64話 ツバサのお礼
地下鉄の駅
Aさんは都内の大学に通う学生で、その日は研究室で作業があり帰るのは夜遅くになってしまった。
大学から帰る時に地下鉄に乗ろうと大学近くの駅に降りて行くと、その時間はAさんだけしか駅構内には居なかったらしい。
特にする事も無く携帯を弄って時間を潰しながら電車を待ってると、駅構内に放送が掛かった。
「お客様に忘れ物のご案内があります、§ΦΔжに心当たりの方は白線の外側にまでお出で下さい」
「えっ?」
あまりに意味の分からない放送だった、忘れ物の部分が早回しの声みたくなって聞き取れなくて、しかも白線の外側に出ろ?そんな事を駅員が言う訳がない。
「お客様に忘れ物のご案内があります、жΞ※§に心当たりの方は白線の外側にまでお出で下さい。お客様に忘れ物の~……」
「な、何よこれっ…?」
明らかに普通ではない構内放送がAさん一人しか居ない駅のホームに響く、怖くなり混乱したAさんは地下鉄の駅から出ようと思ってベンチから立ち上がった時に、線路の方に目線が行った。
そこには何本もの血塗れの手が蠢いてAさんの方に這い出そうとしていたのだ。
それを見てAさんは大声を上げて地下鉄の階段を駆け上り、駅員室に入って事情を説明する。駅員は放送なんかしてないし、仮にしたとしても白線の外側に出ろなんて絶対に言わないと言い切った。
「でもこの駅は大昔に酷い事故があったそうで、そういう体験したって人が駅員にも居るんですよ」
これ以降はAさんはこの駅を使うことは無くなったそうで、少し遠い人通りの多い別の駅を使うようになったそうだ。
「良い怪談だな~」
ツバサが夕ご飯を作ってくれてる間に怪談を聞いてみると、意外にも灰川好みの話だった。ツバサは生意気で騒がしい子だから、怪談のチョイスは変な選び方をするかもと思ってたのだ。
この子は灰川が思ってるよりセンスがあるのかも知れない、それにツバサは中学2年生だから割と精神は成熟してきてるのかもと感じる選び方だった。
「出来たわよ誠治! 美味しく頂きなさい!」
「美味しそうだな、料理が得意なんて知らなかったよ」
ツバサが作ってくれたのはクリームシチューで、パンやサラダの添え物もある美味しそうな夕食だった。
「頂きます、うん美味いっ、こりゃ良いや」
「ふふんっ、シチューはアタシの得意料理なんだからっ」
甘い塩気と温かで滑らかな味、サラダも美味しいし、中学2年生の子が作るには凄い上手なシチューだ。それが普段は生意気なツバサが作ったのだと思うと驚きも追加される。
「ツバサの家で食べた料理も美味しかったけど、もしかしてあれもツバサが作ってたの?」
「アタシが作ったのもあったけど、ほとんどはママが作ってたわよ、誠治はあの時の料理だと何が一番おいしかったかしら?」
「それは断然に卵焼きだな~、あの卵焼きは美味しすぎて一人で半分くらい食っちまったからな」
「~~! あの卵焼きっ…アタシが作ったのよ! ふふんっ、恐れ入ったでしょっ?」
「マジでかっ! メチャ美味しかったぞ!」
「あ、ありがと誠治っ! 美味しいって言ってもらえて、すごくうれしいわっ! 今度作ってあげるわね!」
ツバサは顔を赤くして照れながら答えた、その表情は料理を美味しいと言って貰えて喜ぶ可愛らしい年相応の少女で、普段の生意気さのギャップから余計に可愛く見える。
その後もツバサが作ってくれたシチューを美味しく食べて、結局は全部平らげてしまったのだった。
食後に二人で片付けをしてから、部屋でお茶を飲みつつ雑談に花を咲かせる。
「さっき貰った怪談朗読も良い感じだったぞ、俺の好きな感じの話で面白かったし、ツバサの声もいつもと違う感じで新鮮だった」
「そっちも喜んでもらえてうれしいわねっ、あの話は前に学校の先生から聞いた話なのよ」
学校の先生なんかも、たまに生徒に怖い話を披露したりする。灰川が子供の頃に先生から聞いた怖い話は今でも覚えてる。
「ところで誠治っ…そ、そっちに行っても、良いかしらっ…?」
「ん? ああ、どうしたんだ?」
灰川は別に構わないと言い、ツバサは灰川の座る対面に行って……なんと灰川が座布団で胡坐をかいて座ってる中に腰掛けて来たのだ。
「お、おい、なにもそんな所に座らなくても」
「何か言ったかしら誠治? 誠治は良いって言ったわよね?」
「お、おう…まあ…」
まさかツバサに言葉の粗を付かれるとは思ってなかった、取りあえずはすぐに気が済むだろうと思って放っておく事にする。
しかし…これは中々に、何というか体温が伝わって温かく、目の下で揺れる普段とは違った見え方のツインテールとか、色々と普段にツバサと接するのとでは少し違った感じがする。
今のツバサはエプロンを脱いでハーフパンツとTシャツ姿で、女の子の少し高めの体温がかなり密接に感じられる。灰川は中学生に変な感情を催すような心は無いが、この距離は何というか……精神的にも物理的にも近すぎる。
「くんくん……やっぱり誠治って良い香りがするわねっ、すごく落ち着くし、なんだか幸せな気持ちになってくるような気がするわっ」
「そうなのか? 俺は何も分かんないけどなぁ」
ツバサは霊嗅覚という霊能力を有する家系の生まれで、その力はツバサにも備わってると聞いた。その霊嗅覚で普通は感じ取れない第6感の香りのような物を、灰川から感じ取ってるのかもしれない。
「あ、あんまり動くなよ…足が痺れるからよ」
「くんくん…す~は~…、ん~…落ち着く…~」
モゾモゾと足の中で動かれる度に体が擦れる、ツバサとしてはスキンシップ程度に思ってるのかもしれないが……中学2年生だと、いくら体が小さとはいえそれなりに質感は感じてしまう。こうまで密着すると体の温かさやツバサの柔らかさが伝わってきて、少しは意識してしまった。
それにツバサが灰川を良い香りだと言ったのと同様に、灰川にもツバサの香りが伝わって来るのだ。甘い花のような、レモンのような、そんな良い香りが入り混じってツバサから香って来る。
「つ、ツバサ、そろそろ気が済んだだろ?」
「ん…もうちょっと…、くんくん……っ、はふぅ…」
ツバサの母の貴子さんが言っていたことを思い出す、飛車原家の女は大体が匂いフェチ……ツバサも絶対にそれだと灰川は感じ入る。
しかも貴子さんは中学1年生の頃に未来の夫になる人の部屋に忍び込んで、衣服の匂い、それも靴下の香りを嗅いでたというアグレッシブな真似をしてた。
その血を受け継ぐツバサは現在中学2年生、貴子さんがヤバい真似をした年齢とほぼ同じなのである。
「ね…ねぇ、誠治、あなたもアタシのこと良い匂いって思ったり…する?」
「あ、ああ…まぁ」
嫌な匂いがするなんて女の子に対して口が裂けても言えないし、それにツバサは良い香りがするから本当の事を口にした。
なんだか今のツバサは普段の喧しさは鳴りを潜め、少ししおらしい可愛い女の子に見える。
実際にツバサは可愛い子だ、性格通り生意気そうな顔だが愛嬌もある顔で、一見すると子供っぽいツインテールヘアーが何かと似合ってる。将来は美人になる事が確約されたようなルックス、そんな顔でマジマジと見られると良い年こいた灰川が、少しドキリとさせられてしまう事もある。
それに性格だって本当は優しく思いやりがあり、その場に居るだけで明るい気持ちにさせてくれるような元気さがある子だ。
ツバサの母と付き合った父親の気持ちが今なら何となく分かる、こんな子に積極的に迫られたら大人と言えども心は少しは揺れてしまうだろう。
「じゃ…じゃあ…、アタシのことは、す、好きかしらっ…?」
「そりゃ好きか嫌いかの2択だったら好きだぞ、じゃなきゃこんなに関わらんって、料理も上手いし優しくて色んな事に気が付く性格だし、ちょっと生意気な所も慣れてくると可愛いしな」
「~~!」
そう答えると声に反応したかのようにツインテールが揺れる、なんだか犬の尻尾みたいで面白いが……それと同時にツバサと密着してる部分の温度が上がってる感覚がする、それはツバサの体温が上昇してるのだと気付く。なんだかホッカイロみたいで温かくて気持ち良い。
そんなツバサは足の中で、やや緊張した面持ちでこんな事を聞いて来た。
「~~! ぁ、ぁぅ…じゃあ、中学生と…大人がお付き合いするのってっ…アリだと思うかしらっ…?」
この質問はかなり勇気を出して絞り出した事が伺える声だった、この質問をする意味をツバサは理解してる。
灰川は灰川で突然の事に頭が少し回り切ってない、本来なら適当にあしらって笑い話に持ってくような場面だが、ツバサの赤らんだ表情と眼差しに思考がそのような方向に向かってくれない。
「あ、ああ…まあ、本人同士が良いって言うなら良いんじゃないか」
「~! そ、そうよねっ…! 分かってるじゃない誠治…っ!」
本来ならそれは駄目だと答えるべき質問だが、そう答えてしまうとツバサの母に角が立つ。これが無難な答え方だったのだ。
飛車原家の女性は相性の良い男性には良い香りが感じ取れ、ツバサは灰川を良い香りで落ち着くと言う。そこにこんな質問を投げかけられるとなると、いかに灰川でもツバサが自分に強い好感を持ってる事は感づくという物だ。
「そ、それでね誠治っ、飛車原家には昔からっ…相性の良い人に靴下のっ」
「あっ、電話が来たっ、すまんツバサ」
灰川はスマホを取って顔が今だ赤らんだままのツバサを足から素早く降ろし、少し離れて電話で話すフリをする。本当は電話など来てなかったが、そうしなければヤバイと思ったのだ。
ツバサの母の貴子は以前に夫にアプローチを掛けてたが、最初は「中学生の子と付き合う事は出来ないよ」と子供をあやすように笑いながら諫められてたらしい。
それでもアプローチを続けて行って、悪い感情は持たれて無かったそうだが、どうしても付き合ってくれない……それに業を煮やした貴子は、ある日にぐっすり寝てる夫の部屋に忍び込み。
『中学1年生の時に私が履いた靴下を使って、夫に素直になって貰いました♪ そしたら一発でお付き合いする事になったんです』
と言ってたのだ。何をしたのか知らないが、とにかくヤバイ!灰川の直感がそう告げていたからツバサから離れるために嘘の電話を取ったのである。
「いや~、金属探知機のサブスクの勧誘だったわ、危うく申し込む所だったぜ!」
「そ、そうなのねっ、よ、良かったわねっ」
意味不明な言い訳に意味不明な受け答え、場の空気を完全に入れ替える事に成功したのだった。
「そろそろ帰る時間だな、送ってくからよ」
「ありがと誠治っ、女の子を一人で帰さないのは見上げた根性ね!」
こうしてツバサを自宅まで送ってく事になり、アパートを二人で出た。
今回のやり取りはツバサの気の迷いとして処理する事に灰川は決め、心の中で掘り返さない事に決定した。
「ねぇ誠治、Vtuberの恋愛ってどう思うかしら?」
帰りの道中に唐突にそんな事を聞かれた、ツバサの表情は至って普通であり、さっきのような雰囲気は無い。
「俺としてはだけど、それってもうどうしようも無い事だと思う、恋愛感情の制御なんて簡単な事じゃないからな」
女優、アイドルなどは恋愛禁止の最たる例だろう。実際にその禁を破ってしまった例もあり、そういう場合はグループ卒業とか、続投しても人気は下がるという事例がある。
ではVtuberはどうだろうか?やはりファンから良い感情は持たれにくいだろう、しかしVtuberはそういった事がバレにくい環境が整っており、実際には裏で恋愛してる人は多そうにも思える。
法律的に見ればアイドル等の恋愛禁止は法的拘束力は無い、不倫や浮気でもない限りはとやかく言われる筋合いは無いのである。
問題になるのはファンの感情では無いだろうか、別に良いじゃんと言うファンも居るだろうが、大多数からは好感は持たれにくい。
では何故か、それはファンが求めてるのは活動に一筋でひたむきなアイドルの姿勢だったり、純粋さやファンに向ける気持ちを少なくしないで欲しいという考えからだと個人的には思う。
もちろん他にも様々で数えきれないくらいの想いや考えはあるに決まってる、しかしそれはアイドル個人の主権を侵害して良い理由にはなりえない。個人の自由とは、どのような理由があろうと他者に奪われて良い物では無いのだ。
「でも覚悟は必要だろうな、有名になれば男だろうが女だろうが恋愛に限らず動向は覚悟が必要になる」
「そうね、そうよねっ…! 覚悟か…」
アイドルの恋愛はアウトかセーフか、この論争は今も決着はつかない。そして時代は変わり今は新たなアイドルの形とも言えるVtuberが誕生した、彼ら彼女らも同じように恋愛で悩む事は多いだろう。
「でもな、好きになったら気持ちは抑えられんわな、大人だって簡単じゃないんだしな」
「うん…」
感情の制御は長年の修行を積んだ神職仏職の人間でも難しい、偉い坊さんほど怒りっぽい人が多かったり、弟子や門下が多い寺社仏閣では後輩イジメがあったりする。感情とはある意味では人間の業とも言える物なのだろう。
完全に制御できたとしたら、それはもう悟りを開いたと言って良いと思う。それが出来ないから人間なのだ。
「まあとにかく、ツバサに恋愛はまだ早い、もっと見る目を養ってから~……」
「ふふんっ、覚悟も気持ちも大丈夫よっ! アタシは恋愛バレしたって最高のVtuberになって見せるんだからっ」
「お、おう…そうか、頑張れよ…」
恋愛バレしたって成功する芸能人や歌手は沢山いる、なにも気負い過ぎる必要は無いだろう。それに思春期の子は抑圧されれば何が爆発するか分からない。
ツバサはまだ人生経験が少ない、面と向かって好きとか言われたわけでは無いが、自分に好意を持ってるのも一時的な物だろうと灰川は考える。恋愛に関しても未経験なのは見て取れるし、有名になった人の恋愛の現実だってまだ分からないだろう。
ツバサには自分は兄のような感覚で接するのが丁度良いだろう、そうすれば近しくも良い関係が築けるはずだ。
しかし飛車原家の女性は相性の良い男性は香りで分かる、その中でも母の貴子から見ても灰川とツバサの相性は素晴らしく良いそうだ。
「誠治っ」
「ん?」
そんなこんなで飛車原の家に着き、挨拶をしてから家に入るのかと思いきや。
「今度は卵焼きを作ってあげるわっ! またお腹いっぱいにしてあげるんだからっ!」
「おう、楽しみにしてるぞツバサ」
こうしてツバサからのお礼は終わり、灰川はもう一度ツバサとルルエルちゃんの怪談を聞こうと考えながら自宅に戻ったのだった。




