表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人魚の冷えた恋  作者: 東屋千草
人魚の錆びた泡
40/54

セイレーンの歌声、はじける泡




冷たい海の中をさまようような感覚が、夢の中だというのに、鮮明で、エーディットは息苦しくなった。冷たい汗が背を流れ落ちた瞬間に、目を開けた。

泡がパチンとはじけるような音が耳元でした。その音は、命がはじける音に似ている。泡になることを、エーディット自身も望んだはずだ。なのに、はじけた泡の音にエーディットが感じるのは、悲しみなのだ。

目を開けると、カーテンの隙間から朝の上り切らない太陽の色が見える。

まだ、寒くて、口からもれた吐息が白く見える。それを見ると目を閉じたくなった。エーディットが生きている証が、唇から漏れ出たことに、苦しみを感じるのだ。

背中側はいつものように寒かった。そこに、夫がいないことの証明は、エーディットを夢から覚ましてくれた。


なぜ、あんな夢を見てしまったのだろうか。


夫が、自分を選んでくれる夢。選ばれないことに絶望するのをやめるため、自分で筋書きを書いたはずだったのに。

エーディットは静かに上半身を持ち上げた。夢では自分の左側にいた夫。音を立てないように手を伸ばして、そこに温もりがないことを確認する。

頭がぼんやりと、重たく感じられて、エーディットは自分の立てた膝に、頭を預けた。


どこから、やり直せばいいのだろうか。


実家に戻るために、馬車の手配をして、エデゥアルトにお願いして。

そこまで、考えて、エーディットは深いため息を吐いた。エーディットは急いで行動する必要があった。夫に、正式な離縁を言い渡される前に、エーディット自身がこの家を出る必要があるのだ。

自分の矜持を守るために、書いた筋書きを、全うするためだ。だから、昨日見た都合のいい夢を忘れて、すぐに動き出さなければならない。




(「好きだから」)




不意に、ラウレンスの声がよみがえり、エーディットは思わず顔をしかめた。夢でも聞きたくなかった。そして、現実なら、なおのこと聞きたくない言葉だった。

エーディットは、昨夜と同じ清潔で乱れた様子もない、自分のネグリジェにショールを羽織った。

自分を映すのが嫌で、ほとんど座らなくなった鏡台に向かい、棚を開ける。

手を伸ばした拍子に左肩から落ちたショールを右手で戻してから、箱を取り出した。

東洋の螺鈿の細工箱は、エーディットが生家より持ち込んだものだ。中には、髪飾りや、ネックレス、指輪、ブローチが所狭しと並んでいた。

夫が用意したものだ。

華やかな色や形のものばかりが、並んでいるのを見ると悲しくなった。誰のために選んだものか分かるからだ。

何度も捨てようと思い、それでも捨てられなかったものだ。それは、エーディットの心に似ている。

淡く切ないこの心を捨て、泡になることを選んだ今、これらもまた捨てなくてはならない。

未練がましくしていては、きっと敏い父に悟られてしまう。




「……終わりにしなくちゃ。」

「何を?」




何の音も気配もなく現れた夫に、エーディットは、心底驚いた。鏡越しに映る夫は、エーディットを見つめていた。


どうして


終わりにしようと思うと、夫は、エーディットを思い出す。忘れた花など思い出さずに捨ててしまえばいいのに、時折、思い出して、戯れのようにとまる蝶だった。

エーディットが動揺を悟られないように息を吸ったことに、ラウレンスは気づいただろうか。




「今日は、少し雪が降ってるみたい。外出たら、寒くて嫌になっちゃった。」




もうすぐ、春なのにね。


エーディットは、その春には、この屋敷にはいないはずだ。




「昨日のことで、少し、エデゥアルトと話さなきゃいけないんだ。だから、早めに出仕しなきゃいけなくてね。今日はちょっと早めに用意したんだよ。でも、今日も頑張って、食事までには戻るから。」




食事までには戻るから、離縁の話をしよう、そう続くことを想像して、エーディットは自分の握った手のひらを見つめた。




「……はい。」




目を見ないまま、笑顔を作ることを忘れていたエーディットは、鏡台のそばまでラウレンスが近づいたことに気づいていなかった。

顔を上げた時には、鏡越しの夫は、エーディットのすぐ後ろに立っていた。




「そんな恰好じゃ、寒いでしょ。」




そう言って、後ろから抱きしめられた瞬間に、眩暈を覚えるほどに鼓動がひどく乱れて、エーディットは恐ろしいほどに心臓がいたくなった。




「こんなに、冷えてる。」




冷えているのは体なのだろうか、心なのだろうか。エーディットの心は、こんなにも簡単に揺らいで、ラウレンスに乱される。

でも、きっと、ラウレンスの心は、エーディットのために揺らいだりしない。

こんなにも、苦しいのに、温かいと思ってしまうのは、エーディットが弱いからだろうか。恋をして、泡になると決めた時、エーディットは強くなったと思ったのに、それは、きっと、間違いだったのだ。




「今日は、早く戻るから。」

「はい、お待ちしております。」




終わらせなければと思うのに、終わらせたくないと縋ってしまうのは、エーディットがわがままだからだろうか。それとも、ラウレンスが見せる夢が、あまりに完璧だからだろうか。

ただ、純粋に夫を思って、待っていられたらいいのに。

エーディットは自分の胸の前に回されたラウレンスの手に、手を重ねた。その温かさを、忘れないようにしようと思った。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ