人魚の流すスカーレット
―――――苦しい。
息苦しくなるほどの圧迫感を、エーディットは夢の中で感じていた。霧の中で、立っているエーディットの周りには、酸素はほとんど残っていない。
まるで水の中に居るようで、息が苦しかった。
寒くて、苦しい、冷たい海のようなそこは、抜け出したいのに抜け出せなくて、そしてなぜかそこに居なければならないと思った。
自分のうめき声にエーディットは、驚いて起きた。どうやら、うなされていたようだ。
喉が渇いていた。水差しに手を伸ばした瞬間に、扉の向こうであわただしい物音がするのが聞こえた。
窓を見ると、まだ、夜中と言っていい時間帯だ。夜着の上に薄いショールを羽織って部屋を出る。
「ラウレンス様!!すぐに、ホフマン先生を。」
「どういうことだ。誰が、こんなことを。」
人垣の中に、夫が倒れている。血の気の引いた顔と、白いシャツにべったりついた血、そして肉の焼けるにおいがした。
「……ラウレンス様?」
喧騒と言えるくらいあわただしかった玄関の広間が、エーディットの小さな声でしんと静まり返る。
「奥様、」
「どうして?なんで、こんなけがを?」
エーディットが、近づくと、デルクが制した。
「奥様、血がつきます。」
「ねえ、どうして!?」
「落ち着いて下さい!今は、治療が優先です。」
エーディットは、どうして自分がこれほど取り乱しているのか、不思議に思った。ファンデル家の秘密を知った時から、こうなることは予測できていたはずなのに、自分の甘さが嫌になる。
「……そうね。ごめんなさい、取り乱したわ。ホフマン先生をお呼びして。それまでに、ラウレンス様を主寝室に。せめて、血を拭いておきましょう。」
ラウレンスを、先ほどまでエーディットが休んでいた部屋に連れていく。もちろん意識のないラウレンスは、デルクとトビアスで運んだ。意識は全くないが、呼吸は浅いなりにされていた。胸の動きを見ていると、ほんの少しだけ安心する。
「おやおや、これまたひどいけがだ。」
「ホフマン先生、」
「どうしたら、こんなケガできるんだか、検討がつかんぞ。」
服を脱がされた夫から、目をそらす。一瞬見えたその肌には、焼けただれた痕があった。
「血止めか。さすがだな。」
「助かりますでしょうか?」
「いつもよりは、確率が高いでしょうな。この若造は、野生の獣と同じでね、怪我をすると、一人で隠れてしまう。誰のことも信用せんし、わしに診せようともせず、必死に隠れる。だから、探す方も大変でね。いつも、遅れてしまう。」
ラウレンスが死にかけているのは、この一度だけではないのか。エーディットは、自分がファンデル家の嫁として、まるで何もわかっていなかったことに気づいた。
だから、現実が羨ましいと言った時、あんな顔を、ディアナにされたのだ。
「ここが、帰る場所になったわけですな。奥様を娶ったからでしょう。」
「…………」
「さて、治療をしますから、奥様は、若造の手を握っていてください。」
「ホフマン先生、奥様はお外に出ていていただきます。」
デルクがホフマンとエーディットの間に、立ちはだかるようにした。
「この屋敷は、狂っておるな。奥様に過保護が過ぎる。いつかは知らねばならないことだ。今、知っておくほうがいい。いくら、残酷で、残虐で、目をそらしたくなっても、これが、ファンデル家の現実だ。」
「……手を、握っていればよろしいのね。」
手を握ることに、わずかに躊躇した。触れないことが、エーディットとラウレンスの間の境界線の示し方だと思っていたからだ。
でも、エーディットは、確かに、ずっと現実を知りたかった。ともに泥水を啜って生きられるディアナが羨ましかった。だから、これが現実だというのなら、知らなければならない。
「ほお。やはり、肝が据わっておられる。」
まあ、それも、いつまでもつかな。
焦げた肉をそぎ落とし、水疱を潰していく、開いた傷から、切れた内臓を引っ張り出して、つなぎ合わせる。
悲鳴とともに跳ね上がる体を、何人かで抑え込んだ。エーディットの手に爪がたてられて、内出血を起こす。
悲鳴と内臓の生臭さ、血の匂いに、エーディットは眩暈がした。
「私は、もともと、拷問が得意でね。医者になる前は、拷問が専門だったのです。そのおかげか外科手術は今も得意だ。だから、ご安心ください。」
「……痛みを、とることはできませんの?」
ギュッと握られた手は、骨がきしむほどで、舌を噛まないように口に含まされているハンカチには血がにじんでいる。
「おや。そうか、忘れていた。これは失礼。」
拷問専門なもので。わざとらしく片目をつぶられて、エーディットは、恐ろしくなった。
「まあ、でも、もう終わります。」
いつの間にか太陽の光が部屋全体を照らしだしていた。血の色がはっきりと見える。ぐったりした夫の額の汗をぬぐった。
「これから、おそらく熱が出ます。応急処置のやけどと、あとは今の処置の影響で。水分は取らせてください。若造の体力であれば、死にはしないと思います。」
「はい、先生」
「奥様も、よく頑張りました。あなたは、ファンデルの嫁にふさわしいです。奥様は、影を狂わすと聞いていたけれど、それだけではない。ちゃんと、嫁にふさわしいことがわかりました。」
「……狂わす?」
無自覚ですか。恐ろしい。
そう呟いたホフマンの瞳の色は真っ黒だった。
どこまでも深い闇が覗き見えて、ホフマンの方が、ずっと恐ろしく思えた。
「忠告します。あなたは影を狂わす。それを、自覚しておいた方がいい。」
飛んだ血のせいで汚れた夜着が、朝日に照らされる。乾いた血の色は、赤黒かった。影の血の色も、人の血の色と同じなのだと知った。
人魚の血の色も、人の血の色と同じなのだろうか。そんなことを、想像した。
冷たい海で、もう、動けない




