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15. 生まれる命、散り逝く命

 翌年、ひとつの命がこの世に生まれ、ひとつの命がこの世を去った――




 一.


 春には保育士として就職するつもりでいた光子こうこが就職を一年遅らせた。高齢出産の冴子に何かあったらすぐ対応出来る様に、と、自由の身にする選択をしたからだった。

 由貴よしたかは予定通り、原宿の店を任され、雇われ店長として順調に生活をしていた。

「戸籍が面倒だから、この子が生まれる前にさっさと結婚しちゃいなさいよ」

 という冴子の滅茶苦茶な提案に光子が怒った。冴子の方がひと段落した後きちんとした形で、パパと冴子さんにも花嫁姿を見せたいから、と、入籍を一年持ち越す事にした。

 五月五日のこどもの日、高橋家に新しい家族が誕生した。剛三は、跡取りの誕生だ、と事の他喜んだ。

 冴子がどうしても自分が名前をつけたい、と、剛三の「剛」と冴子の「冴」をとって、「剛冴こうが」と名づけた。

「ゴウちゃんの様に強く逞しく男らしく、私みたいに頭の冴えた美形に育つように、なんちゃって」

 と笑うその笑顔は、初めて見る『母の顔』だった。

 由貴はそんな冴子を見て、最初だけでも、自分の母親もこんな顔をして俺や冴子を育ててくれたんだろうか、と冴子の中に母親の面影を思った。




 二.


 そんな穏やかで平和な日々に暗雲が立ち込めたのは、夏の盛りの頃だった。

 自宅で冴子が倒れた、と、光子から店に電話があった。剛三は、議員と面談中で連絡がつけられない状態だという。

「私は剛冴を連れて救急車に乗って病院へ向かっているから、直接病院に来て」

 と、搬送先の病院の住所と院名を伝える光子との電話を切った。由貴は再び電話を取り、本店に電話をかけた。

「店長、三波です。すみません、姉が倒れて病院に搬送されたそうなんです。姉の子を抱えてる光子だけでは心許ないんで、親父も掴らないし、少し店を空けさせて貰えませんか?」

 すぐに行きなさい、そっちには私が行くから大丈夫、という店長の快諾を受け、由貴は礼を言って電話を切った。チーフに事情を説明して店を任せ、急いでバイクを走らせる。

 病院に着いた時点で剛三から電話が入った。

「すまん、今終わった。病院は何処だ」

 場所を伝えて、今から自分も光子と合流するところで詳細は解らないので、とにかく院内に入ってから仔細を聞く旨を伝えて電話を切った。

 受付の案内を受けて、手術室へ。赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえて来た。

「由貴、少しの間、剛冴をお願い、おむつもミルクも持って来てないの、売店に行って来る」

「ん。解った……お前、大丈夫か? 顔色悪い」

 無理矢理笑顔を作って、大丈夫、という光子の必死さが痛々しかった。

「由貴……あなたこそ、大丈夫?」

 小さな甥を抱いている腕が震えている事に、由貴は初めて気がついた。何が起こったのか、判らなかった。まだ、担当医は出て来ない。

「由貴、何があったんだ?!」

 剛三が駆けつけて来た。

「いや、まだ……」と言いかけたところで、執刀医と思しき医師が手術室から出て来た。続いて冴子がストレッチャーでICUに運ばれていった。

 その顔は黄身を帯びていて、美容に熱心だった冴子のそれとは思えない顔色だった。

「ご家族の方ですか?」

「夫と、こいつは弟です。冴子は……妻はどうなんですか」

 ――肝臓癌。ステージⅣ。

 腹痛と明らかな黄疸症状が見られた為、光子に同意書のサインを貰い、緊急オペを行った旨が執刀医より説明された。開腹の結果、既に手の施しようが無かった、と、無機質な声で宣告された。

「まさか……。しかし、妊娠中に検査をしたばかりで、その時には陽性反応はなかった筈だ!」

 思わず剛三は声を荒げた。

「奥様はまだお若いので、進行が早かったものと思われます」

 ご家族でお話し合いの上、本人への告知の是非をお知らせ下さい、ご返答次第で、今後の治療方針をご相談します、と言い残し、執刀医は去った。

 光子が執刀医とすれ違いに戻って来た。医師に一瞥して、由貴達のもとへ駆け寄って「先生、何だって?」と尋ねた。

 剛三は、その場にへたり込んでしまった。

 由貴は、剛冴を長椅子に寝かせると、光子の両腕を掴んで強い語気で問い詰めた。

「お前、冴子の何を見てたんだ?! アイツ、いつから痛がっていた?!」

 光子が青ざめる。

「ど……どういう事……? 冴子さん、何の病気だったの……?」

 うなだれたまま、剛三が光子の問いに答えた。

「肝臓癌の末期だそうだ……」

 光子の手から、荷物がどさ、と落ちた。

「うそ……」


 だって、冴子さん、いつもと変わらず笑っていたわ。普通に剛冴に母乳も与えてて元気だったわ!

「子供を理由に化粧もしないなんてゴウちゃんに呆れられるのはごめんだわ」って、きちんとお化粧して、家にいてもきちんとしたお洋服着て、お散歩も毎日剛冴と行って……「こーこちゃんも、子供を理由にオバさんになったら由貴に浮気されちゃうんだから気をつけなさいよ」って教えてくれて……嘘よ……。


「由貴……すまん、光子を責めんでやってくれ……。気づけなかったのは、……わしも同罪だ……」

 ごめんなさい、と、光子が泣く。

 すまない、と、剛三が詫びる。


「たった一人のお前の肉親を守れなくて、申し訳ない」と。


 由貴の手が、力なく光子から離れて、揺れた。

 何も知らない剛冴が、お腹を空かせて弱々しく泣いていた。




 三.


 冴子が麻酔から目覚めた、との知らせを受け、交代でICUに一人ずつ入る。最初に剛三が入ったが、すぐに戻って来て、由貴に言った。

「まず、お前と話したいそうだ」

 入れ替わりで由貴が滅菌室に入り、衣類とマスク、帽子を着用した。

 冴子のベッドに行くと、はっきりとした視線で由貴の姿を捕らえた。

「やーねぇ、此処だと誰が誰だかわかんないわね」

 いたた……と言いながら腕を伸ばし、由貴のマスクを外した。

「返せよ。雑菌伝染るぞ」

 いやよ、と枕の下にマスクをしまいこむ。

「長い時間喋るの、結構キツいのよ。黙って聞いててくれれば雑菌を撒き散らす心配ないわ」

 冴子はそう言って、はぁ、と大きくひと息ついた。

 本当に苦しそうだった。由貴は、言葉を遮るのがはばかれる程弱っていると感じると、胸に焼ける様な痛みが走った。

「由貴、黙っててごめんね。自分の身体だからね、判ってたんだけど、……言えなかった。ゴウちゃんが知ったら、またあの人、置いていかれちゃう訳じゃない? アンタも、また独りぼっち症候群になり兼ねないじゃない? こーこちゃんが、自分を責めてしまうじゃない? こんなに早くとは思わなかったから、自分でもチクショウ、って、悔しいんだけどね……」

 冴子の目尻から、涙がひと筋こぼれた。


 ……悔しいの……。

 もう少し、育てさせて貰えると思っていたのに……。

 もう少し、家族の時間を味わえると思っていたのに……。


 冴子は、両の拳で目を覆って、嗚咽を漏らした。そして、もう一度大きく呼吸すると、由貴を見た。

「由貴、私がいなくなっても、アンタ、もう一人じゃないからね? 剛冴には、アンタと同じ血が流れてる。こーこちゃんと、ゴウちゃんの血も、流れてる。肉親は、私だけじゃないって事、絶対に忘れないで。ゴウちゃんと剛冴を、アンタが守ってやってね。頼んだわよ」

 そう言って、枕の下のマスクを返した。

「……わかった」

 最後にそう伝えると、軽く手首を曲げて、手を振った。


 ICUを出て、先に光子に入室を促した。

 多分、最後までずっと一緒に居たいのは剛三だろう、と思ったから。

 剛冴をあやしながら待っていると、暫くして泣き腫らした顔で光子が出て来た。

「パパ、冴子さんが、今夜は一緒に居て欲しい、って……。剛冴の事は心配しないで」

 そう言って、剛三に一度剛冴を抱かせてから、再び光子が抱き迎えた。

「親父……姉貴の事、宜しく頼んます……」

 由貴は、そうとしか声を掛けられなかった。

 剛三は、おぉ、と小さく返事をして、ICUに入って行った。




 四.


 醜く死んでいくのは、嫌。

 冴子の意向を汲んで、抗癌剤治療はしなかった。

 小春日和の中、冴子は逝った。

 最期まで、「ありがとう」と声にならない言葉を繰り返しながら、微笑んで逝った。

 享年三十九歳、常に化粧で隠していたその素顔は、少女の様なあどけない顔だった。


 剛三は、一度として涙を見せる事は無かった。

 淡々と葬儀を終え、今までと変わらず仕事に明け暮れる毎日を送った。

 心無い者は、剛三を「冷徹」「死神」と揶揄したが、剛三は意に介さず、冴子の生前と変わらず仕事に専念していた。

 彼は由貴の心配を余所に、断固として同居を拒んだ。

 光子は言う。

「私達がいたら、泣く場所がないでしょう? 大丈夫、パパは、強いわ」

 自分に半分言い聞かせている様にも見える、光子もまた決して涙を見せなかった。常に笑顔で、亡き母に代わって剛冴を育てていた。

 由貴だけが、心許ない想いを抱えていた。

――二度も妻に先立たれ、剛三は幸せと言えるのだろうか。

――あんなに願った母親である事を、途中で降りなくてはならなかった冴子は、幸せだったと言えるのだろうか。

――母の顔も知らないまま育つ剛冴は、いつか自分の様に孤独を深めていきはしないだろうか。

「俺って、無力だな、ホント……」

 剛冴にミルクを与えている光子の肩に、頭を乗せて寄り掛かった。光子は困った様な、切なげな顔で由貴を見つめた。

 ミルクを飲みながら眠ってしまった剛冴を横向きにベビーベッドへ寝かしつけると、由貴の隣に腰掛けて耳元に囁いた。

「あなた、という同じ痛みを持つ人がいるから、パパはああしていられるのよ」

 私は、子供みたいな無邪気な由貴が恋しいわ、と、由貴の手を取って立ち上がった。

 促されて立ち上がり、光子を抱き上げ「悪ぃ」とおでこにキスをして、彼女を抱えたまま寝室へ足を運んだ。


――もうすぐ長い一年が終わろうとしていた。――

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