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12. お別れ

 一.


「まーったく、いつまで願掛けしてるんだか」

 希はまた、由貴よしたかの髪をくるくると巻いて弄んだ。

「だからほっとけって」

 由貴もまた、不機嫌な顔で、また希の手を払いのけた。喫茶店でのやり取りの時よりも、一層不機嫌が倍増していた。

 二人は、光子こうこが帰ってしまった後、再び河岸を変えて、学生時代によく皆で飲んだバーに来た。

「口に出すのが恥ずかしくなった分、大人になったって事か、由貴も」

 くっくっ、と笑いながら、希はカクテルに口をつけた。

「アンタに散々当てられて来たけどさ、ホント、憎たらしい位、素直で可愛い子ね、こーこちゃん。そりゃ願掛けして自制でもしてなきゃ、あの頃の鬼畜由貴じゃあ、もたないわよねぇ~」

 堪え切れない、と言った様子でついに希が大爆笑し出した。

 由貴は、益々不機嫌な顔をしてウーロン茶を飲み干した。

「お前な、いい加減その話題から離れないとマジで帰るぞ、俺」

「言う訳ないって言ったでしょ。そこまでアタシも無粋じゃないわ」

 由貴をからかうのをその程度にして、希は本題に入った。

「正直な話、君の話だけでこーこちゃんを判断していたから、直接会って失望したわ。技術だけが売り物じゃないからね。家は、結婚前の不安と期待を織り交ぜた女性がお客様よ。個人的にどんな事情があろうと、常にお客様の幸せを倍増させるお手伝いをする事が最優先。不機嫌がああまで露骨に顔に出ちゃうお子様じゃ、ちょっと、ね……」

 希の主張は、一理ある。

 由貴は光子を気の毒に思いながらも納得してしまった。

「普段はあんな奴じゃないんだけどな。家の店の出入り禁止になったのが余程堪えたのかな」

 希が口にし掛けたカクテルを噴きそうになった。

「はぁ? ばっかじゃないの? あの子、アンタとアタシの関係を勝手に誤解して不機嫌になってただけじゃない」

 そんな事もわかんなくて、よく“俺のお姫サマ~”とか“俺が守るんだ~”とか言えてたわよね、と、希はまた話を蒸し返して笑い出した。

「だからそれはもう頼むから忘れろって……」

 顔を真っ赤にして由貴は懇願したが、希は一層笑い転げるばかりだった。

「髪、もう切っちゃえば? 願掛けの必要なさそうじゃない。十八歳なら、もう一人前の女よ?」

 よかったねー、鬼畜に戻れそうで、と、由貴の頭をわしゃわしゃと掻き回した。

「……るせぇ、お前その口でさっきはお子様発言してたじゃねぇかよ。言ってる事矛盾してるぞ」

 希の手を振り払って睨み返した。

「あら、だってアタシからみたら、女としては一人前でしょうけど、社会人としてはまだまだお子様もいいところよ。アタシは、例えダーリンと喧嘩したって、あんな醜態を晒す様な、お客様に夢を壊す態度はしないわ」

「はいはい、ゴチソーサマ。その愛しのダーリンが帰りを待ちわびてんじゃねぇの? もう帰んなよ」

 そうね、もうこんな時間か、と、希は同意して席を立った。

「悪かったな、無理言って」と後姿に声を掛ける。

 随分しおらしく出たわね、らしくもない、ともう一度笑って、希は店を後にした。

 暫く考え事をしながらその場で過ごした後、由貴は会計を済ませて店を出た。

「うっし、迎えに行くか」

 と、半ば自分に言い聞かせるように独白すると、バイクにまたがりエンジンをふかせた。




 二.


 銀座の高級クラブの前にバイクを停めて、地下へと潜っていった。久しぶりに冴子の店に顔を出す。

「お、ユキじゃないか。久しぶりだな」

 と支配人が出迎えた。

「ちっす、ご無沙汰。上行く前に一杯貰ってっていい?」と頼むと、少々お待ちを、と奥の事務所に消えていった。

 ボーイに案内された席で待つ事数分、冴子がいつものウィスキーを運ぶボーイと共にやって来た。

「光子、どう?」

「何があったのよ。凹みまくってるわよ。例の件、どうだったの」

 冴子は水割りを作って差し出した。

「希に駄目出しされちった。お子様は勘弁、って。本人には“アタシの事嫌いな人に教える気ない”って、玉砕」

 学生時代にこのクラブでバイトをしていた希を知る冴子は苦笑した。

「あらら、相変わらずキッツイわねぇ……的を射てるだけに」

「まぁね、学費も生活費も自力でやって来てるアイツから見たら、甘ったれもいいところだもんな」

 んでもって、俺も、と苦笑して冴子の方に向き直った。

「俺、途中の踊り場で遊び過ぎたみたいなんだよねぇ~」

 由貴は、冴子にここ数ヶ月からさっきまで、絶えず考え続けていた事を語った。冴子は時折頷きながら、黙って話を聞いていた。

「今日、バイクでしょ。上、泊まっていけば? 今週は連休なんでしょ?」

「何、親公認でゴチになっちゃっていいの?」

 と親指で上階を指差しながら笑って言う由貴に、冴子はおでこを指でピン、と弾いて言った。

「アンタにそんな度胸があるとは思ってないわ」

 信頼されるのもキツいっすねぇ、と笑いながら、グラスを手に店を後にした。

 事務所に入って、ロックを解除する。上階へのエレベーターが降りて来た。ウィスキーをちびちび飲みながら上階への到着を待つ。

「泣いちゃうかなぁ……」

 ぽつりと、呟いた。


「うーっす。ただいま~」

 由貴は、何も無かったかの様に居室へ入って行った。

 光子はソファで体育座りをしてテレビを見ていたが、視線が定まっていなかった。由貴の声を耳にすると、恨めしそうな顔で一瞥して、またテレビに視線を戻した。

 由貴はお構い無しに光子の隣に腰掛けて、そのままウィスキーをちびちび飲み始めた。

「やっぱロックの方がいいや」とか何とか言いながら、ボトルを取りに立ち上がると、光子がそれを横目でちら、と窺うのがよく解る。由貴は、それが可笑しくて仕方が無かった。

 キッチンでアールグレイのアイスを作ってボトルと一緒に持って行き、光子に「ほれ」と差し出した。無視してテレビの画面を見続ける光子に何を言うでもなく、テーブルにグラスとウィスキーのボトルを置いて、しばし無言の時間が流れた。

「……希さんを一人にしちゃってこんなトコにいていいの?」

 画面を見つめたまま、光子がぽつりと言った。

「んー、ダンナ恋しくて帰ってった」

 淡々と由貴が答えると、「へ? ダンナ様?」と、初めて光子が由貴を見た。

「だーっ! やっぱ希の言ってた事、ビンゴかよ! このクソガキ!」

 由貴は光子の頭を抱えて、脳天目掛けて拳でグリグリした。

「痛い痛い痛いっ! ゴメンナサイごめんなさいごめんなさいってばー!!」

 笑いながら泣いている光子を解放すると、「ばーか」と、髪を整えてやった。

 光子は、姿勢を正して座り直し、由貴の淹れてくれた紅茶に手を伸ばした。由貴も、グラスににウィスキーを注ぎ、ソファの背もたれにもたれて、ぐい、と一気に飲み干した。

「希から、伝言。“技術だけが売り物じゃない、個人的事情が顔に出るお子様の内はお断り”だそうだ」

 俯いたまま、紅茶のグラスを握る光子の手に、力がこもっているのが傍からもよく分かった。

「俺が言えた義理じゃないんだけどさ、ご尤も、と思ってな、フォロー、出来なかった。すまん」

 由貴は、話している間にも、次々グラスを空けては、また酒を注いでいた。光子の顔を見ずに、『伝えておくべき事』を途中で躊躇って口ごもらないように、と意識しているかの様に、淡々と語り続けた。


――俺な、お前が俺をどう思っているか、を伝えてくれた時、すげぇ嬉しかったんだと思うんだ。泣ける位、ホントに。昔から、今でも、ずっとお前を守りたい、だから、強くなりたい、って、思ってる、それも本当の気持ちだ。

 汚い事、辛い想い、させたくない、って思ってる。綺麗なまんまでいて欲しい、とも思ってる。誰にも、穢されたくない、って、思ってる。

 昔からそうしてる様に、今でも、そうやってお前が泣いてたりすると、抱きしめたくなる。それで、お前に笑顔が戻るんなら、そうしたくなる。

 けど。

 正直、お前の傍にいると、同じ位、辛い。

 大事にしたいのに、傷つける様な事を考える俺も、いるから。穢したくないのに、壊したくなる、って気持ちが、正直言って、あるんだ。そういう自分を、俺が、自分で嫌になるんだ。

 大切だから、壊したくない。壊したくないから、遠ざけたい。

 巧くお前に伝わってるかわかんないけどさ……。

 それが、親父さんとかと同じ様なものなのか、叔父貴とか兄貴みたいな感覚として、なのか、お前が望むような意味合いのそれなのか、とか、自分でよく分かってないんだ。

 だから、今の俺は、お前の気持ちに、そういう風にしか、答えられない――。


「今は、とにかく仕事に専念してみたい、と思う。今の俺って、まだまだ半人前だし、今まで先を見通しての勉強とか、してなかったし。お前も、今は色恋に振り回されてる時期じゃないんじゃないか? 希の言いたい事は、多分、そういう事だと思うんだ。技術は認めてるんだけど受け容れられない、ってのは、もっと人間磨いてもっといろんな人と付き合ってみて、器でかくしてから社会に出て来い、って意味だと、俺はそう受け取ったんだけどお前はどう思う?」

 グラスを持つ光子の手は涙で濡れ、肩は小刻みに震えていた。伝えるべき、と決めて来た事を全て言い終えて、初めて光子を見た由貴は、やっぱり見てしまった事を後悔した。

 “やっぱり泣かせちゃったか……。”

 ざわざわと、胸騒ぎを覚える。どうにかしてやりたくなる、守りたくて。どうにかしてしまいたくなる、独占したくて。

 由貴が堪えきれず胸元に光子を抱き留めると、光子は消え入りそうな小さな声で懇願した。

「わかんない……。私が由貴にとって邪魔な存在じゃないって事はわかるのに、傍にいちゃ駄目、なんて、わかんないよ……。どうして思うままにしちゃいけないの? 加奈子ちゃんだって、冴子さんだって、希さんだって、皆、思うままに、好きな人の傍で笑顔で一緒に過ごしてるのに、どうして私は駄目なの……? 私だって、由貴の傍で――」

 笑っていたい――そう言い掛けた彼女の言葉を、由貴は唇で塞いだ。華奢な背骨が軋みそうな程強く掻き抱く。増幅していく欲求を彼女毎自らに押し込む様に。

 背中に回された光子の指先が爪を立てるのをシャツ越しに感じると、痛みと共に、更なる高揚が襲って来た。

――限界だ――。

 抱き留めた腕の力を緩めると、両手で光子の頭を挟み、耳元に弱々しく囁いた。

「頼む……穢したくないんだ……まだ俺、……お前が思うよりガキで、ごめん」

 由貴は顔を伏せたまま、光子の手をとりそっと自分から引き離した。

 革ジャンを手に取るとソファから立ち上がり、エレベーターホールに向かった。

「ごめんな。……今までいろいろ振り回して」

 振り返らない由貴の背中に、光子が確認する様に訊いた。

「ねえ……待ってていいよね? 私も、早く大人になるから! また逢えるよね?」

 振り返らないまま軽く手を挙げて立ち去る由貴の姿を、扉が隠した。




 三.


 空が白んで来る頃、冴子はあくびをかみ殺しながら上階の居室に上がった。

 そろそろ由貴に光子を送らせないと、と思っていたが、リビングに入るとそこには光子が眠っているだけだった。目には、涙の跡がくっきり残っていて、泣きながら眠りに就いた事が見て取れた。

「早……」

 冴子は由貴の有言実行の意外な早さに驚くと共に、一抹の寂しさを感じていた。

 一度飛び立てる事を知ったら、あっという間に遠くへと離れていってしまう。長い様で短かった、と、冴子は光子の髪を撫でながら、過去を振り返っていた。

 気配に気づいたのか、光子がうっすらと目を開けた。上体を起こし完全に覚醒すると、見る見るうちにまた瞳に涙が溜まって、溢れて来た。

「さ……冴子さん……由貴が……」

 ぼたぼたと流れる涙を拭いてやりながら、冴子は微笑んで言った。

「ん……行っちゃったわね。私も、寂しい。とうとう……私の手から飛んでっちゃった」

 んもぉ、こーこちゃんの所為なんだからねっ、と、光子をがば、と抱きしめた。

 冴子の腕の中で、光子は冴子の言っている意味が解らず困惑した。

「私の所為……?」

「そ。こーこちゃんの所為。っていうか……こーこちゃんの“お陰”、かな……。あの子が誰かに執着するなんて事、なかったわ。母親に捨てられた事が幼心に堪えたんでしょうね、傷つく位なら最初から諦める子だった。いつも仮面被って、本心隠して、自分も人も偽って」

 冴子は光子の頬を両の手で挟み、愛しげな笑顔を向けて謝辞を述べた。

「ありがと、こーこちゃん。貴女の存在は、由貴を大きく変えたわ。初めて、他者への執着を見せた。どんな意味合いかはわからないわ、でも。貴女も由貴も、笑ってくれてる。それならば、どんな意味合いでも構わない、幸せと感じて生きて欲しい、と思ってた。その為なら、パパも私も、どんな助力も惜しまない、って、思ってたの」

 でも、あの子自身が、そこに甘んじるのを良しとしなかったのね、そう言って、冴子は昨夜の由貴との話を打ち明けた。

「あの子が何を考えて、どうありたいか、昨夜初めて話してくれたわ。踊り場で、ちょっと長く遊び過ぎた、って。上り切ったら迎えに行くから、光子が階段を上り損ねてたら尻叩やっていてくれ、って頼まれちゃった」

 冴子は光子の顔を見つめて、意味、解る? と問うた。

「うん……でかい器になってから社会に出て来い、って、言われた……」

 そうね、と冴子は頷いた。

「まだまだ若いんだから、たくさんの人と出会いなさい。たくさん恋もしなさい。選ぶ道はたくさん持ちなさい。たくさん泣いて、たくさん怒って、たくさんの出会いと別れも経験して、全て自分の糧としなさい。貴方達は、お互いに同化し過ぎてしまったから、自分というものを確立しなさい」

 そうさせてしまったのは私なんだけどね、と、冴子は光子にぺこりと頭を下げた。

「ゴメンナサイ、ママ失格で」

 光子は大きく首を横に振って、否定した。

「最初は大嫌いだった、冴子さんの事。私のパパをとってしまった人だもの。でも今は……」

 冴子さんは、私のママでお姉さんで先生で先輩で……憧れ、なの、と、光子は照れ臭そうに語った。大人になりたい、って、冴子さんを見てると焦っていった、と。

「由貴が迎えに来てくれるまでに、冴子さんにお尻叩かれて真っ赤にならない様にしなくっちゃね」

 と、初めて心からの笑顔を見せた。

 自分の事が自分でよく解らない事に気がついたから、由貴ばっかり見てて、全然自分を省みたことなんてなかったから、自分探しをしてみるわ、と、光子は自分に言い聞かせるように宣言した。

「そうね、こーこちゃんの思うままに。じゃ、まずは学校、行かなくちゃね」

 冴子は朝食を作るため、キッチンへと立ち上がった。

「あ、私も手伝う」

 光子も一緒にキッチンへ向かって行った。

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