷えてる。」
冷えているのは体なのだろうか、心なのだろうか。エーディットの心は、こんなにも簡単に揺らいで、ラウレンスに乱される。
でも、きっと、ラウレンスの心は、エーディットのために揺らいだりしない。
こんなにも、苦しいのに、温かいと思ってしまうのは、エーディットが弱いからだろうか。恋をして、泡になると決めた時、エーディットは強くなったと思ったのに、それは、きっと、間違いだったのだ。
「今日は、早く戻るから。」
「はい、お待ちしております。」
終わらせなければと思うのに、終わらせたくないと縋ってしまうのは、エーディットがわがままだからだろうか。それとも、ラウレンスが見せる夢が、あまりに完璧だからだろうか。
ただ、純粋に夫を思って、待っていられたらいいのに。
エーディットは自分の胸の前に回されたラウレンスの手に、手を重ねた。その温かさを、忘れないようにしようと思った。




