サフランを枯らすために
馬車から下りると、体が揺れた。手を貸してくれていたラウレンスが、体を支えてくれた。
ゆらゆら揺れる地面は、エーディットが立つ現実を示しているようだった。
「大丈夫?」
「ええ、車酔いしたみたいだけど、少しですから。」
「すぐ、休もう。」
「でも、お義父さまとお義母さまにご挨拶しないと。」
「そうよ、ラウレンス。妻を大事にするのはいいことですけどね、両親も少しは大事にしなさい。」
荷物をおろす御者とそれを運ぶために出てきた使用人たちで、賑やかになっている玄関に、義父と義母が立っていた。
「お義父さま、お義母さま、お久しぶりでございます。」
「ええ、エーディット、元気そうで嬉しいわ。やっぱり、あなたが嫁でよかったわ。言ったでしょ?とても、ぴったりな子だって。」
ヒルベルタは、夫・エルンストに、どこか自分の手柄だとでもいうように自慢げに言った。
エルンストは、ただ、妻に優しく頷きを返している。ヒルベルタは、誰と比べてやっぱりよかったと口にしているのだろうか。ハラハラしてしまって、隣に立つ夫を見ることができなかった。
「エーディット、休もう。移動で疲れただろう?」
「いいえ、それよりも、ラウレンス様の方こそ、お休みした方がいいわ。傷だって治り切っていないのだし。」
義両親の前だからだろうか、エーディットを支える手を、ラウレンスは離そうとしない。仲の良い夫婦のお芝居を、エーディットは素直に続けた。
「ラウ、お前、大怪我をしたと聞いたぞ。」
「……ええ、まあ。」
「お前が、ケガをするのも久しぶりだ。気が緩んだか?」
「さあ。そうかもしれません。」
「妻がいる身だ。今まで以上に、気を付ける必要がある。お前の弱みは、妻であって、お前であってはならない。そう言ってきたはずだ。」
エルンストの声は、低くて威圧的だった。夫の声と似ているのに、とても冷たくて恐ろしく聞こえる。
「鍛錬を久しぶりにつけよう。フィクトル、準備を!」
「だ、だめです!」
義父と話をしたことは、ほとんどない。見た目も声も雰囲気も、とても恐ろしい人に思えて、エーディットは声が震えた。
「なに?」
「だめです。ラウレンス様は、お怪我をしたばかりです。静養が必要だとホフマン先生から言われました。鍛錬は、傷がしっかり治ってからです。」
「ケガをしないために、鍛錬が必要だ。まして、気が緩んでいるなら、鍛えなおす。ただ、それだけだ。」
「でも、」
「いいよ、エーディット。大丈夫だし、傷に響かない程度にするから。」
ラウレンスを見上げると、柔和な表情から、判別のつかない感情が垣間見えた気がした。エーディットは、自分が余計なことを言ったのだと気づいた。犯してはいけない領分を、踏み越えたのだ。
触れることも許されていなかった自分が、何を勘違いしているのだろうか。妻らしく振舞うことは求められても、意見を言うことが求められていたことではない。
「出過ぎたことを、言いました。」
「ううん。心配してくれたんでしょ?でも、このために来たようなものだから。あんま、心配かけ過ぎないようにするからさ。」
「はい。」
「エーディット、あなたは私とお茶でも飲んでいましょう。男たちの鍛錬なんて、興味ないわ。」
少しミントの香りが混ざった紅茶の香りが広がる。エーディットは、案内されたティールームの調度をひとしきり褒めてから、少しぼんやりと琥珀色の水面を眺めていた。
「この程度のことで、動じてはいけません。あなたは、ファンデルの嫁なのですから。」
「ですが、けがをしたばかりです。傷が開きでもしたら。」
エーディットの心配をよそに、ヒルベルタはいくつかの菓子を口に運んだ。
「平気です。死なないように訓練しているのですから。」
「……でも」
エーディットが動揺した本当の理由は違う。自分が線引きを間違えてしまったことに動揺したのだ。
「あなたが気づいて、いい関係を築けていると聞いていたけれど、あなたの中ではまだ引っかかっているのでしょう。」
エーディットは、また動揺しそうになって、そんな自分をすぐにいさめた。この程度のことで動じてはいけない。エーディットは、ファンデルの嫁で、ラウレンスの妻だ。芝居は女優にも負けないようにしなければならない。
「どうしてですか?」
「かたくなに似合わない色の服を着て、気づいて下さいと言っているようなものです。」
エーディットは、今度こそ動揺しないように、ゆっくり瞬きした。
ラウレンスはここに来るまでに、エーディットに服を何着か新調していた。それは、演技の一つなのかと思っていたが、義母の眼をごまかすためだったのだ。
似合わない色の服を着ることは、エーディットにとって、自分を守る手段だと思っていた。でも、違ったのだ。自分は、こだわっているのだ。
自分は、嫁いだ経緯も、その先の筋書きにも、傷ついて、そして傷ついていないふりをしてこだわっている。
当てこすりのように、似合わない服を選ぶのも、自分の愚かさの表れだ。エーディットは女優よりも上手に演技をすると、自分を過信していたに過ぎない。エーディットがしていたのは、子どものお遊戯会よりもひどいものだったのだと、気づかされた。




