表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人魚の冷えた恋  作者: 東屋千草
人魚の冷えた恋
21/54

ハイドランジアは嘘をつく




陛下から恩賞の内容を問われた時、ラウレンスは答えを口にする、その瞬間まで迷っていた。ラウレンスは、迷ったことがない。迷うことが命を危険にさらすことだと認識して生きてきた。だから、悩むことも、迷うこともほとんどなかった。

ラウレンスが、ブラバントで、無理に武功を立てた理由は、結婚の許しを得るためだった。

王家の影として生きてきたラウレンスが、初めて望んだことだ。

騎士の仮面をかぶりながら、夜襲、暗殺、拷問、情報収集、情報操作、なんでもやってきたが、見返りはなく、目立たないことを求められる。

目立ってはならないラウレンスが、初めて望んだこと、それは、貴賤結婚だった。

泥にまみれたディアナを拾って、ともに泥水をすすって生きてきた。平民のディアナとの結婚を、願い出ようと思っていた。

だから、迷った。ファンデルのために、人質として、メイ家の娘を娶るか、己の望みのためにディアナを選ぶか。


「……報告は、これで全部です。」

「そう、ありがとう、ディアナ。」


情報を得るため、ディアナは自分の美貌を利用する。男に抱かれる時、必ず、官能的なチューベローズの香りをまとわせていた。

男に抱かれたディアナを、抱いてなだめるのは、ラウレンスの役目だった。どちらが望んで始めたことか、思い出せないが、ディアナが初めて情報のために体を使った日から、ずっと変わらずにしてきた。

同じ場所で生きてきたディアナとラウレンスの行為は、傷のなめ合いなのかもしれないと時折、思う。でも、ラウレンスには、呼吸をするためにディアナが必要だったのだ。

光を羨んで生きるラウレンスには、同じ影を生きるディアナが必要だった。

でも、たぶん、ディアナには違ったのだ。光を羨んで生きるディアナには、光が必要だった。


「ディアナ、」

「やめて!」

「……どうした?」


ラウレンスが結婚してからも、ディアナとの関係は変わらなかった。ファンデルの秘密に気づかない妻は、あくまで人質だったからだ。気づいてからも、変わらない。

ラウレンスの心が変わらない限り、妻は、人質から一歩だけ遠ざかっただけの監視対象だった。


「ラウは、結婚した。」

「ああ、したよ。でも、それは、ディアナとのことには関係ない。」

「私と結婚するって言ったその口で、求婚したんでしょ!?私と結婚するって言ったくせに。」

「あれは、人質だ。子どもができなければ、いずれ離縁する。」


ディアナは、鋭くラウレンスを睨み付けた。


「人質?完璧な家柄で、伯爵家の大事に育てられたお姫様。私と正反対な人間を選んでおいて、よくそんなこと言うわ。」

「……選んだわけじゃない。選べるなら、ディアナ、お前を選んだ。」


ディアナは睨み付けた瞳の光を強めた。それが、答えのように思えた。


「平民の私を妻に?そんなこと、あの方が許すはずない。」

「……許されたくなかっただけじゃないのか?」


ディアナに伸ばした手は、振り払われた。


「気乗りしなかった。だから、指輪を返したんだろ。」

「違う。ちゃんと結婚が決まってからって、言ったじゃない。」

「なら、一度でも着けたのか?試してみたのか?」


返ってきた沈黙に、ラウレンスは辟易した。言い合うだけ無駄だ。

光を羨んで生きるディアナは、光を欲している。ともに生きる影を必要としているのはラウレンスだけなのだから。

その日、初めて、チューベローズの香りをまとわされたディアナを抱かなかった。

手を振り払われた時に、移ったチューベローズの香りのせいで、頭の中は焼き切れそうだった。

涼やかと呼ぶには強すぎる風が吹いていて、雲に何度も月が隠れていた。わずかに窓を開けて、そこから月を眺めるのが、妻の習慣であることくらいは、報告を聞かなくとも知っていた。

風の音が煩わしくて、わずかに開けられていた窓を閉める。

驚いた妻が、振り返った。赤い髪、青に近い灰色の瞳。そのどれも、ディアナとは違う。

違ってよかったと思う瞬間もある。でも、同じであれば、結果は変わっていたのかもしれないと思う瞬間もある。


「驚きましたわ。お帰りなさいませ。」


どちらかと言えば低いディアナの声とは違う。リピーヴァ王国の平均的な女性よりも小さな体からは、心地よいが少し高い声がする。

不安そうにしていたエーディットは、思い出したように微笑んだ。最初の頃、見せていた純粋な微笑みではなく、ただ、そうしなければならないと感じているような微笑みだった。

むしゃくしゃした。


「なんで、今日に限って、」

「え?」


チューベローズの香りをさせて帰った日から、エーディットが微笑みの種類を変えたことに、ラウレンスは気づいていた。

それに対して、なぜか、腹が立った。何も聞かない、何も言わない、それが妻ができる最良の選択だったが、腹が立った。

お飾りの妻で、始末する予定の娘に、腹を立てる理由なんて一つもないのに、腹が立った。それと同じ微笑みを、エーディットは今も浮かべていた。

ラウレンスは、エーディットに手を伸びし、容赦なくベッドに引きずり倒した。この手に触れたのは、言葉だけの宣誓をした時と、雷の日、その2回だけだ。

膝の間を割り開くように、体をねじこみ、手首を骨が軋むまで掌で抑え込んだ。エーディットを征服することを、自分は望んでいたのだろうか。警戒させ、支配し、それでも屈しないエーディットを、自分はどうしたいのだろうか。

エーディットの不思議な色の瞳が、ゆっくり、瞬きをする。右の目から一筋だけ、涙がこぼれた。


「くそっ」


この娘を、苦しめ、哀しませ、泣かせることに意味はあるのだろうか。寝室から出ると、フランカが立っていた。

フランカは、監視のために、エーディットにつけていたのに、いつの間にか番犬になっていた。


「どうして、」


主人にも吠える番犬だ。

どうして、悲しませるのか。どうして、苦しめるのか。どうして、傷つけるのか。

どの疑問に対する答えも同じだ。


「そんなこと、わかんないよ。」


エーディットを傷つけた分だけ、ディアナに近づけるわけではない。エーディットを悲しませた分だけ、ディアナとの将来に近づけるわけではない。

そんなことは、分かっていた。

でも、エーディットが微笑むたびに、ラウレンスの心が乱れる。人形のような微笑みを見るたびに、もう二度とそんな表情をできないように、苦しめて、痛めつけて、悲しませてやりたくなった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ