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10. 転換期

 一.


「ないっ! いっこ足りない!!」

 みっともない恰好で二人で室内を這いずり回って必死で探しているのは、光子こうこの制服のボタンだ。

「もう! バカタカ! 見つかんなかったらどうすんのよ! パパに殺されるのは由貴よしたかよ!!」

「うるせー! やっちまったもんはしょうがねぇだろ! いいから探せ!!」

 さっきまでのあの甘ったるいような重苦しい様な、濃厚な時間は何だったんだ、と溜息をつきつつも、今までにない程気持ちが軽くなっている心地よさを味わっている由貴と光子だった。

 結局ボタンは見つからず、「どうせ白のシャツいっぱいあるでしょ」と、由貴のシャツからボタンを全部付け替える事にした。

 外はもう薄暗くなっていた。

「な、お前、学校行ってた事になってるんだろ? いい加減帰らないとやばくね?」

 と心配する由貴に、光子は目尻を下げて、だらしない笑みを浮かべて答えた。

「むふ。今日はね、冴子さんもパパの看病でふたりっきり~、なの。私が帰ったら、……お邪魔だと思わない?」

 むっふっふ、とエロエロしい笑いを浮かべる光子を、由貴は「黒い……」と青ざめた顔で眺めるしかなかった。

「また襲われたらコワイから、今夜は加奈子ちゃん家に泊まるわ」

 明るく言って、光子はブレザーを羽織り帰る準備をした。由貴は「しねーよ」と弱々しく否定するしかなく苦笑した。

「あ、そうだ」

 光子は鞄から、携帯電話を取り出した。

「携帯、番号そっちに送ってもいい?」

「あ、そか。そーいや聞いてなかったな」

 光子から電話を受け取り自分の携帯の番号を入力する。互いに番号を登録しあうと、こぼれんばかりの笑顔で光子が携帯電話を抱きしめた。

「これで、いつでも由貴と直接連絡とれるね。むふーっ」

 無性に抱きしめたい衝動に駆られたが、さっきの今では今度こそ張り倒されそうな予感がして、由貴はどうにか衝動を押さえ込んだ。

「駅まで送るわ」と声を出す事でどうにか雑念を払拭して、部屋着からジーンズに着替えた。

 改札で別れ際、光子におもむろに“カシャリ”と携帯カメラのシャッターを切られた。

「加奈子ちゃんに由貴の不細工顔、滅多に見れないから見せてやるんだ~っ」

 と、してやったり、といった顔でいたずらっ娘の様に言う。

「ざけんな! 消しとけよ!」と叫ぶ由貴に背を向け

「さぁ? どうしよっかな~。またね~」

 とホームへの階段を駆け上って、見えなくなった。

 “……惚れてんのかな……?”

「いやだっ! それじゃ親父さんと同じじゃねーかよ!」

 自分の考えのあまりの気持ち悪さに思わず声に出してしまい、ただでさえ目立つガーゼだらけの風貌に加え、奇声を発する由貴の奇行は、周囲のひんしゅくをかなり買った。

「――帰ろ……」

 由貴は、居た堪れなさに顔を伏せて帰路へと踵を返すのだった。




 二.


 暫くの間、由貴は店のスタッフや客のからかいの的になっていた。なかなか消えない目の周りの痣のお陰で“パンダくん”の綽名を貰い、喧嘩の原因を誰も聞いてくれず、勝手に面白おかしく想像しては話のネタにされていた。

「だからアパートの階段から落ちたんだってば」

 と言い訳する由貴の心境の変化に、店長だけが気づいていた。


「店長、やってみる気、ない?」

 店を閉めた後、飲みに付き合え、と半ば強制的に連行して来た由貴に、店長は打診した。

「はぁ? 店長、どっか悪いんですか? 引退しちゃうの?」

 と心配する由貴にばーか、違うわよ、と苦笑する。

「家って、ちょっと年齢層が高いでしょ。ティーンズ向けの、もっとライト感覚の姉妹店を展開してみたい、と思って。人材がなかったから夢のまんま終わっちゃうのかな、なんて諦めてたんだけどね。最近の三波クンに、ちょっと希望が見えて来ちゃった、っていうのかな……」

 元々由貴の技術は買っていたが、経営者としての素地には疑問を持っていた。

 経営の基本は“お客様が満足出来るサービスの提供”である。由貴には、この概念が欠如していた。お客様の希望したスタイルと自分に合ったヘアスタイルが合致しているとは限らない。これまでの由貴は、そういった時にはあっさり妥協してお客様に責任を転嫁してしまう傾向があった。イメージと実際の仕上がりが違う場合、笑顔で誤魔化しながら『要望に沿った』事を主張し、お客様を黙らせてやり過ごしてしまう面があった。

 しかし、最近の彼は、そういった妥協や怠慢をせず、お客様の納得がいくまで巧くイメージを伝え、お客様重視の仕事がこなせるようになって来ている。クレームの対処や、後輩の指導にも随分余裕が出来て来た。

「その点がクリア出来れば、若い子には三波クンみたいなやらかい当たりがウケるでしょうしね。すぐという話ではないけど、その辺も念頭において、勉強しておいてくれないかしら?」

 そう締めくくると、はい、仕事の話はこれでおしまい、と、店長はマスターにジン・トニックをもう一杯オーダーした。

 ここからはプライベートな話なんだけど、と、店長は光子の件に話題を移した。

「私個人としてはね、光子ちゃんにはいて欲しいくらいなんだけど……三波クン、気づいてた? ネイルスタッフの中、ちょっとぎくしゃくしてるの。彼女、どんどん上達していってるじゃない? 焦りを感じるんでしょうね。私としてはね、光子ちゃんは家で修行している子、というよりも、お客様なのよね。あんまり、家の悪い印象をあの子に与えたくないのよ、後ろにいる冴子さんの気持ちも含めて。……三波クンから、巧くこちらの意向を伝えてはもらえないかしら」

 それは、遠まわしな『辞職勧告』だった。

「そか……。正直、残念だけど、しゃーないな。店長の立場もわからんでもない」

 あー、でも、俺結構、アイツが見たイメージを参考にしてメイクしてる時もあるから、自信失くすかも、さっきの話も店長の買いかぶりだったら、ごめんね、などという殊勝な事を由貴が言うと、店長は、少し驚いた顔をして、それから優しげな顔で微笑んだ。

「ホント、三波クン変わったね。絶対自分の非力さを認めない子だったのに」

 大丈夫よ、アンタはまだ伸びるわ、と、由貴の肩をぽん、と叩いた。

 由貴は、店長に認められている事が解って喜ばしい反面、光子の件を考えると、気が重く感じていた。

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