ハイドランジアは嘘をつく
陛下から恩賞の内容を問われた時、ラウレンスは答えを口にする、その瞬間まで迷っていた。ラウレンスは、迷ったことがない。迷うことが命を危険にさらすことだと認識して生きてきた。だから、悩むことも、迷うこともほとんどなかった。
ラウレンスが、ブラバントで、無理に武功を立てた理由は、結婚の許しを得るためだった。
王家の影として生きてきたラウレンスが、初めて望んだことだ。
騎士の仮面をかぶりながら、夜襲、暗殺、拷問、情報収集、情報操作、なんでもやってきたが、見返りはなく、目立たないことを求められる。
目立ってはならないラウレンスが、初めて望んだこと、それは、貴賤結婚だった。
泥にまみれたディアナを拾って、ともに泥水をすすって生きてきた。平民のディアナとの結婚を、願い出ようと思っていた。
だから、迷った。ファンデルのために、人質として、メイ家の娘を娶るか、己の望みのためにディアナを選ぶか。
「……報告は、これで全部です。」
「そう、ありがとう、ディアナ。」
情報を得るため、ディアナは自分の美貌を利用する。男に抱かれる時、必ず、官能的なチューベローズの香りをまとわせていた。
男に抱かれたディアナを、抱いてなだめるのは、ラウレンスの役目だった。どちらが望んで始めたことか、思い出せないが、ディアナが初めて情報のために体を使った日から、ずっと変わらずにしてきた。
同じ場所で生きてきたディアナとラウレンスの行為は、傷のなめ合いなのかもしれないと時折、思う。でも、ラウレンスには、呼吸をするためにディアナが必要だったのだ。
光を羨んで生きるラウレンスには、同じ影を生きるディアナが必要だった。
でも、たぶん、ディアナには違ったのだ。光を羨んで生きるディアナには、光が必要だった。
「ディアナ、」
「やめて!」
「……どうした?」
ラウレンスが結婚してからも、ディアナとの関係は変わらなかった。ファンデルの秘密に気づかない妻は、あくまで人質だったからだ。気づいてからも、変わらない。
ラウレンスの心が変わらない限り、妻は、人質から一歩だけ遠ざかっただけの監視対象だった。
「ラウは、結婚した。」
「ああ、したよ。でも、それは、ディアナとのことには関係ない。」
「私と結婚するって言ったその口で、求婚したんでしょ!?私と結婚するって言ったくせに。」
「あれは、人質だ。子どもができなければ、いずれ離縁する。」
ディアナは、鋭くラウレンスを睨み付けた。
「人質?完璧な家柄で、伯爵家の大事に育てられたお姫様。私と正反対な人間を選んでおいて、よくそんなこと言うわ。」
「……選んだわけじゃない。選べるなら、ディアナ、お前を選んだ。」
ディアナは睨み付けた瞳の光を強めた。それが、答えのように思えた。
「平民の私を妻に?そんなこと、あの方が許すはずない。」
「……許されたくなかっただけじゃないのか?」
ディアナに伸ばした手は、振り払われた。
「気乗りしなかった。だから、指輪を返したんだろ。」
「違う。ちゃんと結婚が決まってからって、言ったじゃない。」
「なら、一度でも着けたのか?試してみたのか?」
返ってきた沈黙に、ラウレンスは辟易した。言い合うだけ無駄だ。
光を羨んで生きるディアナは、光を欲している。ともに生きる影を必要としているのはラウレンスだけなのだから。
その日、初めて、チューベローズの香りをまとわされたディアナを抱かなかった。
手を振り払われた時に、移ったチューベローズの香りのせいで、頭の中は焼き切れそうだった。
涼やかと呼ぶには強すぎる風が吹いていて、雲に何度も月が隠れていた。わずかに窓を開けて、そこから月を眺めるのが、妻の習慣であることくらいは、報告を聞かなくとも知っていた。
風の音が煩わしくて、わずかに開けられていた窓を閉める。
驚いた妻が、振り返った。赤い髪、青に近い灰色の瞳。そのどれも、ディアナとは違う。
違ってよかったと思う瞬間もある。でも、同じであれば、結果は変わっていたのかもしれないと思う瞬間もある。
「驚きましたわ。お帰りなさいませ。」
どちらかと言えば低いディアナの声とは違う。リピーヴァ王国の平均的な女性よりも小さな体からは、心地よいが少し高い声がする。
不安そうにしていたエーディットは、思い出したように微笑んだ。最初の頃、見せていた純粋な微笑みではなく、ただ、そうしなければならないと感じているような微笑みだった。
むしゃくしゃした。
「なんで、今日に限って、」
「え?」
チューベローズの香りをさせて帰った日から、エーディットが微笑みの種類を変えたことに、ラウレンスは気づいていた。
それに対して、なぜか、腹が立った。何も聞かない、何も言わない、それが妻ができる最良の選択だったが、腹が立った。
お飾りの妻で、始末する予定の娘に、腹を立てる理由なんて一つもないのに、腹が立った。それと同じ微笑みを、エーディットは今も浮かべていた。
ラウレンスは、エーディットに手を伸びし、容赦なくベッドに引きずり倒した。この手に触れたのは、言葉だけの宣誓をした時と、雷の日、その2回だけだ。
膝の間を割り開くように、体をねじこみ、手首を骨が軋むまで掌で抑え込んだ。エーディットを征服することを、自分は望んでいたのだろうか。警戒させ、支配し、それでも屈しないエーディットを、自分はどうしたいのだろうか。
エーディットの不思議な色の瞳が、ゆっくり、瞬きをする。右の目から一筋だけ、涙がこぼれた。
「くそっ」
この娘を、苦しめ、哀しませ、泣かせることに意味はあるのだろうか。寝室から出ると、フランカが立っていた。
フランカは、監視のために、エーディットにつけていたのに、いつの間にか番犬になっていた。
「どうして、」
主人にも吠える番犬だ。
どうして、悲しませるのか。どうして、苦しめるのか。どうして、傷つけるのか。
どの疑問に対する答えも同じだ。
「そんなこと、わかんないよ。」
エーディットを傷つけた分だけ、ディアナに近づけるわけではない。エーディットを悲しませた分だけ、ディアナとの将来に近づけるわけではない。
そんなことは、分かっていた。
でも、エーディットが微笑むたびに、ラウレンスの心が乱れる。人形のような微笑みを見るたびに、もう二度とそんな表情をできないように、苦しめて、痛めつけて、悲しませてやりたくなった。




