スミレ色の手のひら
エーディットは、初めて身に着けた菫色のワンピースが、自分に似合っていることが嬉しくて姿見の前で一回転した。
それを見て、フランカは微笑んだ。
「お似合いですよ。」
「ありがとう、フランカ。」
その手にあった外套を、エーディットは受け取った。菫色のワンピースは、ラウレンスが選んでくれたものだ。おそらく、初めてエーディットのために選んだものだ。
これだけは、手元に残したい。それくらいのわがままは許される気がした。
エーディットは、ほとんどのものを置いていくと決めていた。服も靴もアクセサリーも小物も、侍従も侍女も何もかも、ここにあったものはすべて夢だからだ。
フランカは反対すると思ったが、皆、全てを承知しているように、エーディットの身の回りを整理してくれた。
「もう少しで、馬車の準備が整います。こちらでお待ちください。」
菫色のワンピースを紺色の外套で隠すと、少しだけ悲しい気持ちになる。分からない筋書きに沿うよりも、自分で書いた方がいいと決断したのは自分だというのに、なんと愚かなのだろうか。
ラウレンスは今頃、エデュアルトが引き留めてくれている。戻った時には、この屋敷にチューベローズが咲くことになっていた。手続きはあとから、どうにでもなる。
悲しむことなど何もない。自分が描いたハッピーエンドが、ラウレンスを幸せにできるのならば、それでいいではないか。
これで、エーディットは、醒めない夢の中、自分のためだけにハッピーエンドを描き続けられる。誰かの手をもう一度、握らされることもなく、その手を離す痛みを、もう一度知ることもない。それは、なんとも幸せなことではないか。
「エーディット」
わずかに開けた窓から外を眺めるのが、エーディットの習慣だった。じっと、夕日を眺めていると、夫の声が聞こえた。
自分はなんて幸せな頭をしているのだろう。望んだ声が、望んだ時に聞こえるなんて、愚かで幸せだ。
エーディットは微笑んで、振り向いた。そこには、息の上がった夫が立っていて、慌てた様子のデルクとフランカがいた。
夫が一歩動くと、外の風の香りがした。夫から初めてした外を感じさせる香りに、エーディットは驚いた。
「どうしたの?そんな格好して。」
出かけるの?そういいながら、また一歩近づいた。なぜだか、怖くて、エーディットは一歩、窓に近づいた。
「フランカ、」
「二人とも、下がっていい。」
「ですが、」
「下がれ」
助けを求めるように視線をさまよわせたことに気づかれたのか、ラウレンスはエーディットの頼みの綱を下がらせてしまった。
「ずいぶん、稚拙な筋書きだ。書いたのは、エーディット?それとも、アルト?」
「……なんの、ことでしょう?」
青の瞳に射抜かれて、エーディットは今度こそ動けなくなった。ラウレンスが、エーディットを見つめるとき、その瞳の中はいつもうつろだと思っていた。その視線は、エーディットを通り抜けて、きっとディアナを探している。そう思っていたのに。
先に、目をそらしたのはエーディットだった。ずっと、そうだ。甘い香りからも、チューベローズの香りからも、現実からも、目をそらして見ないふりをしたのはエーディットだ。
それは、弱さからだったのか、狡猾さからだったのか、今となっては分からない。
「チューベローズの香り、それが別れの香りなのだと思ったのです。」
エーディットは笑った。自分でも美しいとは思えなかった。
「最初の筋書きから、私が外れて、その時、間違えてしまったのだと思ったわ。あの時、外れなければ、あなたは今頃、ハッピーエンドにいたはずだって。」
「ハッピーエンド?」
「ええ。だから、外れた人間の責任で、元の結末に戻そうと思ったのです。初めて書いた筋書きだから、拙いけど、でも悪い出来ではないでしょう?」
私のいないハッピーエンド
退屈なおとぎ話よりも、もっと退屈でつまらない結末だった。
「俺が、それを望むって?」
「ええ、諦めていらっしゃらないと思ったから。」
「俺が、ディアナと結婚すればいいって?」
そうよ
すぐに、そう答えればいいだけなのに、詰まってしまった。初めて夫の口から恋人の名前を聞いて、動揺しただけだ。エーディットは、ゆっくり深呼吸した。
「そうよ」
かすれた声は、緊張のせい。悲しいからでも、虚しいからでも、きっと、ない。
「あなたには、私ではダメなの。」
「それで、いいの?エーディットは」
ラウレンスの言葉は、静かで、それなのに、エーディットを揺さぶる。池に小石を投げ込んだように、エーディットの心に波が立った。
「ええ」
「エーディット、こっち見て。」
最初から最後まで残酷な人だ。ラウレンスは、何も変わっていないのに、エーディットの心だけが変わっていく。
恋をして、その恋が破れて、そして泡になる。
この恋は、エーディットを泡にした。今なら、自分に刃を突き立てて泡になった人魚の気持ちがわかる。
この人のためならば、エーディットは迷いなく泡になれる。
「ええ。」
もう一度、強くそう告げたエーディットの頬が濡れた。溶けた泡が、流れ落ちていった。
最後に見る姿が、憐れに溶けた泡では、エーディットの矜持が許さない。エーディットは精一杯微笑んだ。
「お幸せに。」
舌打ちでもしそうなラウレンスの表情に、エーディットは悲しくなった。最後の最後で芝居は失敗したのだろう。
「そう、分かった。」
ラウレンスが背を向けて、去っていく。何度もその背を見送ったけど、いつも、とても虚しかったことを思い出した。
その虚しさは、エーディットを強くしたけど、そこに何の意味ももうない。エーディットはもう強くならなくていい。ラウレンスの妻でも、ファンデルの嫁でもなくなったのだから。だから、今だけは、泣いていい。今だけは、泣いて、ラウレンスの背中を、忘れまいと見つめたっていいのだ。
ただ一人、生涯で、愛した人。
ただ一人、夫と呼んだ人。
ただ一人、この人のためなら死んでもいいと思えた人。
でも、その背はいつも、近くて遠かった。
だから、この人のために、泡になる。




