クイーン・オブ・ザ・ナイト
領地から戻ってからすぐ、ラウレンスは仕事に戻っていった。傷についてエーディットが口出しをすることは、もうなかった。
エーディットは間違えた線引きを、正すことに決めた。刀帯の刺繍は、間違えた線引きの一つだと思って、刺し終えた刀帯は処分した。
ラウレンスが怪我をする前にすべてを戻すだけだから、エーディットがそれに苦慮することはない。
冬がもう少しで終わる。春が来て社交のシーズンが来たとき、エーディットはまた線引きに悩む日が来るのだろう。仲のいい夫婦の芝居はできても、エーディットは舞台の上で、きっとうまく踊れない。
その前に、ハッピーエンドが来てくれたら、いいのに。エーディットは、本当にそう思った。
ハッピーエンドに自分がいないことは知っていたけれど、これ以上の演技は大根女優には無理だと思った。
冬の雨は冷たい。久しぶりに、ユリアナ・ボスフェルトの招待を受けて、エーディットはボスフェルト邸を訪ねていた。冬の小雨で体が冷えてしまって、案内されたティールームの暖炉の近くに立っていた。
フランカが湿った服を乾かすように、ハンカチで拭ってくれているが意味はあまりなさそうだった。
ノックの音で振り返ると、そこには、エデュアルトが立っていた。
「ボスフェルト侯爵様、お久しぶりでございます。今日は、ユリアナ様からお茶をとお誘いを受けたのですが、いかがされたのでしょうか?」
「すまない。」
「ご体調でも?」
「妻の名を騙った。あなたを呼んだのは、私だ。」
エーディットは、その瞬間に予感した。ハッピーエンドはすぐそこまで迫っていたのだ。エーディットが気づいていないだけで、きっと、ずっと前から。
エデュアルトの示したソファに腰掛ける。長居させるつもりはないのか、お茶も茶菓子も出されることはない。
「単刀直入に言う。第一王子妃が妊娠した。次代につなげる必要がある。」
エーディットは、静かに手の傷をなぞった。もう、痛みはほとんどなかった。
「ディアナを処分しろといったのに、あいつにはそれができなかった。初めて、あいつは任務に失敗した。」
それが、ラウレンスの怪我の理由か。エーディットはどこか納得しながら、知りたくなかったと思った。知ったところで何かが変わるわけではないけど、知らないままでいられたら、ほんのすこし救われた気になる。
「それは、つまり……」
「それだけ、本気ということだ。」
「そう。それで、私はお払い箱ということですね。今度は、私が処分される番?」
「さすがに、こちらの事情で振り回したのだ。嫁ぎ先を見つけよう。」
エーディットはもう一度、自分の右手の傷に指を這わせた。レース越しでも、傷痕は分かったけれど痛みはない。もうきっと、手離しても痛みはないだろう。
「……それは、素敵なこと。醒めない夢から、やっと目覚められますわ。夢は幸福だったけど、一人で見るのは寂しすぎたもの。」
エーディットは微笑んだ。最後の芝居の相手が、エデュアルトだとは思わなかった。でも、この芝居は今までで一番、胸が苦しくなった。きっと、いつもよりも饒舌でいなければならなくて、息継ぎが苦しいせいだと思った。
「ディアナ様は?」
「今のあいつに貴賤結婚は、目立ちすぎる。適当な血筋に養子縁組して、嫁がせるつもりだ。」
名前を呼ぶだけで息切れがして眩暈がする気がする。
「それならば、メイ家が致しましょう。私の妹として、嫁がせればいいわ。子どものできない欠陥品の妻と妹を交換した。ただ、それだけになる。」
「それでは、あなたに、次の嫁ぎ先を見つけられなくなる。」
「でも、これで、父も私も始末される恐怖と、残りの人生を心中させなくてすむわ。小さなつながりがあれば、メイ家もファンデル家も契約を忘れない。」
エーディットは、初めて自分の歩く筋書きを、自分で書いた。それは、自分が望む結末に、それが一番近づけると思ったからだ。ラウレンスの妻でありたいという、悲しいほど切実で、絶対に叶うことのない結末に、近づくための筋書きだった。この後、誰の妻にもならなくて済む。ラウレンスを生涯の夫にできる唯一の筋書きだ。
「……それに、夢を見続けるのも、悪くないものです。一人で見る夢は、いくらでもハッピーエンドに書き換えられるもの。これで、彼にもハッピーエンドを上げられますわ。」
「それならば、どうして、あなたはそれほどまでに苦しそうに笑う。」
「さあ、なぜでしょう?想像できるハッピーエンドがどれも幸せで……幸せすぎて、苦しいからかしら。」
必死に言葉を探して、エーディットはそう答えた。大根女優が言える最も美しいセリフを必死に探したけれど、言葉の海から拾い上げられた言葉は所詮、その程度だった。
愛は泡と同じで、とてももろい。だから、握り過ぎてはいけない。エーディットの手は、握り過ぎた結果、手離すときに痛むことを知った。だから、もう、誰の手も握り過ぎることはない。一度握った証があれば、もう、誰の手も必要なかった。
エーディットが屋敷に戻る時には、冷たい雨は、やんでいた。冬はもうすぐ、終わるのだろう。
さみしい庭を眺めて、花で埋め尽くされる美しい春の庭を想像する。この庭には、きっと季節外れのチューベローズが咲くのだろう。
それを見ずに屋敷を去るのは寂しいことだったけれど、それを見たらきっとエーディットは動けなくなるのだろう、そう思った。




