咲かないゲッケイジュ
目覚めると、まず、寝返りを打つ。
目線の先には夫の背中がある。ラウレンスがけがをするまでは、絶対になかった光景だった。
ラウレンスに背を向けて眠るようになったのは、いつだったか思い出せない。でも、背を向けて眠る夫の姿を見なくてすむことに気づいて、ずいぶん気は楽になった。
目覚めると、まず、寝返りを打つ。そして、夫の背中を見つめて、呼吸の音に耳を澄ませる。
それから、静かに起き出して、エーディットは私室につながる扉を開く。そうすると、すでにフランカかエルマが顔を洗う水を用意して待っていてくれる。顔を洗って、口をすすぎ、衣服を選ぶ。
クローゼットの中身は、色であふれかえっていて、その中から、わずかでも似合う色を探す。そんな色が存在しないことに、とっくに気づいていたけれど、ほんの少しでも、そう毎朝思ってしまう。
似合わないなりに選んでから、着替えをして、鏡台の前に座る。これまた似合わないアクセサリーのいくつかを指でつまみ上げて、身に着けるのを止める。
鏡台の前に座って鏡をのぞいていると、ひどく平凡な女の姿が見えた。少しでも肌を白く、目をわずかでも大きく、頬を愛らしく、唇を理知的に、そんな無駄な努力をすることに虚しさを覚えるようになってから、化粧は必要時以外はほんのわずかに留めることにしていた。
この鏡台もきっと、もっと美しい人を映すために作られていたのだと思うと、化粧が無駄にさえ思えた。
それから、朝食を一人でとるために、食堂へ向かい、静かに食べる。朝の散歩の頃に夫が目覚めるので、朝食を持って行くように使用人に指示をだすが、その頃になると、なぜか夫はエーディットを部屋に呼ぶ。
何の意味があるのか、エーディットを呼び出して、包帯の交換に付き合わせて、朝食を先にとったことに対して恨み言を口にする。
今日も同じだ。
「起こしてくれればいいのに。」
「ゆっくり、お休みくださった方が、早く傷も治ります。それに、本当は、おひとりで眠られた方が良いのに。」
「その話は散々しただろう。ベッドも広いんだし、一緒に寝たって変わらないって。」
エーディットは、トビアスに手渡された紅茶の香りを深く吸い込んだ。
「せめて、抜糸まではという話も、聞き飽きましたわよね。」
「そう、聞き飽きた。それに、明日には抜糸だよ。」
話しながらもベッドの上で優雅に朝食をするラウレンスの手の動きは、無駄がなく美しい。
「そうだ、明日には抜糸だし、そろそろ買い物にでも出かけよう。」
「何か、必要なものでも?言っていただけたら、買ってこさせます。」
「自分で選びたいし、街に行く。」
「そうですか。明日、ホフマン先生にご許可いただきましたら、手配を致しますわ。」
「じゃあ、一緒に行こう。」
エーディットは、まただ、そう思った。一緒に出掛けよう、そう、ラウレンスに言われると、嫌な予感が頭をよぎる。筋書きが書き換えられたのではないか、そんな気持ちに襲われる。
次こそは筋書きに沿って行動したい、そう思うのに、嫌な感覚がそれを拒否するのだ。それは、まるで、ラウレンスの妻という肩書に必死で縋り付いているようで、自分の卑しさに辟易した。
「……私もですか?」
「そうだよ。だって、エーディットの服を選ぶんだもん。」
「え?」
「本人が来なきゃ話にならないでしょ?」
「いりません!」
エーディットは、自分が思いのほか強い口調で否定したことに驚いた。何を自分は、そんなに意固地になっているのだろう。本来であれば、かわいらしく嬉しいとでも言っておけばよいことなのに。
「あ、いえ、用意していただいたもので十分ですわ。」
「……エーディットはこんな機会がなければ、好きなものも買わないでしょ。」
「選ぶのは苦手ですわ。あるもので満足しております。」
「俺は、エーディットの服も靴もアクセサリーも選びたいんだけど。」
エーディットは、ラウレンスの強い視線を感じながら、顔を上げることができなかった。この服も靴もアクセサリーも、何もかもが似合わないことを知っているのに、今は、これだけが、エーディットを守ってくれる盾である気がした。
霧の中、足元で砕け散ったランプは、足の裏を傷つけて、痛みでエーディットを立ち止まらせた。ラウレンスと、話すたびに霧は深くなっていくのに、痛みでそこから動けない。
だから、筋書き通りに動くことができないのだ。ラウレンスが望む結末のために、歩きたい、そう思うのに、痛みのせいで動けない。これが、言い訳であることくらい、分かっていた。




