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人魚の冷えた恋  作者: 東屋千草
人魚の冷えた恋
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赤いユリの矜恃




「来ていただけるとは思いませんでしたわ。」


エーディットは、冬の庭で、最も気に入っていた屋内のバラ園にいた。ガラス越しに太陽の光が部屋に入り、温かな室内に季節を無視して咲くバラを照らす。

名前のない屋内庭園に、エーディットは、ローダンテの庭と名付けた。美しく、賢く、誇り高いローダンテは、アポロンに射られバラに姿を変えた。


「手紙の署名は、ラウレンス様のものでしたから。」

「でも、その字が、夫のものではないことを、あなたは知っているでしょ?」


一度も手紙を受け取ったことのない、エーディットとは違って。


「夫は、今日も職場にいたはずです。あなたは、ここで私が待っていることを知りながら来た。」

「……そうですね。本当は、分かっていました。」

「正直な方。」


フランカに手で示されて、ディアナはエーディットの向かいの椅子に座る。想像していたよりもずっと、騎士服姿のディアナは麗しかった。


「少し、話をしてみたくて、夫の名前を騙りました。」


このことを、夫は?

尋ねると、ディアナは小さく首を振る。その神妙な顔に、エーディットは笑ってしまった。


「刺し殺したりなんてしないわ。だから、そんなに警戒しないでくださいな。もっとも、私では、刺し違えることさえ、叶わないでしょう。」

「そんなことは、思っていません。」

「嘘が、苦手なのね。」


ディアナは、とても淀みなく話す。そこに、嘘がないように装うのに、エーディットにはそれが嘘だとすぐわかった。ディアナの嘘は、ラウレンスの嘘よりもずっと稚拙だ。


「あなたは、どんな仕事を?」

「騎士として、戦場にも立ちますし、事務仕事も行います。」

「女性なのに、すごいのね。平民が騎士になるのも異例だわ。」


騎士は貴族の役割だ。剣を持ち、戦い、国を守ることは貴族の義務ともいえる。守られるべき平民の義務ではない。


「……ラウに、拾われました。」

「そう、なの。」


ならば、きっと。それだけが仕事ではないのだろう。ラウレンスは、エデゥアルトとは違う。愛するものにも、同じ現実を与え、同じ現実を生きようとするだろう。それが、泥水をすするような人生なら、ともに泥だらけになることを選ぶ。

一方で、ラウレンスは、無関心なものには、夢を与える。覚めることのない夢を与えて、決して同じ場所を生きようとはしない。

この屋敷という夢の中に、エーディットを閉じ込めて、着せ替え人形にするのだ。似合わないドレスに、似合わないアクセサリーを身に着けさせる、バラのように沈黙した人形を、ただただ飼殺す。


「あなたは、同じ現実を生きられるのね。」

「……それが、良いことだと?」


ひどく不服そうに呟いた。ディアナが初めて、不機嫌さをあらわにする。近くに立っていたフランカが一歩近づいた。


「分からないわ。現実は、残酷で、悲しいものだから。」


エーディットは、ゆっくり紅茶を口に含む。自分でも気づいていなかったけれど、喉がからからに乾いていたようだった。


「でも、醒めない夢というのも、残酷なのよ。誰も同じ夢は見られないから、孤独だわ。」

「そういうものでしょうか。」


エーディットは、ふふふと笑って、そういうものよと答えた。

エーディットは、扇子を広げて、ディアナの耳元に近づける。ご婦人が甘美な内緒話をする所作だった。


「あなたに何か一つでも、欠けているものがあれば、私はこんなに惨めにならなかったのかしら。」


小さく囁いた後、さも楽しそうに笑った。いや、本当に楽しかったのだ。

例えば、ディアナが嫌な女だったら、エーディットはこんなに惨めにならなかったのだろうか。でも、ディアナが完璧であればあるほど、自分が選ばれない理由に納得できる。欠けていないディアナを選んだ夫が、欠けている自分を選ぶはずがない。手に入らないものを嘆く必要はない。


「あなたが、嫌な女だったら、憎むことも蔑むこともできたのに。あなたが心も美しい人だから、私は何も言えなくなるのよ。」

「私は、」

「でも、それで良かったと思ったわ。沈黙のバラも悪くないものでしょう?」


ディアナに微笑んで見せる。虚栄ではなく、ただただ、おかしくて笑った。

バラの香りで満たされたローダンテの庭を、エーディットが気に入っていたのは、豊かな芳香の中に居れば、チューベローズの香りを思い出さずに済んだからだ。

でも、今は、絶望の香りが、エーディットを包み込んでいた。なぜだか、それも悪くないと、そう思った。





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