キスツスが壊す泡
この後の筋書きは、どうなっているのだろうか。
そんなことを考えながら、エーディットは、ローダンテの庭でバラを選んでいた。香りのしない家の中では、いやでもチューベローズを感じる。
だから、せめて、エーディットの私室だけにはバラを飾って香りを消そうと思ったのだ。
「あっ」
「奥様!」
棘が指を傷つけて、ほんの少し血がにじむ。すぐそばにいたエルマが、大声で近くにいたメイドたちに医者を呼ぶように言った。
「あら、いやだわ、大げさよ。」
「小さな傷でも、感染したら、命取りです!」
「ちゃんと洗えばいいのだから、大丈夫よ。フランカ、エルマを止めてちょうだい。」
騒ぎを聞きつけたフランカは、すこし難しい顔をしてから、エルマの肩に手をのせる。
「傷が残ったら!」
「指のしわが少し増えるだけよ。」
「ちゃんと、医者に診せよう。ホフマン先生を呼んで。」
いるはずのない夫の声に飛び上がるほど、驚いた。フランカも、エルマも一瞬鋭い目をしたから、夫の帰りは予告されたものではなかったのだろう。
「まあ、お帰りなさいませ、ラウレンス様」
「戻ったよ。でも、それより、どうして、エーディットがバラを摘んでるの?」
勝手なことをしたと怒っているのだ。エーディットは、胸に抱いていたバラをすべて地面に捨てたくなった。
「勝手をしてごめんなさい。バラを部屋に飾りたくて。」
「違うよ。なんで、エーディットが、自分でバラを摘んでるんだ。庭師は?侍女は?お前たちの両手は飾りか?その両手、いらないんじゃないか?」
一歩近づかれて、エーディットは怖くて、一歩引いてしまった。抱きしめていたバラを、慌ててトビアスに渡す。
「私が、自分で選びたいとわがままを言ったのです。だから、皆を叱らないで。」
「叱る?違うよ、怒ってるの。」
ラウレンスは、こんなにもエーディットを傷つけて、見えない傷は膿んで熱を持って、エーディットを好き勝手しているというのに。
夫が考えていることが、まるで分からない。
「怒るな、若造。バラの棘で、人は死なないぞ。」
「……ホフマン先生、早いね。早速だけど、妻の指の傷を治療して。」
「別に、監視していたわけじゃないぞ。たまたま、庭師のヤンが捻挫して呼ばれていただけだ。」
「まあ、大事ないのですか?」
「ヤンなんてどうでもいいから、エーディットは座って。ほら。」
ホフマンは、肩をすくめる。今日は軽症者ばかりだと、ぶつぶつ文句を言いながら、カバンから清潔そうな白い布を出した。
「それは?」
「ご婦人には、なるべく直接触れないようにしているんですよ。」
「当たり前だよ。」
椅子の背もたれに手を置いているラウレンスの表情はうかがい知れない。
「今日は、噛みつくね、若造。普段、どんな大けがしようと、なかなか呼ぼうとしないくせに。」
「……エーディットと俺とでは、体のつくりが違うからね。」
「大慌てで、フランカが呼ぶもんだから、懐妊かなんかだと思ったぞ。」
ピンと庭園の空気が張り詰める。張り詰めた空気は、吸って、吐き出していいのか迷うほど緊張したものだった。
「エーディットの体は、そういう体なんだから、ちゃんと診ろ。」
「はいはい。あの歩く出刃包丁みたいな若造に、のろけられる日が来るとはね。」
エーディットは、わずかに息を吸い込んだ。気づかれてはいけないと思ったのに、ひゅっと小さく音がした。顔色はあまりよくないかもしれない。
霧の中で、唯一、灯っていたランプを落としてしまったせいで、この先の道がまるで見えなくなっていた。
夫が描く筋書きが、どこに向かっているのか分からない。もともとは、エーディットが気づかなければ始末され、そこにディアナが収まるはずだったのだ。それを、エーディットが気づいてしまったがために、筋書きを変えなければならなくなった。
でも、変えられた筋書きがどうなっているのか、エーディットには分からない。前の筋書きに沿ってあげられなかったから、今度こそは、沿ってあげたいと思うのに。
分かっているのは、筋書きの結末だけだ。
エーディットが役を降りて、そこにチューベローズが収まる。その結末だけは分かっている。だから、エーディットが子どもを身籠ることはない。それは、ラウレンスが一番よく知っている。
だから、今の言葉は、全て演技だ。
エーディットは、ゆっくりと瞬きをして、その演技に乗ることにした。
「子ができたら、先生が診てくださるの?」
「ええ、もちろん。ヒルベルタ様の時も、私がお世話いたしましたから。」
「それならば、安心だわ。私、周りにお産を経験した人がいないの。だから、不安で。」
「大丈夫です、奥様。私が支えますから。」
白い布越しだったが、手を握られると、その大きさに少し驚いた。ごつごつしたその手が、指の腹に触れると、過敏になった神経が、ぞわぞわした。
「おい」
ラウレンスの低い声に、一瞬、手が離れた瞬間に、エーディットの右手はラウレンスに回収された。
「これは、これは。使用人たちの噂は、誠だったな。」
「……うわさ?」
「奥様は、」
「余計なことは、言わなくていい。治療が終わったなら、さっさと帰れ。」
ホフマンは怖い怖いと、笑いながらエーディットから離れた。
この時、初めて、エーディットは、自分の右手がラウレンスの手に握られていることに気づいた。
「ホフマン先生、ありがとうございました。」
「いいえ。奥様」
平静を保とうとすればするほど、思考は上滑りしていく。ラウレンスは、エーディットをどうしたいのだろうか。失望させて、絶望させて、苦しめて、痛めつけて、そこまでされた理由はわかった。
でも、今は、どうしたいのだろうか。エーディットの手をからめとって、膿んだ傷に手を這わせて、どうするつもりなのだろう。
こうされると、エーディットは泡になりたくなった。今までは、泡にされてしまう、そう思っていた。でも、今は、ラウレンスのために、泡になりたいと思っていた。
恋は、人魚も人も泡にする。
エーディットは、初めて人魚が泡になることを選んだ理由が分かった気がした。
人魚も、私も、死んでしまう




