黒いバラが香るとき
「出かけようか。」
夫婦の寝室で、エーディットは刺繍をしていた。刀帯の端に家紋を刺繍するのが習わしであると本で読んだからだ。
硬い皮に刺繍をするのは難儀で、時間がかかる。休むラウレンスの邪魔をしないために、エーディットに与えられた私室でしようとしたけれど、使用人たちに促されて夫の傍で作業を続けた。
ラウレンスは、時々、退屈そうにエーディットを眺めていることがあったが、声をかけられたことはなかった。
「……どちらに?」
「どこでもいいよ。」
「退屈ですの?カードでも用意させましょうか?」
「違うよ。一緒に出掛けようって言ってるの。」
エーディットは、目線を刺繍から夫に向けた。何を言われているのか理解するのが難しかった。
ラウレンスが、エーディットと出かけたがる理由が思いつかない。今までいくどとなく感じた、嫌な予感が一瞬頭をよぎる。
「……ですが、まだ、傷も塞がり切っていませんわ。抜糸までは安静だって、ホフマン先生も仰っていました。」
「このままじゃ、ベッドとくっついちゃうよ。それに、抜糸を終えるまでに働いていたことはいくらでもあるし、いつもと比べて、ほんとにゆっくりしてるし。」
「でも、賛成できないです。傷は深かったと先生は仰ってましたもの。」
「分かったよ、じゃあ、ローダンテの庭で良いから。そこに行こう。」
エーディットは、手に持っていた刀帯を膝に置く。なぜ、ローダンテの庭という名前を、ラウレンスが知っているのだろうか。あの庭に、そう名付けたのは、エーディットで、そう呼ぶのもエーディットだけだったはずだ。
「このままじゃ、ほんとに溶けてなくなるよ!」
いいの?夫が溶けてなくなっても。
そう、むくれたように言われて、エーディットはおかしくなって笑ってしまう。溶けてなくなるのは、エーディットの方だというのに、ラウレンスの冗談がおかしくてたまらない。
「バラの香りが強いですわね。」
「そうだな。」
タイルの上に、使用人たちが運んだ絨毯を敷いて、軽食を並べる。行儀の悪いことではあるが、ケガは言い訳になるだろう。エーディットは、果物を付け分けて、ラウレンスに渡した。
太陽の光はほんの少しまぶしいが、屋外にいるときほどではない。わずかに吹き込む風が気持ちよかった。
「……少し疲れた。」
「だから、言いましたのに。部屋に戻りましょう。」
ラウレンスの申し出は、退屈なおままごとを終わらせる合図だと思って、エーディットは少し遠くに控えているフランカを呼ぼうとベルに手を伸ばした。
その手を、上から握られて、悟られない程度に震えた。傷の痛みに驚いただけで、決して手の大きさに驚いたわけではない。
手離したはずの手が触れた傷は、手離したものの大きさを思い出して震えたようにも思えた。
「たまには、体を動かさないと、逆に体に悪い。肩、貸してくれるだけでいいから。」
ラウレンスは、エーディットの肩に頭をのせた。重みが、体の芯をぐらぐら揺さぶる。
これ以上、知りたくない。これ以上、思い出に縋りたくない。
エーディットは必死に、この感覚を覚えないように、記憶から追い出そう、追い出そうとした。
しばらくして離れていった感覚は、エーディットが望んだとおり、体に染みつくことなく消えていった。けれど、この時に感じたバラの香りだけは、ずっとエーディットの記憶に刻み込まれた。




