91話 日常と異常
今日は恵比寿にある録音スタジオで北川ミナミこと白百合 史菜のアニメのアフレコの仕事があり、灰川は仕事を済ませて15時に渋谷駅に行き史菜を待っていた。
「お疲れ様です灰川さん、今日はよろしくお願いします」
「おう、こっちこそよろしくな、帯同の仕事なんて初めてだから直した方が良い所があったら言ってくれよな」
史菜も到着して電車で恵比寿に向かう、史菜は制服から学校がバレたりしないよう落ち着いた色合いの私服を着てる。
道中ではいつものような会話は無かった。その理由は史菜が明らかに頭の中で演技のイメージトレーニングをしてたのが分かったからだ。
史菜は以前にゲームの声優の仕事で嫌な事があり、外部での仕事は断ってきたという経緯がある。
仕方の無いことだが、それはファンの期待を裏切ってると感じてた。ゲームの声優の仕事を貰えたと配信で語った時は視聴者はとても喜んでくれたらしい、またの活躍を期待してくれてた視聴者に申し訳なさを感じてたそうだ。
その分、今回は前以上に気合が入ってるのが見て取れる。声の演技の勉強と練習をして、酷い演技をしてファンやハッピーリレーの仲間をガッカリさせたくない一心で頑張ってる。
史菜の表情には本気の色が浮かんでる、ちゃんとした演技で作品の質に貢献したいと思ってるのだ。恐らくは制作側にはフォロワーの多いVtuberを使えば視聴者や話題の広がりを見込めるという思惑があるのだろう。声優としての技量は期待されてない可能性も高い。
それでもいい加減な仕事をするつもりは史菜には無い、Vtuber北川ミナミには既に多くのファンがおり、彼女の活躍を期待してるのだから。
ハッピーリレーは配信業界では5位の会社で案件の依頼料は安い、だがエリスとミナミは視聴者が別格に多く、それもあって2人への企業案件は結構来る。実際に2人が紹介した商品は売り上げが伸びる事が多いらしく、そのおかげでスポンサーがハッピーリレーに付いたという事実もあったりする。
それ故にハッピーリレーは2人の離脱を絶対に阻止したいという思いもあり、それが灰川を自営業にさせてでも関係を維持したいと考えた切っ掛けの一つだと社長から伝えられた。
もしこれがシャイニングゲートに依頼してたなら金額は数倍に跳ね上がっただろう、何故ならシャイニングゲートのVtuberに依頼したら自由鷹ナツハを初めとした、SNSフォロワー100万~1000万越えのインフルエンサーに宣伝して貰えるからだ。企業Vtuberへの声優依頼は宣伝力が絡んだ金銭事情なんかも絡んでくるらしい。
「そろそろ着くな、目黒川の近くだからタクシーで行こう」
「はい、その間は小声で演技の練習をさせて頂きますね」
「分かった」
今の史菜は真剣そのものだ、普段も真面目な子だが雰囲気が違う。自分の中の定まったキャラクター像の演技をイメージトレーニングしつつ、声の抑揚や感情表現を更に細かく決めていく。
史菜が任されたアニメのキャラクターは1話限りの脇役だが、存在感がそれなりにある役でどうでも良い役ではない。演技の出来次第では話自体が悪い評価を受けてしまう可能性がある。
そうなれば原作ファンからは嫌われるだろうし、声優の仕事は来なくなる可能性もある。しかも本職の声優じゃないから練習量は圧倒的に足りないのが実情だろう。
ファンの期待に応え、アニメの雰囲気を素人演技で壊さないよう、タクシーの中でも小声で練習してドライバーから訝し気な目で見られたが、それすら気が付かない程に史菜は集中して練習をしていた。
スタジオに到着し、割と小さいなと灰川は感じた。外観は一軒家より少し大きいくらいで、中には録音室が2部屋、片方はかなり設備が整った部屋で、もう片方は簡素な設備の部屋だった。
灰川とミナミは最初にコントロール・ルームという機材が置かれ、録音スタッフやエンジニアが詰めている部屋に入る。正面には録音ブースの部屋があり、防音ガラス越しに録音風景を見る事が出来る造りになっていた。
「お疲れ様です、北川ミナミです、よろしくお願いします」
「マネージャーの灰川です、この度はお声がけありがとうございます」
「ああ、こちらこそ、監督の田辺です」
「音響監督の佐原です、よろしく」
「牧原役のREYです、よろしくお願いします」
「堀本役の鹿野 奈々枝です」
スタッフの人達や声優に挨拶し、説明を受けてから周りを見回すと若い声優の2人が台本を見ながらセリフの確認をしてたり、緊張を紛らわせようと息をついてたりする光景が見えた。
灰川はアニメの内容は一応は説明を受けた、異世界に召喚された主人公が神と崇められチートを使って敵を倒すという内容で原作は人気作品らしい。
「この作品、流行りますかね監督……」
「分からないが、北川ミナミちゃんのおかげで1話目の視聴者とSNSの拡散は見込める筈だ…と思う」
監督と音響スタッフが何かを話してるが灰川には聞こえず、ミナミを連れてコントロール・ルームの奥の椅子に腰かけた。ここから本番が始まるまでミナミは頭の中で練習し、灰川は特に何もせず待つだけだ。
ミナミがイメージトレーニングをしてる横で灰川は何気なくルームの中を見回すと、まだ10代であろう女性声優が2人いる。一人は大学生くらいで、もう一人はミナミと同じか少し上くらいに見えた。
それぞれが台本を見て各々の役の演じ方を考えてる様子だ。部屋の中は相変わらず静かで息がつまる、物音一つ立てても視線が向けられそうな雰囲気だ。
主演の声優は来ておらず別撮りだとの事だ、このアニメは別撮りで声を当てるシーンが多いらしく、今日はミナミやその他の学生の傍らに声優をしてる人が代わる代わる声当てをする日だそうだ。
「本番入ります、まず鹿野さんブースに入って下さい」
「はい」
呼ばれた声優が録音ブースに入り声を当てる、無難に声を当ててOKが出て次の声優が中に入り声を当てる。
「北川さん、お願いします」
「はいっ」
ミナミも呼ばれて録音ブースに入り、マイクに向かって演技をしてOKが出て、意外なほどにアッサリと声優の仕事は終了した。
「お疲れ様でした、アニメの放映楽しみにしてますね」
「ありがとうございました北川さん、今度また配信を見に行きますよ」
灰川も監督やスタッフに挨拶し、スタジオを後にした。結局は本当に着いて来ただけだ、ミナミは特に演技で躓く事も無かったし問題なく終わったのだった。
「なんだか凄くあっという間に終わりましたね、拍子抜けしちゃいました」
ミナミの役柄は1話限りの出演で出番も長くはなく収録はすぐに終わった、出演者やスタッフと話し込む事も無くスタジオを後にして今は事務所に帰ろうとしてる。そんな時に道端で先程に共演した2人にミナミが声を掛けられた。
「お疲れ様です北川さん、配信を見に行った事がありますよ」
「お疲れ様、ミナミちゃんって呼んで良い? それにマネージャーさんも」
丁寧な感じで話す奈々枝と砕けた口調で話すREYはどこか対照的だ。
「先程はお疲れ様でした、お二人はお知り合いだったんですか?」
「まぁねー、奈々枝ちゃんは子役上がりの俳優声優って感じで、アタシは児童歌手上がりで業界に入ったって感じかなー、売り出し中だけどねっ」
聞くと2人は高校2年生で史菜の一つ上であり、演技経験があって業界に入って奮闘してる最中だとの事だ。
互いの身の上なんかを話しながら歩くが灰川は特には何も言わない、付き添いのマネージャー以上の空気感は出さなかった。
「ミナミちゃんの演技けっこう良かったよ! アタシはちょっと控えめに演技しちゃったなって思っててさ」
「私ももう少し目立つ演技をしなきゃなって感じたな、やっぱり主役とかメインヒロインとかやってみたいなって思うし」
「そう言って頂けるとありがたいです、鹿野さんとREYさんは声優以外にも活動されてるのですか?」
「うん、アタシら一応は俳優しながら歌手になるための勉強もしてて、芸能事務所にも所属してるよ」
「実はtika tokaやyour-tubeとかで動画投稿もしたりしてますよ、REYちゃんも」
2人は名前を売るためと趣味を兼ねて動画サイトやSNSに投稿しており、まだ登録者は少ないもののネットの世界でも自分の存在をアピールしてるとの事だ。
彼女たちは同じ高校に通ってるそうで、そこは芸能活動などを本気に生業にしようと頑張る生徒のための芸能学科の高校に在籍してるらしい。
「はぁ~、ミナミちゃんみたくアタシも有名になりたいな~、まぁそのために頑張ってるんだけどねっ!」
「うん、同級生とかにも有名になった子とか、仕事が増えてる子とか結構出てきたし、私ももっと頑張らなくちゃって思う」
芸能学科に通う子達は既に売れてる子も複数居るらしく危機感を感じてるようだ、鹿野もREYも主役級のキャラの座は射止められておらず、俳優業の方でもチョイ役しか入れてない。
「あの、最近は何か変わった事とかはありませんか? 実は配信で話す怖い話のネタを探してまして」
「えっ? そういえばハッピーリレーさんってホラー配信とかもやってますもんね」
ミナミがちょっとしたカマかけのつもりで話を振る、ここでREYから何かを聞いて灰川に相談させようという魂胆だ。
「アタシは無いかな、霊感とか無いっぽくてさ」
「私も無いですね、そういう体験をすれば芸にも生かせると思うんですが」
灰川は特に会話に混ざる事も無く気配を消して歩いてる、単なるマネージャーという以外の雰囲気は出さずに歩いて、やがて駅について2人とは別れたのだった。
なんだか収穫も手応えも無い仕事だった、本当にただ着いて来ただけである。だが仕事なんて普通はこんな物だろう、毎日が刺激に溢れて騒がしかったら疲れてしまう。
それに帯同の仕事はトラブルが起きないように着いて行くのが仕事なのだから、これが最も良い結果だと思う事にする。何事も無い事こそが一番だ、平穏無事こそが何にも代えがたく最も価値のある物だ……それが無料で手に入る当たり前の物だと思い込んでる時が最も危険だ。
タクシーに乗ってミナミを自宅のマンションに送った後に渋谷の灰川の事務所に帰るが、その日の騒ぎは帰ってから発生したのだった。
事務所に帰って中に入って少しだけ残ってた仕事を片付ける、時刻は7時を回っており簡単に終わったと思ってたミナミのボイス収録に意外と時間が掛かってた事に驚いた。
「そろそろ夏休みの季節かぁ…」
学生時代はそれなりに遊んだりして長い休みを楽しんだが、実家にも顔を出さなきゃなとも思う。大人になると夏休みの期間なんて精々が1週間くらいだ、もっと短い人も居れば長い人も居るだろうし、夏休みが無い人も居るだろう。
そんな事を考えていたら……気付いたら机の前のソファーに誰かが座っていた。
「だっ、誰だ!?」
「騒ぐな灰川誠二、依頼がある」
それは灰川より年上、雰囲気的に30代後半くらいの男だった。事務所に入って来たのに全く気が付かなかったし、いつから座ってたのかも分からない。まるで幽霊のように現れた。
咄嗟に灰川は霊能力を全力で回して男に探りを入れる、体に流れる気は正常そのものである事から普通じゃない事が伺える、普通ならこんな状況なら気が乱れて当然だ。
そして分かった事がある、彼は霊能力者だ。
「闇霊能者が何の用だ……金なんか持ってないっすよ…」
霊能者には実は色々な種類が居る、単に霊能力を持ってるだけで普通に仕事や学業をしてる人間、霊能力を生業にしてお祓いなどを職業としてる者、それらの中にも修行を積んだ人やそうでない人、お祓い除霊専門、呪い専門とか様々に居る。
その中に霊能力を裏社会で行使する闇の世界の住人、裏社会を生業とする闇霊能力者、ダーク霊能者と呼ばれる存在も居る。灰川の目の前にいる男がそれだった。
存在する事は知っていたが灰川は闇霊能者に会うのは初めてだった、見た目的にはラフな私服姿の男性だが雰囲気が違う。逃げられない……霊能力に頼らなくてもそれが分かるくらいに、裏社会とか暴力に関して素人の灰川にもそれが分かる雰囲気が出されていた。
「最初に言っておく、俺はいわゆるカタギには手を出さない、今回はそのカタギが巻き込まれる事案が発生してる、見過ごせん事態だ」
「裏社会の人間なんか信用すると思ってるんですか? そもそも何が起こってるって言うんだ、俺もたまに街とかを確認してるけど何も無いぞ」
裏社会の人間は信用に値しないと灰川は思ってる、犯罪や人に迷惑を掛けて生きる血も涙もない連中、そんな奴を信じる理由がない。口から出る言葉は全てが嘘くらいに考えてる。
「今回の現象は裏の事案だ、表の人間には感知しにくい」
「そうですかい…それで何があったって言うんです、言っとくが俺は裏の奴の言う事なんて…」
霊能者とは言っても闇霊能者は裏社会の人間だ、霊能力を使ってロクでもない目的のために人探しをしたり、呪いを飛ばして何かをしたりすると灰川は聞いてる。
そして何より怖いのは別に霊能力だけが彼らの技能という訳では無いという事だ、闇交渉のスペシャリストだったり暴力手段だったりといった事に精通してる人が多いから近寄るなと教えられて来た。
「渋谷区のとある小学校に怪人Nが現れた、既に被害者が出てる」
「……!! それは本当……なんですか…?」
「本当だ、本来なら表の人間に頼るべきでないのは分かってる、だが相手が相手だけに俺だけでは不安だ」
闇霊能者は主に裏社会で霊能力を振るう人間だが、その種別の中には『表に出せない怪現象専門』という者も含まれる。彼はそんな種別に属する人間なのかも知れない。
かつて多数の行方不明児童が出た事件があり、その事件は犯人は上がらず全て謎の行方不明事件として処理された。しかしながら少数の者はそれが怪現象が関わってると気付いてた、灰川家もその一つである。
灰川としては関わる義理は無い、身の危険もあるかも知れないし解決した所で得する事は無い。しかし何の罪もない子供達を見捨てるのは呵責がある、まずは話を聞く事にした。




