ラベンダーのつま先
あの夜のことを無かったことにした夫に合わせて、エーディットも忘れることにした。夫のためではなく、自分のために、お芝居を続けることにしたのだ。
とても似合うよ。
そう言われて、エーディットは、はにかんだように微笑を夫に向ける。
どこが?
女優はきっとそんなこと言わない。だから、言いそうになった唇を扇子で隠した。
冬の晩餐会は、思いの外、華やかだった。社交のシーズンではないから、きっと、本当に友人だけで開かれているのだろう。
新しい友人として紹介されたエーディットにも、ご婦人方は優しい。優しい夢を見せるエデゥアルトは、きっと妻の友人にも「優しい友人」という役を与えているのだ。
他でもないエーディットにもその役割は与えられている。
晩餐会も終わりに近づくと、女性たちはティールームで紅茶を、男性たちはシガールームでウイスキーを片手に談笑する。
ティールームもセンスのいい家具が配置されていて、居心地はいい。華やかに着飾った女性たちがおのおの席に座っていた。
「あら、珍しい。」
「……どうなさったの?」
新しく「優しい友人」になったドリカが、遅れて入ってきた女性に視線を向けた。
「ディアナ様だわ。」
「あら、本当。」
ディアナ、月の女神と同じ名前だ。
その名前に負けない美しさが目を引く。気後れするほど美しい金色の髪に、水色に近い青の瞳。神様が愛してやまない顔に、踵で誤魔化す必要のない、すらりと高い身長、長い手足。
彼女が覗いた鏡に、後から自分を映しこむことさえ、嫌になる美しさだった。晩餐会では、気づかなかった。彼女はとにかく人目を引いたが、ご婦人方と仲が良いようには見えなかった。
「エーディット様は、ご存じないでしょ?」
「ええ、無知で恥ずかしいことです。どなたのご夫人でしょう?」
「あの方、ご結婚はされてないの。それに、珍しいと言ったのは、騎士服じゃないから。あの方ね、夫の同僚として働いていらっしゃるの。女性なのに、ご立派でしょ?」
「まあ、剣を握ってらっしゃるの?」
「そうらしいの。平民の出のようだけれど、立派だわ。いつもは、こういった会には、騎士服でいらっしゃって、シガールームに向かわれるのに、珍しいわ。」
ディアナの騎士服姿は、きっと様になるのだろう。神が作った女神は、きっとどんな姿でも麗しい。
「こちらにいらしたわ。」
咳払いで誤魔化すように、ユリアナが小声でつぶやくと、皆、緊張したように居住まいをただす。
「失礼、私も同席しても?」
「ええ」
ユリアナはもちろんと、微笑んでから、侍女に紅茶を運ぶように合図した。
「こちらにいらっしゃるなんて、珍しいわ。」
「……今日は、この格好ですから、シガールームはおかしいかと思って。」
「その格好なのも珍しいわ。もちろん、こちらの格好もお似合いです。」
濃くはっきりとした色は、ディアナによく似合う。自分が着ている似合わないイブニングドレスも、きっとディアナにはよく似合うのだろう。
そう思った瞬間に、チューベローズが香った気がした。
「……とても、いい香りですね。」
エーディットは、静かに聞き手に徹していたのに、思いがけず声を出してしまった。ほかのご婦人方は、侍女が持ってきた茶菓子に夢中になっている。
「チューベローズの香りだわ。」
ディアナは、エーディットの言葉に動揺したように、自分の手首を鼻に近づけた。エーディットがしたら、不作法だと顰蹙を買う行為でも、女神がすれば美しい所作に変わる。
「え、いえ、今日はつけてないはず……」
ディアナは、はっとしたようにエーディットを見つめた。
そうか、そうだったのか。
エーディットは、霧の中でランプを落とした気がした。ランプが砕け散るその一瞬だけ、足元が照らし出されたが、今度は自分の指先さえ見ることができないほど真っ暗になった。
美しい容姿、騎士という地位、にじみ出る品性、そのどれをとっても、エーディットを惨めにさせた。
恋愛小説のヒロインのようなディアナ。その小説のヒーローが誰か、エーディットには考えなくてもわかった。




