GAME OF SHADOWS#11
二人の帝王はたまたま全面戦争を回避する事ができた。しかし歴史の裏にいる実体は、まだ己の楽しみを諦めていなかった…忌むべき悍ましい者の陰謀が起こる中、騎士ローランドはこれから死にに行こうとしていた。
登場人物
―ローランド…フランク王国の騎士、ブルゴーニュ辺境伯。
―M…マーリンであり、メフィストフェレスであり、マナナンであり、その他大勢である者、裏で糸を引く邪悪。
八世紀後半:イベリア半島、ピレネー山脈
ローランドは己の戦友達が血に沈む様を見て嘆く他無かった。殿として覚悟はしていた。少なくとも己については。
であるが、全ては血に深く沈んで行った。仲間の死はさすがに苦し過ぎた。ああ、神よ。慈悲を賜りたく。
小札鎧の破片がそこらに散る程の激戦であった。血肉が道や野に転がり、地の利のあるバスク人は実に激烈な襲撃を掛けたものであった。
多くの敵を斬り伏せてやったとは思うが、しかしそれでも戦況を覆すに至らなかった。
角笛を吹いて救援を呼んでいれば、あるいは文字通りの全滅になる事も無かったかも知れなかったが、しかし結果はこうであった。
ローランドにしてみれば総大将を逃さすために己らが残ったのであって、どうあっても彼らを引き返さすのは躊躇われた。
宮廷の重臣達や貴族達が相次いで戦死し、それは奇襲による死者と居残り部隊の死者に大別できた。
フランクの偉大な帝王チャールズは図らずしも命からがら逃げ帰る事となった次第で、それを思うと辺境伯ローランドは己の主君のキャリアの汚点が重く伸し掛かった。
手負いの軍馬がその鎧と共に藻掻き苦しみ、今では友軍の人のそれと思われる生命兆候は何一つ見聞きできなかった。敵は一旦退いたが、余裕をもって態勢を立て直す事ができるというものであった。
対する己らはどうか。〈剛なりし刃〉は窮極的とも言える強度であった。
傷一つ見えず、その腐敗した魚の切り身のごとき優美な刃は、美し過ぎるが故に明らかに人間の作ではなかったものと思われた。
己の君主たるチャールズ大帝のそれの兄弟剣であると思われ、しかし深く観察するとどこか不安になる、渦巻く混沌が見えるような気がした。
となれば、この美しい肉腫じみた剣は神に祝福されし聖剣ではなく、悪魔の吐息が掛かった尋常ならざる魔剣であるのか?
しかしなんであれもう遅かった。無傷の剣に比べ己はただ一人、共に立つ味方とて無く、多勢に無勢。
あるのはぼろぼろの鎧と盾と、果てた名馬の返り血と、尽きぬ意地。そして主とイエスと聖霊――三位一体なる神の総体――への変わらぬ信仰のみであった。荘厳な教会におけるミサの記憶が蘇り、一瞬だけ心が温まった。
であれば、それでよしとしよう。我が王は落命せなんだ。我が身はここにて朽ちるなれど、かの王なれば必ずやその働きに相応しき戦後処理を行なうであろう。となれば、今更何を怖がろうか?
元より友はおろか見渡す限り全ての友軍将兵を喪った身、となれば後は栄光に縋って最期の華を咲かせるしかない。神は必ず見ているであろう。
己は確かに、人生全体を見れば理想的なキリスト者ではなかったかも知れない。
しかしあるいは慈悲深い神の許しが、これから起こるであろう討ち死にによって下るかも知れなかった。とは言えいずれでもよかった。
行き先が天国ではなく地獄であろうと、最後の審判の日に下される沙汰がそれであろうと、主君を敬い神を畏れる心は不動であった。
残るはいっちょまえに『神よ、何故私を見捨てられたのですか』と嘆いて見せるか。そうやって冗談を考えられる程度には余裕が戻って来た。
なるほど、精神論が全てとは言わないが、しかし精神が健全でなければ死に様すら無様か。
不気味なぐらい晴れた空の下で、青々としたピレネー山脈の高地に爽やかな風が吹いた。八月であるというのに標高の高さ故かそこまで暑苦しくはなかった。倒れた雑多な荷物の裏へ背を預けて束の間天を仰いだ。
騎士として殿の決断を疑うつもりは無かったし、間違った主君に仕えたとも思わなかった。
しかしもしかすると、バスク人に対する処遇が厳し過ぎたのかも知れなかった。彼らがアラブ人やムーア人と結ぶかも知れぬとしてその都を叩いたのだ。
帰路を万全にするというのは何も間違っていないように思われた。騎士として命令があれば同じ事をまたするつもりであった。潜在敵の都を粉砕せよと言われれば何度でもそうしてやろう。
ではあるが、だからこそここで己は果てねばならぬという気もした。正直に申せばそういう気持ちも、華々しい最期への想いと同じぐらい大きかった。
使命には従うが、できればバスクの都を攻める事が無い方がよかった。チャールズには変わらぬ忠を尽くしているつもりであるが、思えば悲しい任務であった。
南へ遠征に行ったはいいが、アッバースの知事どもは約束を違えて立てこもり、サラゴーサは聖剣の一撃によっても陥落せぬ始末。元はフランク王国・アッバース朝連合軍vsアンダルスのウマイヤ朝の構図であった。
となれば、陣中にアッバース側の人質を取ったままでアッバースの者どもが立てこもる街を包囲しているのをアッバースの援軍――カリフ直々に送った遠征軍――が見れば、到底よい気分はするまい。
西の大国と東の大国が対立してしまえば、ただでさえ単純なキリストvsイスラームの構図ではない複雑な世界情勢に更なる混沌を招くであろう。
更には本国から別の敵が動いたとの報もあり、フランク方としては撤退する以外に道は無かった。
殿と直接話したところによると、密かにあのアンダルス総督と直接会談を行なったらしい。撤退はその結果でもあろう、賢い巨人同士は決して対決を望まぬが故。
しかし殿は猜疑に駆られたのかも知れなかった。ウマイヤ最後の王子が約束を早急に破棄するとは思っていなかったが、しかしあの二枚舌のアッバース方の連中が何かするかも知れなかった。
そして可能性としては、チャールズにとってバスク人は今ひとつ信用できなかった。
バスク人の住まう首都を攻撃し、これを屈服させよと言われた時、騎士達の間にはどことなく『これは道ならぬ戦いではないか』というムードがあった。ただ、どれも忠義篤き者どもであるから、あえて諌める者とて無かった。
殿には殿の考えがあり、それは長期的な視点で見た場合の祖国のためであると判断したのだと信じて、皆が無名戦士の墓に眠っているのだ。
後悔はしない。後悔すればそれは信じて戦った同胞への侮辱であるから。しかし、騎士にそぐわぬ残虐な任務が下る事が二度とあって欲しくないと願っていた。
その意味で言えば、ここで討ち死にする事でこれ以上己が罪無き弱者を殺傷する事も無いように思われた。
雲を探そうとして何分か見続けた空に何も見えず、彼は困惑して苦笑した。やがて足音が聞こえ始めた。
そうか、ここが終わりか。高原は静かで、かつ穏やかであった。死に場所としては悪くない。
ローランドは跳躍して物陰から現れた。ぼろぼろの鎧とぴかぴかの剣。それで充分であった、周りには友がいて、見守ってくれているから。天からは主がご照覧なさっているから。
「ローランドはここにおるぞ! 貴公らにとって憎き悪魔であろう拙者は未だ健在ぞ! 命知らずにも誰ぞ挑みたい者あれば、どうぞそうするがよい。ここには卑怯も無し、好きに打ち好きに撃つがよかろう!」
言い終わったと同時に矢が飛来し、彼はそれを剣で叩き落とした。
「いかがした? 一本の矢ではなく矢衾とせねば通じぬなれば、もっと多くを撃ってよこせ! でなければ貴公らの悉く、拙者に引き摺られて共に地獄行きとなろうぞ!」
多くの矢が雨として降り注ぎ、晴天が暗くなった。ローランドは己に降り掛かる全てを斬り払った。
それからデーン人やノルマン人の荒武者のごとく咆哮して威嚇すると、敵もまた各々大声を上げて走り寄って来た。
見れば後方にバスク方の大将と思われる者が見えた。名前は忘れたが地元の伯であろう。
その目はぎらぎらと輝き、冬のアルプスのごとく冷たく閉ざされていた。
ローランドは剣を振り被って大きく跳躍し、そのまま敵陣へと落下しながら斬り込んだ。敵は軽装であるが、しかし数はとても多かった。
ならばこれでよい、殿の身代わりとなれるのであるから。破れかぶれの兜の間から銀髪が陽光を受けて輝き、それ以来ローランドは二度と戻らなかった。
サラゴーサの誰もいない宮殿の中で、悍ましい笑みを浮かべた一人の男が爆笑していた。
まさかチャールズの奴、せっかく僕のコントロール下から脱したのに自分で判断を誤って負け戦を作るとは。まあとは言え、そのような事情すら知るまい。
チャールズもアブド・アッラーマーンも駒でしかない。死ねば〈影達のゲーム〉行きが決まっていたが、それは接続が途切れた事で不可能となった。
しかし結局彼らは僕の掌の上。これを笑わずして…。
「ああ、本当に爆笑しちゃうなぁ!」
げらげらと笑う蛇の者は薄暗い室内でピレネーの情景を描写していた。幼稚で自己満足の騎士道精神と忠誠心と信仰心とを掲げて死に場所を見付けたつもりのローランドを嘲笑った。
混沌が作り上げた剣を手にしているという事実を知らぬままそれらの立派な文句を掲げる彼が最高傑作に思えた。
無数にいる己の側面が送ってくる情報としては、この瞬間で見れば一番笑える情報であった。
「立派な自己犠牲に浸る騎士…様…ああ、笑い過ぎて辛いね! その騎士様が、ははは、僕の作った剣を持ってそうとは知らず――あー、腹痛い――手にして騎士ごっこ! 『チャールズ、あなたに私の全てを捧げます』『よかろう、そなたこそ我が第一の騎士』だなんて、混沌の主君同士が知らないままやってやんの!」
玉座にてとぐろを巻く邪悪な大蛇が人の姿を取っているかのような男は、腹が痛くて堪らなかったのであった。
二本の〈混沌剣〉を動かせなくなったのは損失であるが、最後にとても楽しい思いをさせてもらったので満足できた。何せ予備の〈剛なりし刃〉は未だそのコントロール下であったから。
かようにして、歴史の裏にいる何者かが騎士ローランドの死の真相に潜んでいるらしかった。
悍ましきそれは何者であるかもわからず、無数の嘘と混沌を撒き散らす様は北欧のさる神を想起させるところもあった。
かくして人類の歴史は今暫く、忌々しいMの横暴に甘んじなければならぬらしかった。




