堕ちたシレネ
ラウレンスが領地に赴くことにした理由は知らない。
抜糸をしてからも出仕しないラウレンスにさえ、エーディットは理由を尋ねなかった。
理由を聞いて、答えを得ても、エーディットの本当に知りたいことではないと思ったからだ。エーディットが本当に知りたいことは、筋書きがどう変わったかだった。
「ラウレンス様?」
「なに?」
「いえ、ずっと、こちらを見てらっしゃるから。どうされたのかと思って。」
エーディットは馬車の中で居心地の悪さを感じていた。座り心地の良い座面も、綿の詰められたクッションも、体を冷やさないようにかけられたひざ掛けも快適だったが、落ち着かない。
「エーディットの眼の色って、見てて飽きないよね。」
「……そうでしょうか?」
「うん、その時々で全然色が違うし、すごい綺麗だ。」
規則的に打っていた脈が、少しだけ早まって、それから、愚かにも喜んだ自分に気づいて、冷静になると、先ほどまでの動悸が嘘のように止まる。
「私は、青い瞳の方が羨ましいです。」
ディアナのような青い瞳の方が良かった。どれか一つでも似ていたら、結末は変わっていたのではないかと期待するからだ。
「えー?つまんなくない?俺も青だけどさ、よくある色だし。」
「ラウレンス様の青は、とてもきれいですわ。」
そうかな
そう呟きながら、ラウレンスはエーディットが座る側の座席に移動した。席をあけようと横に移動しようとするエーディットの腹に、ラウレンスは手を回した。
その腕の力強さは、ケガをした人のものとは思えなくて、自分とラウレンスの力の差を知らしめられた。今ここで、ラウレンスがエーディットに危害を加えても、きっとエーディットはまともな抵抗ひとつできないだろう。
「どうされましたの?」
どうして、夫を前にすると、この唇はつまらないことしか口にできなくなるのだろう。もっと聞くべきことがあるはずだったのに、愚かになってしまう。
例えば、私をどうしたいの、とか
例えば、私はどうすればいいの、とか
例えば、どうやってハッピーエンドにするの、とか
例えば、私を殺すの、とか
そんなことを問いかければいいのに、ただ口を閉ざすことを選んでしまう。
「目、閉じないで」
夫の顔が近づいて、エーディットは反射的に目を閉じた。目を閉じる行為は、恋愛小説の中で、キスを恋人にねだる仕草であったことを思い出して、エーディットは冷や水を浴びせられた気分になった。
愚かな自分が、本当に嫌になる。
エーディットは、近づきすぎた夫の肩を両手で押そうとした。その両手は、ラウレンスの手に捕まえられて、するりと手袋を脱がされる。
「っだめ」
隠そうと引き寄せた手を、ラウレンスは許さなかった。
「隠し事はこれ?」
「っぁ」
ラウレンスは右手をぎゅっと握った。手離した代償は大きくて、痛みが体に走った。傷はかさぶたに、内出血は黄色に変色していたけれど、痛みはまだ残っていた。
「手袋を、」
返してください、そう続くはずだった言葉は、のどに詰まって出てこない。ラウレンスがとった右手の傷に唇を這わせたからだ。
「やめ、」
「やめて?やだよ。俺、怒ってるし」
また、静かに傷痕をたどるように唇が押し付けられる。冷たい温度が手を這うたびに、体が震えた。
ラウレンスは何に怒っているのだろうか。
現実を共に生きた証として、エーディットが傷を隠していたこと。それとも、証が残るように治療しなかったこと。隠し事をしていたこと。はたまた、エーディットに一瞬でも現実を見せた自分自身に。
唇はいつの間にか傷を外れて、手首や腕にまで這わされている。エーディットは必死に逃れようと、体をよじるけれど、夫の力に敵うはずがなかった。
「エーディット、こっち見て。」
顔を背けて目を閉じていたエーディットは、すこし上がってしまった息を整えながら、夫を見た。ラウレンスは唇に舌を這わせて、エーディットに馬乗りになるような体勢でいた。麗しい瞳に明らかに色情のいろが見えて、エーディットは腹の底がきゅんとする感覚を知って同時に怖くなった。
結末が、分からない。
「ほんと、自覚ないな。」
ラウレンスは、エーディットを引っ張り、体勢を整えてから、また腹に腕を回した。同時に馬車が音を立てて、縦に揺れた。
「この道、ここだけすごい揺れるんだ。」
先ほどまでのことは、なかったかのように、ラウレンスは揺れる馬車の中でエーディットを支えた。最初から、このために席を移動していたのだろう。ふと見ると、手にはいつの間にか、レースの手袋がされている。
結末が変わっていないのなら、こんなにもエーディットを揺さぶる理由は何だろうか。いずれ手離すのであれば、強く握らないでほしい。傷つくのは手離すラウレンスではなく、きっと手離されるエーディットだからだ。強く握られた代償は、きっと、砕けた泡と同じだから。




