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人魚の冷えた恋  作者: 東屋千草
人魚の冷えた恋
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私を殺すスノードロップ




「旦那様のお帰りです。」


図書室にこもるエーディットに、それを告げに来るのは、侍従のトビアスの仕事になった。最初は、ドロテアがいやがらせのように告げに来ていたが、そのうち来なくなった。

女主人のように、ラウレンスを迎えるのがドロテアの仕事になったらしいが、興味はない。


「そう、ありがとう」


無機質な美しさを纏う侍従の方に、わずかに目線を上げて答えるが、すでにトビアスの姿はなかった。

誰が、知らせに来ても、エーディットが迎えに出ることはない。

ラウレンスは、エーディットが出迎えなくなったことを、咎めない。気づいてもいないかもしれない。そんなことに虚しさを覚えるのはやめた。


「……おかしいわ。」

「どうされたのですか?」


近くに立っていたフランカが、首を傾げる。エーディットは、静かに首を振った。

いくつか建国にまつわる本を読んだ。そして、最近になって、ファンデル家の家系図と、王家の家系図、そしてファンデル家に関する賞与の記録を読み漁っている。


「もうすぐ、晩餐の時間です。」

「気分じゃないの。体調が優れないとでも伝えて。」

「……何か口にされないと。」

「ええ、もちろん。ここに軽食を持ってきてくれる?」


義母に会ってから、食欲は戻ったし、眠りも深い。エーディットの顔色もよくなったが、ラウレンスと食事をする気にはならなかった。理由がわかるまで、少なくとも、一緒に食事をするつもりはなかった。

軽く軽食を取ってから、エーディットは過ごしやすい軽装に着替えた。

夜が更けてから、フランカも下がらせる。ろうそくの明かりは、本を読むには暗すぎるが、系譜を照らし合わせる程度ならできた。


「やっぱり……」


王家に男児が生まれるとき、必ずファンデル家にも子どもが生まれている。王家の男児が年子であれば、ファンデル家も必ず年子だった。

ファンデル家は、王家に直接仕えているわけではない。王家に騎士として仕える名門ボスフェルト家に仕える家柄だ。

その割に、ボスフェルト家との関係は希薄で、記録にもほとんど登場しない。

そして、定期的に武功を上げる。それも目立ちすぎず、さりとて、軽んじられるわけではない程度の武功だ。

それは、王家に名前を忘れさせないための武功のようにも見えたが、そうじゃない。貴族に、ファンデル家を軽んじさせないための武功だ。それは、定期的に計算されたように、そして、不自然じゃない程度に史実に食い込まされている。

違和感はそれだけではなかった。

ファンデル家の系譜は不自然だった。家系図は、とても中途半端に始まったかのように見える。まるで、途中から書き始めた家系図のようだった。メイ家よりも短いと言われる家系図は、まるで、そう装っているようだった。本当は、もっと歴史が長いのに、わざと浅く見せているような、そんな家系図だった。

歴史を長く偽る必要はあっても、浅く偽る必要はないはずだ。

そこから、導き出される答えは、一つだ。

ファンデルは、この国の闇、王家の影なのではないか。王家のために、汚れ仕事を担う影。本来の騎士とは違う役目を負った家。


「……そういうこと。でも、」

「でも?」


エーディットは、飛び上がりそうになる心臓を抑えて振り返った。


「ラウレンス様……」

「ずいぶん、遅くまで調べものをしていたんだね。」

「……ええ。少し、歴史を調べていましたの。私、何も知らずに嫁いだものですから。」

「勉強熱心なのは良いことだよ。思っていたよりも、時間がかかったけどね。」


エーディットは静かに見つめた。

そして、背中側にある本棚を見上げた。必要な本は、すべて、エーディットの目線の近くにあった。これは、気づかせるためだったのだ。


「で、でもって、なに?」

「……定期的な武功はどれも、不自然じゃなく、目立ちすぎず、軽んじられない程度にされてきました。」

「そうだね。」

「でも、ラウレンス様の武功だけは違います。不自然で目立ちすぎていて、そして、色が違う。」

「色?」

「今まで、王から直接、恩賞の内容を問われたりしていなかった。事前に打ち合わせていたから必要なかったのでしょう。でも、今回は違う。ラウレンス様は、わざわざ、私との縁談を願い出ている。今まで、縁組を望んだことなんてなかったのに。」


ラウレンスは、肩をすくめた。


「どうしてだと思う?」

「そうしなければならない理由があった。無理に武功を立てて、縁組をしてまで、私を手元に置きたい理由……。お父様の功績、」

「ああ、近いね。」

「父が優秀だから?」

「まあ、近いね。これ以上は、まあ、いいかな。我が家のことに気づけたみたいだし。教えてあげよう。」


ラウレンスは、手を広げて、椅子に座るよう促した。警戒しながら、エーディットが座ると、ラウレンスも向かい側に座る。


「君のお父上は優秀だった。ユトレヒトの州主が功績を認めて、王家が目をつけるくらいにはね。陛下は、君の父親に、国庫の収支を改善させるために一部の帳簿を、見せたんだ。」


そしたら、どうなったと思う。

ラウレンスは、どこか愉快そうだ。


「たった一部なのに、金の流れから、ファンデル家が影であることに気づいた。」

「……え」

「ファンデル家が影であることを知るのは、王家とボスフェルトだけだ。しかも、ファンデル家が影であることに気づくことが立太子の条件だ。それを、君の父親が知ってしまった。」

「だから、無理やり、理由をつけて。」

「そう。」

「つまり、私は、人質。」

「そうだよ。まあ、さっきまではね。君は自分で気づいたから。だから、まあ、人質から格上げかな。」


父は、気づいていた。気づいていて、言えなかったのだ。


「本来なら、結婚したら教えてあげるんだけど。君が父親から聞いてたかどうかが、知りたくてね。黙ってた。」

「……もし、聞いていたら?」

「さあ、君のお父君が、不幸な事故にあっただけじゃないかな。」


口の軽い人間は、ファンデル家には危険だからね。

軽く吐き出された言葉に、エーディットは背中が粟立った。


「もし、私が気づかなかったら?」

「……さあ?」


その続きは聞かなくてもわかった。

エーディットが不幸な事故にあっただけだ。だから、義母は必死に気づかせようとした。誰かが、本の配置を変えた。

夫の妨害の中、エーディットを守るために。


「つまり……」


つまり、夫は、エーディットを殺そうとしていたのだ。気づかせないように、ドロテアを使ってまで、妨害した。

ラウレンスが、エーディットの頬に触れた。あの甘い香りが鼻腔をくすぐる。エーディットは、微笑んだ。滑稽なほど完璧に、悟られまいとする。

どうして、こんなに感情が揺れるのだろうか。どうして、この人のために、こんなに感情が揺さぶられるのだろうか。自分を殺そうとしていた夫のために、どうしてこんなに泣きたくなるのだろうか。

エーディットは、あの日、感情に名前を付けたことを、後悔した。

これが、恋だというのであれば、この恋は、エーディットをいつか殺すだろう。自ら刃を突き立てて、エーディットを海の泡に帰すのだろう。そう思った。





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