GAME OF SHADOWS#10
時は帰還後へと飛ぶ。戦勝したオスマン帝国、そのスルターンは宮殿で妻達に出迎えられるが――複雑なパワーバランスの上で成り立つ奇妙な夫婦の危うい家族関係、ハーレムの現実。
登場人物
―バヤズィッド・ビン・ミュラード…雷撃を操るオスマン帝国の第四代スルターン、雷帝バヤズィッド一世。
―アンジェリーナ・ハトゥーン…バヤズィッドが一番目に結婚した妻、ビザンティン帝国の皇女。
―ハフサ・ハトゥーン…バヤズィッドが七番目に結婚した妻、アイドゥン侯国の侯女。
―デスピーナ・ハトゥーン…バヤズィッドが十一番目に結婚した妻、セルビア公国の公女。
一三九六年:オスマン帝国領、首都エディルネ、宮殿
「さて、僕が帰ったよ。雷電の帝王であるこの僕がね」と青年は高らかな声で言った。
初期オスマン建築によって建てられた宮殿は美しく、今のところルーム・セルジュークの影響が強く残っているように思われた。
そういう意味では、ルーム(ローマ)を意識しているこのスルターンの邸宅として相応しいのかも知れなかった。
白を基調とした宮殿内は所々で抽象芸術の彫刻や文字が見え、しかしかつて彼らが草原の民であった事を匂わせる具象性のある部分もあった。
見事な曲線を描く柱と天井の織り成すアーチを幾つも潜った先にあるエリアへと足を踏み入れたスルターンは、己が最初に結婚した妃によって迎えられ、抱擁を交わした。
「お帰りなさい、愛しい人よ」
「ああ…会いたかったよ、僕の可愛い天使殿下」と雷帝は微笑みつつ穏やかだが感嘆を帯びた声で言った。
「もう…」とアンジェリーナは顔を背けた。七歳下のバヤズィッドは彼女を頑なに歳下の乙女のように扱う。
が、それを本気で嫌うわけではなく、内心では嬉しくも思っていた。
衛兵はここより先にはおらず、完全に家族のための空間となっていた。
臣下は非常時の備え云々でそれを咎めたが、しかし多くの妻を持った責任を重んじるスルターンはせめてもと家族の時間を大切にし、その一環でこのような方策を採っていた。
小さなテーブルに置かれた細密な細工の金属香炉から暖かな香りが流れ、辺りを満たしていた。
アンジェリーナは地中海を思わす抜けるような金髪と蒼の目を持ち、母からギリシャ人の血を継ぐバヤズィッドともどこか気が合う部分があった。
彼女は公の場ではともかくこうしたプライベートな場では装飾を嫌い、どこか遊牧民的意匠を残す藍色の質素なドレスを纏っていた。
「あ! 旦那様、旦那様ー!」
とても若い声が聴こえ、二人は向かい合ったままでその声がする方へ顔を向けた。小柄な娘が彼らの元へと駆けてきていた。
質素なアンジェリーナと比べて金で首周りを装飾し、東南アジア式のジルバブ風に色とりどりの布で頭部を覆い、そして口元を薄布で隠していた。
ここは公共の面前ではないのでスルターンの妃達には女性的な容姿を隠す必要も無いが、しかし彼女は若く元気な一方でプライベートな場でも恥ずかしがり屋なところがあったらしかった。
「おやおや、若獅子殿下じゃないか。いい子にしてたかね?」とスルターンはまるで娘にそうするかのようにして七番目に結婚した妻の頭を撫でた。
彼女はまだ十六であり、スルターンがそのように可愛がるのも無理からぬ事であった。
「はい! お姉様達に淑女としての嗜みを習ってました!」
敵にとっての恐怖であるオスマン帝国の最高権力者はその嗜みの教えに『夜』の事が含まれてなければよいがと内心苦笑した。小動物のように懐く彼女に劣情を抱くのは気が引けた。
「ハフサ、愛する人はお疲れなのよ」
優しい声で言いながらアンジェリーナはスルターンと己とでハフサの両脇に立ち、小柄な彼女の両手をそれぞれ引いて歩いた。こうするとハフサは娘のように見えた。
「でもでも、お姉様! 旦那様がどんなに活躍したのか気になります!」
それももっともな話であろうかと雷帝は思った。しかし何を話せばよいのか。戦争とは結局のところ――。
「デスピーナ、あなたもそんな所で見てないでこっちに来なさいな」
ふとバヤズィッド一世は愛するアンジェリーナの声で思考から引き戻された。
「やだ」と声の主はむすっとした、しかし本気で嫌っているわけではない声色で言った。
「ばーじゃから戦争の匂いがするもん」
スルターンはアンジェリーナらキリスト教国から嫁いだ妻には改宗を強いるでもなかった。声の主もまた然りであった。
幾つかの言語の公文書ではバヤズィッドの『ヤ』を『ja』で表記するため、小生意気にむすっとした声の主は夫の事をバージャと呼んだ。
「もう少し素直になりなさい」とアンジェリーナは諭したが、声はそれでも優しかった。彼女はいつでも強く、そして同じぐらい優しかった。
「なんだ、待っていてくれたのか。君もこっちにおいでよ、お姫様殿下」
ステファン・ラザーレヴィックの姉であるデスピーナは特にバヤズィッドのお気に入りであったが、しかし彼は可能な限りどの妻も平等に扱おうと努めた。
イスラームの一夫多妻――元々が寡婦救済のためなので全員を養う余裕が無い者にはその資格は無いとされるが――の伝統で見ても彼の十二人の妻は多かった。
ふとデスピーナを見た。キリスト教圏出身の妻達も、ここは一応イスラームの国であるから、公の場では顔を隠したり肉体のラインが隠れるような服を着たが、ここはプライベートな空間なのでその必要は無かった。
そのため彼女の愛らしい顔は隔てる物無く曝け出され、嫁入り道具として持って来た薄緑のドレス姿はいつ見ても愛おしかった。
「やーだ。どうせまたばーじゃはキリスト教徒を殺したんでしょ」
スルターンは腹を斬られて内臓に砂利を入れられたかのような気分を味わった。確かにそうである。今回の戦いでは大勢のキリスト教徒――自称十字軍――が死んだ。
「若獅子殿下、先に行っていなさい」と蒼い目のスルターンは促した。不和は避けたかった。
小動物のように愛らしいハフサは不安そうな目で振り返りながらプライベートエリアの奥へと小走りに駆けた。
彼女が己の部屋で休んでくれるとありがたかった――戦争や政治的駆け引きはアイドゥン侯国から嫁いで来たハフサとも無縁ではない。
スルターンとその家族は、土台が泥でできた脆い幻想の上で暮らしているのかも知れなかった。
「デスピーナ、あまりあなたのバージャを困らせないで」
アンジェリーナはドレスをぎゅっと強く掴んでいるようにも見えた。雷帝は当然ながらそれに気が付いた――気が付いてしまった。
時折彼は己のしょうもない洞察力が無ければいいものをと思う時があった。
彼は既にこの後どうなるかがわかっていた。そのため己の頭脳が嫌になるのだ。
己が責められるのは構わない。アッラーの美名に誓って、夫としての不足があればそれを咎められても仕方が無い。真にイスラームであればそれを覚悟せねばならない。
しかし妻達が互いに争い始めるような事が起きればそれはあまりにも心苦しい。
あたかも、愛する己の父が暗殺者の刃に掛かって死んだ時のごとく――そしてそれを思い出すという事は、己が即位するにあたって兄弟に一体何をしたのかを思い出さないわけにはいかなかった。
オスマン帝国に君臨する現スルターンとして戦場で自ら刀を手に戦い、踏み潰し、そして虐殺された民の復讐を果たしたはずの己が、今こうして家庭問題に悩まされるのは皮肉としか言いようが無かった。
それを思えば、あの壮絶に戦い抜いたブシコート元帥に対してどこか恥ずかしく思えてきたものであった。
「あなただって彼が無事に帰れるか心配で、食事もほとんどしていなかったでしょう?」
ギリシャ出身の妻はセルビア出身の妻にあくまで優しく言い続けた。彼女もまた、亀裂を恐れているのか。
冷静に考えれば、と雷帝は思った。未亡人を養うための方策が、政略結婚に上手く適用できるのか?
最後の預言者も政略結婚をしていたはずであるが、しかしあの方はどのように対処していたのか――僕は政務やら何やらで聖典関係の事も頭から抜け落ちてしまったのか。
実際のところアンジェリーナもまた内心では焦っていた。この歪な夫婦関係において、抱えている爆弾が炸裂したとておかしくなかった――バヤズィッドの父はデスピーナの一家とも関係が深いミロスによって暗殺され、デスピーナの父及びミロスはバヤズィッドが処刑したのであるから。
だが雷帝はデスピーナがこれ以上線を踏み越えて来る事はあるまいとわかっていた。彼女は内気であまり社交的ではないが、しかし彼女は彼女で決定的な決裂を避けている事を知っていた。
無言でじとっとした目を向けるデスピーナをバヤズィッドはじっと見つめた。彼女は壁に手を当てて寄り掛かり、むすっとした、しかし本気で嫌っているわけではない目を向けていたが、やがて目を逸らした。
なるほど、これは彼女が己に抱く感情の縮図か。他の妻達は何かを察して出てこないようにしているのかも知れなかったが、今となってはそれが救いに思えた。
政略結婚とは往々にしてこういうものかと雷帝は考え、髭に手を当てて苦笑した。
神は全てをお見通しである。アッラーはそういう御方であり、となればあのニコポリス郊外で義弟に言った事も本当に起こるかも知れない。
己はアイユーブのユースフと同じ事をしているのかも知れなかった――すなわち、ニコポリスでの戦勝の際、奪われた無辜の命の復讐として捕えた騎士達を処刑した。
しかし復讐とはアッラーの領分ではないのか? では己は一体何者だ? 何様なのだ? オスマン帝国のスルターンというのは神の前では何の意味があるのだ?
そう考えると、この奇妙な家族関係もいずれはアッラーの手で解体される運命にあるのかも知れなかった。
だが雷電の帝王たる彼には、アッラーの慈悲を期待する以外には何もできなかった。
「――ばーじゃ? ねぇ、ばーじゃ?」
見れば己のすぐ側にデスピーナがいた。彼女はむすっとしていたが、しかし案じてくれているような表情であった。
「もう、せっかく来てあげたのに!」
スルターンは恐る恐る彼女の肩へと手を伸ばした。彼は自らの手がフランス人やその他の者達の血で汚れているのではないかと考え、胃がきりきりと痛んだ。




