冷たい吐息とコランバイン
レオナルトは、いまだに立太子の条件を満たしていない。エーディットがたった数か月で気づけたことに、どうしてレオナルトはいまだに気づけないのか。
その優しさに救われる瞬間もあるが、大抵はいらいらする。
「第二王子が接触を図ってきたわ。」
「気づいたのか?」
「いいえ。というよりも、ただ単純に、兄を亡き者にしようとしている感じだわ。」
ディアナは、結んでいた髪をおろして、撫でつけた。チューベローズの香りが広がって、ラウレンスは無意識に一歩下がった。
ディアナは、そんなラウレンスの様子を一瞬目でとらえて、すぐに自分の髪の毛先に視線を戻した。
「まだ、殿下は気づかないの?」
「ああ。」
「あなたの奥様はすぐに気づいたのにね。」
「……その話はいい。」
エーディットは賢かった。その賢さに救われる瞬間もあるが、だいたいは、嫌気がさす。
「妃殿下が、妊娠したから、第二王子も急いでるんだろう。いつまでも、立太子されない兄の欠陥を探している。」
「彼の方が、欠陥だらけなのにね。」
第二王子は、陛下と子爵夫人との間にできた子どもだった。経験豊富で、過激な夜を提供する子爵夫人に一時のめりこんだ陛下との、過ちの一つだ。第二王子は良くも悪くも平凡な人間だ。平凡がゆえに、王になることを望み、平凡がゆえに、つまらない謀をする。
「妃殿下は、無事出産なさるかしら。」
「そうするために、何人か忍ばせているよ。」
「フィナも?」
「さあ?」
「……私にすら、名前を教えてくれないのね。」
ラウレンスは、興味を失い、行儀悪く机に腰を下ろした。チューベローズの香りをまとわせたまま、ディアナが近づく。そのまま、口づけでもするかのように、ラウレンスに体を預けた。
「……どうした」
「どうしたって?いつもと同じよ。チューベローズの香り、させてるじゃない。」
「……悪いが、気分じゃないんだ。」
ディアナの体を手で押し返した。以前、ディアナは、そうやってラウレンスを拒絶したのに、今は自分が被害者かのような顔をしていた。
「そういうこと」
「……何が。」
「妃殿下は、懐妊なさったわ。あなたも、子どもを持つ義務が生まれた。だから、私が邪魔になった。」
「何を、言っているの。」
「知っているのよ!処分しろって、エデゥアルト様が言ったことくらい。」
ラウレンスは拒絶するディアナの手を無理やり握った。逃げ出そうともがく、ディアナを今度は腕に閉じ込める。
「処分しろって確かに言われた。だから、エーディットの始末を考えているんじゃないか。」
「どうやって?どうやって、するって言うの。筋書きを変えられないくせに。」
「お前のために書いた筋書きだ。今だって、結末は変わってない。」
「嘘よ。」
ディアナは、体を一瞬離した。
「屋敷の影たちが言っていたもの。あなたが、奥様に狂っているって。だから、処分されるのは、私だって!」
「ディアナっ……、なにを」
一瞬離れた体は、またラウレンスの腕の中に戻った。刃の冷たさと、身を切られた熱いとも痛いとも違う感覚、それに血を失う冷たさと共に。
「……ディアナ、」
ディアナが離れると支えを失って、ラウレンスは床に倒れこんだ。寄りかかっていた机から、ランプが落ちる。
「奥様、言ってたわ。あなたが、嫌な女だったら、憎むことも蔑むこともできたのに。あなたが心も美しい人だから、私は何も言えなくなるのよ、って。」
いつの間に、エーディットはディアナの存在に気づいたのだろうか。エーディットの賢さに嫌気がさした。
「だから、理由をあげるの。これは、奥様のためよ。」
「……ディアナ、やめろ」
もう一振り、ナイフを取り出して、ディアナは振り上げた。その手をつかむ。
「ディアナ、逃げろ。」
「……なんで」
「ここには、戻るな」
体に力が入らなくなってくる。ラウレンスは、自分が失っている血の量が、許容を超えてきていることに気づいていた。
「なんで、かばうのよ!」
愛しているからだ
そう、答えようとして、やめた。その答えは間違っていると思った。
「逃げろ、ディアナ、」
振り上げられたナイフは、行き場をなくして、硬い音を立てて床に落ちる。
ディアナは、美しい髪を乱して、走り始める。部屋を出ていくまで、ディアナは振り返らなかった。これが、きっと、ラウレンスとディアナの愛だったのだ。
不思議と虚しくはなかった。
ラウレンスは、自分の腹に刺されたディアナのナイフを抜く。同時に増える出血を、手で抑え込み、落ちているランプから油をとる。
血だらけの手では、滑ってやりづらい。傷口に油を垂らして、燃やすと、肉があぶられた匂いがあたりを包んだ。
焦げたにおいは、ラウレンスに染み付いたチューベローズの香りを、消し去ってしまった。
あっけないものだ。ラウレンスは、暗くなってくる視界の中、そう思った。




